195話 牙血の王再び
一歩。また一歩。
地の底を這うような重く鈍い足音が、闇の奥から確実に近づいてくる。
その足音は、先ほどまでのヴォルグのものとは明らかに質が違っていた。
もっと重く、もっと胸を押しつぶすような圧倒的な圧を伴う何か。
床の石畳そのものが、その一歩一歩に踏み潰されているような錯覚さえ覚える。
ヴォルグの険しい表情に、わずかな強張りと緊張が走った。
「……クラウス様?」
そのすがるような呟きを聞いた瞬間、俺の心臓は激しく跳ね上がり、冷たい汗が背中を伝った。
暗い廊下の奥から、ゆっくりと姿を現したのは、威風堂々たるサーベルタイガーの顔を持つ、長身の男だった。
他の牙血族とは、その存在がまとう気配の密度そのものが次元違いに重い。
ただそこに立っているだけで、周囲の空気が押し潰され、呼吸すらままならなくなっていく。
クラウス・バイト。
あの日、王都のスラムで死闘を演じ、お互いのすべてをぶつけ合った宿敵が、今、冷たい眼差しを向けて目の前に立っていた。
クラウスの視線が、俺とタツヨの姿を捉えた瞬間、大きく目を見開いた。
「……貴様ら、まさか」
一瞬、絶句したように動きを止める。だが、それも一瞬だった。
「――人間ごときが、よくもこの私の館に、のこのこと足を踏み入れたなァ!!」
クラウスの咆哮じみた怒声が、廊下全体を震わせた。
「命知らずにも程がある! 舐めるのも大概にしろッ!!」
その怒りの圧に、空気そのものが張り詰めるのが分かった。
ヴォルグが、困惑した様子でクラウスと俺たちを交互に見た。
「クラウス様、こいつらは……?」
「王都のスラムで、私を痛めつけた人間どもだ」
クラウスは静かに、しかし忌々しげに答えた。
「なるほど。お前らがガルダを殺した女の片割れか?」
ヴォルグの声に、隠しきれない憎悪が滲んだ。
「どうだ? 俺に仲間を傷つけられて、店も壊されて。ざまあねえな! それでわざわざ来たのか?」
クラウスは、俺とタツヨを品定めするかのように、冷ややかな視線でゆっくりと見据えた。
「まさか、人間の身で、単身この館の奥まで踏み込んでくるとはな。無謀を通り越して、いっそ滑稽だ」
「店、めちゃくちゃにされて、仲間も傷つけられて。それで、何もしないでいられるわけないだろ!」
俺は、纏ったファフニールが熱を帯びていくのを感じながら、抑えきれない怒りのままに叫んだ。
クラウスの口元が、わずかに、冷酷に歪んだ。
それは笑みなどではなく、死地をさまよう獲物を前にした飢えた獣の表情そのものだった。
「決着、だと? くだらん」
クラウスは、鼻で笑うように吐き捨てた。
「油断していたのは事実だ」
「だが、それを分からずに、自分達の力を過信して、自ら殺されに来るとはな」
その傲慢なセリフに、タツヨは返事をする代わりに、怒りで真っ白になるほど強く拳を握りしめた。
「上等だ。今度こそ、決着つけようぜ」
「だが、こんな狭い廊下では、満足に暴れられまい」
クラウスは鬱陶しそうに周囲の黒い壁を一瞥し、冷たく吐き捨てる。
「ついてこい。おあつらえ向きの場所がある」
そう告げると、クラウスは悠然と踵を返し、廊下の奥へと歩き出した。
ヴォルグもまた、殺意をたぎらせながらその後に続く。
俺たちは、いつでも迎撃できるように武器を構え、警戒を怠らず、その後を追った。
やがて辿り着いたのは、天井が高く、息が詰まるほど広々とした大広間だった。
等間隔に並んだ冷たい石柱の向こうには何もなく、ただ開けた空間が広がっている。
まるで、ここで血みどろの殺し合いが行われるために、最初から用意されていたかのような場所だった。
「ここなら、遠慮はいらんだろう」
クラウスが広間の中央でピタリと足を止め、ゆっくりと振り返る。
「私はこの二人の相手をする」
クラウスはちらりと冷ややかな視線をヴォルグへ送った。
「ヴォルグ、お前は残りの三人を好きに料理するといい」
「……そういうことなら」
ヴォルグの醜悪な口元が、さらに獰猛に歪み、牙がむき出しになる。
「クラウス様の許可も出たことだしな。テメェら、覚悟しとけよ」
そのヴォルグの殺気立った様子を見て、俺は背後を振り返り、素早く仲間たちへ視線を送った。
「タツヨ、クラウスは俺たちでやろう」
「ああ」
短く応じたタツヨの瞳には、一切の迷いすらなかった。
「ミライ、カミラ、ムサシ。ヴォルグは任せた」
三人はそれぞれの武器を手に取り、頼もしく頷き返す。
「望むところだ」
カミラは長大なグレイブを鮮やかに構えながら不敵に笑う。
「MG倶楽部を壊した礼、たっぷりお返ししてやる」
ムサシは無言のまま、冷徹な光を宿した二刀を構え、戦闘態勢に入った。
ミライは両拳にエンペラーナックルをはめた。
しかしミライだけは、一瞬だけ恐怖に満ちた不安げな表情を浮かべた。
だが、すぐに唇を噛み締め、両手で拳を強く握りしめることで、その瞳を強い決意に満ちた真剣な眼差しへと変えてみせた。
「……大丈夫。三人でなら、いける」
そのミライの覚悟を見たヴォルグは、忌々しげに舌打ちを鳴らした。
「三人がかりか。人間らしい、姑息なやり方だな」
「うるせえ」
タツヨが低く唸るような、拒絶の声を叩き返す。
「テメェは、一人で三軒も店を潰しただろうが。お互い様だよ」
ヴォルグはそれ以上言い返さず、ただ殺意に歪んだ牙を剥き出しにして嗤った。
「クラウス様。あんたがそう言うなら、俺は好きにやらせてもらう」
クラウスはヴォルグの言葉など耳に入っていないかのように、俺とタツヨの二人だけを真っ直ぐに見据えていた。
「さて、続きを始めようか」
その静かな宣告と同時に、広間の冷え切った空気が、一気に引き裂かれるような殺気で張り詰めた。
逃げ場のない二つの死闘が、まさに今、同時に幕を開けようとしていた。
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