194話 牙の饗宴
廃屋を出た俺たちは、再びクラウスの館へと向かった。
空の青はすでに黒みを帯び、夜の帳が落ちるまで、そう時間は残されていない。予定を大幅に前倒しした強行軍だったが、立ち止まるという選択肢は最初から用意されていなかった。
「気配、殺していくぞ」
ムサシが低く言う。
その声音に滲む緊張感が、俺の肌を冷たく撫でた。
「分かってる」
街の外れから中心部へ戻る道のりは、行きよりもずっと濃密な恐怖を伴っていた。
廃屋での一件が、いつ背後から発覚してもおかしくない。すれ違う住人の何気ない視線一つに、俺たちは何度も心臓を跳ねさせ、乾いた土壁や家並みの陰に身を潜めた。
幸い、街全体に大きな騒ぎが起きている様子はまだない。
三人の巡回兵が消えた異変に、誰も気づいていないのかもしれなかった。
それでも、ほんの一瞬の油断が命取りになる。
「急ぐが、慎重にな」
俺は喉の奥から絞り出すように皆に言った。
「ああ」
タツヨが短く答える。
その声には、押し殺した焦燥と、それをすべて焼き尽くすほど強い決意が滲んでいた。
やがて、冷たい石造りの建物そのものが威圧感を放っているようなクラウスの館が、再び視界に入る。
先ほど確認した通用口の周辺には、予想よりも人の気配が少なかった。
巡回の交代時間なのだろうか。
それとも、俺たちが消した三人の穴が、まだぽっかりと空いたままなのか。
「今のうちだ」
俺たちは物陰から物陰へと足音を消して滑り込み、館の敷地内へと深く侵入していく。
館の内部は、外観から想像する以上に広く、そして歪だった。
自然の岩肌をそのまま削り取ったような黒い壁が、複雑に入り組んでいる。
等間隔に据えられた松明の炎が、赤い舌を揺らしながら冷たい壁に不気味な影を落としていた。
「どっちに行けば……」
ミライが掠れた小声で呟き、震える指先で自分の服の裾を強く握りしめる。
「こっちだ」
俺は、野生の勘にすがるようにそう答えた。
確証などどこにもなかった。
だが、この建物の中心へ足を踏み入れるほど、重く淀んだ空気が肌を突き刺すように感じられる。
冷え切った廊下を進むたび、自分の心臓の音がうるさいほど大きく響く。
誰かの視線に捉えられたら、それで終わりだ。
破滅の輪郭が頭をよぎる。
それでも、ここで足を止めるわけにはいかなかった。
その時だった。
前方の闇を孕んだ角から、重苦しい気配が確実に近づいてくる。
全員が反射的に息を呑み、吸い寄せられるように物陰へと身を滑り込ませた。
曲がり角の向こうから姿を現したのは、醜悪に逆立った灰色の毛並みを持つ、狼の顔をした男だった。
ハクさんから聞いていた特徴と、寸分違わず一致している。
(ヴォルグ、なのか……?)
ヴォルグはこちらの存在に気づいていない様子で、冷徹な石床を悠然と踏み鳴らしながら歩いていた。
何かを深く思案しているのか、その獣の顔には苛立った険しい皺が刻まれている。
「……」
タツヨが、俺の腕を氷のように冷たい手で強く掴んだ。
「まだだ、動くな」と制止するように。
頭では分かっていた。
ここで飛び出せば、計画のすべてが水泡に帰す。
理性はそう警告し続けていた。
だが、俺の身体は勝手に震え、言うことを聞かなかった。
脳裏に、あの日の光景がフラッシュバックする。
黒煙を上げて焼け落ちたジョジョエンの残骸。
ハクさんの背中深くに刻まれた痛々しい傷。
ゼノンとギノンが流した血。
バッドとシドの痛みに歪んだ顔。
そして、カミラとミライとグラニータが受けた傷の数々。
それらが走馬灯のように次々と蘇り、俺の理性を焼き切っていく。
気がついた時には、俺はタツヨの手を荒々しく振り払い、隠れていた物陰から自らの足で飛び出していた。
「お前が……ヴォルグかッ!!」
引き裂かれるような怒声が、静まり返った廊下に激しく反響する。
ヴォルグは文字通り飛び上がるほど驚き、反射的に足を止めて振り返った。
「……誰だ、テメェ」
その獣の目が、信じられないものを見るように大きく見開かれる。
「――人間だと!? ここをどこだと思ってやがる、クラウス様の館だぞ! なぜ、こんな場所に人間が……!」
声の裏側に隠しきれない動揺と、底知れない警戒の色が滲んでいた。
人間ごときが、単独でこの深部まで潜り込めるはずがない。
それがどれほど常軌を逸した異常事態なのか、その男の狼狽した反応が何よりも雄弁に物語っていた。
「俺の店を三軒とも、めちゃくちゃにしてくれたな」
俺は、握り締めたファフニールが怒りに呼応して赤く熱を帯びていくのを手のひらに感じながら、静かに、しかし内臓まで焼き尽くしそうな殺意を込めて吐き捨てる。
「お前が傷つけた仲間たち。その報いを受けてもらう」
「はっ……」
ヴォルグの口元が、醜悪で獰猛な笑みに歪んだ。
「テメェらか。ガルダを殺った女の片割れで、クラウス様を痛めつけた奴らってのは」
その名前が出た瞬間、男の喉の奥から漏れた声には、底無しの憎悪が滲んでいた。
「よくもノコノコ、自分から死に場所に来てくれたもんだ」
「テメェには、聞きたいことがある」
タツヨが俺のすぐ隣に滑るように並び、凍てつくような低い声で言い放った。
「ガルダの仇討ちだかなんだか知らねえが、罪もねえ店員たちまで巻き込みやがって。それだけは、絶対に許さねえ」
「罪もねえ、だと?」
ヴォルグはせせら笑うように、冷酷な鼻息を鳴らした。
「知るかよ、そんなもん。俺の親友を殺した人間どもへの、報復だ。関係ねえ奴らを巻き込んで何が悪い」
その侮蔑に満ちた言葉を聞いた瞬間、俺の中で張り詰めていた最後の糸が、音を立てて完全に切れた。
廊下の澱んだ空気が、一気に凍りつくような緊張に包まれる。
ムサシ、カミラ、ミライが、音もなく俺たちの背後に隙なく並び立った。
誰もが武器を握り締め、その目に迷いの色は微塵もなかった。
「テメェら全員、ここで苦しめながら殺してやるよ」
ヴォルグの全身から、濃密な殺気が立ち上る。
その瞬間だった。
廊下のさらに奥の闇から、世界が揺らぐような重く鈍い足音が響き渡った。
ヴォルグの鋭い視線が、不意に、ほんの一瞬だけそちらへと向けられる。
俺たちも思わず息を止めた。
一歩。
また一歩。
何者かが、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
その正体を、俺たちはまだ知らなかった。
かなり良くなっています。特に今回は、最後の足音を説明しすぎず、「一歩。また一歩。」で次話への圧を残す形にしています。
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