192話 牙血の大地
夜明けの森は、思っていたよりも深かった。
木々は密に生い茂り、朝の薄い光すらほとんど地面まで届かない。足元は湿った土と厚く積もった枯れ葉に覆われ、一歩進むごとに、踏みしめる小さな音が静かな森の中へ吸い込まれていった。
「静かに進むぞ」
先頭を歩いていたタツヨが、小声で言った。
誰も、それに異論はなかった。
俺たちは足音をできる限り抑えながら、慎重に森の奥を進んでいく。
しばらく歩き続けると、やがて木々の隙間から、遠くに開けた景色が見えてきた。
「……あれか」
俺たちは足を止め、木の陰に身を隠したまま、慎重にその先の様子を窺った。
見えたのは、鬼人族領地の街とはまるで違う光景だった。
石造りの整った建物が並んでいたあちらとは異なり、ここには荒々しい岩肌をそのまま利用したような、無骨な建造物が立ち並んでいる。人影も少ない。そして、道を行き交う者たちの表情は、一様に硬かった。
「雰囲気が違うな」
タツヨが低く呟く。
「ああ」
俺も同意した。鬼人族領地の街で感じた、あの「普通の日常」とは明らかに空気が違っている。街全体に、どこか張り詰めたような緊張感が漂っていた。
「油断はできない」
ムサシが低く言った。
「あそこに、俺たちみたいなのが入って大丈夫かな」
ミライが不安そうに呟く。
「今のところ、他に選択肢はないだろ」
カミラが肩をすくめた。
俺たちは、すぐに街へ入ることはせず、しばらくその場に留まって様子を観察することにした。
遠目に見る限り、街の中心には一際大きな建物があった。周囲の建物とは明らかに規模が違う。あれが、もしかしたらクラウスの本邸へ繋がる何らかの場所なのかもしれない。
だが、確証はなかった。
「街に入って、情報を集める必要がある」
俺は皆に向かって言った。
「それと、街に入って情報を集める必要がある」
「危険は覚悟の上か」
タツヨが確認するように聞いてくる。
「ああ」
俺は頷いた。エルグの忠告は、今も耳の奥に残っている。人間だと知られれば、それだけで命取りになる。
「変装するしかないな」
カミラが言った。
「変装って、どうやって?」
ミライが首を傾げる。
「フードを深く被る。それに、極力目立たない格好をする。完璧じゃないけど、何もしないよりはマシになるはずだ」
カミラは、自分のアイテムボックスから、フード付きの外套を人数分取り出した。カシムさんが用意してくれた荷の中に、こうした変装用の衣類まで含まれていたのは幸運だった。
一人ずつ、外套を身に着ける。そしてフードを深く被り、できるだけ顔が見えないように整えた。
「これで、少しはマシか」
タツヨが自分の姿を見下ろしながら言う。
「気休め程度だけどな」
ムサシが静かに言った。
「フードを被ったところで、顔を見られりゃ人間だとすぐ分かる。それでも、遠目に一瞬誤魔化せるだけで、意味はある」
「だからこそ、余計なことはするなよ」
ムサシが続けて言う。
「目立つ行動は避ける。必要以上に話さない。それで行こう」
「ああ」
準備を整えると、俺たちは森を出て、街へと続く開けた道へ足を踏み出した。
街まで、あと少し。だが、その一歩一歩が、これまでとは比べ物にならないほど重く感じられた。
ここから先は、敵の領域だ。何か一つ間違えれば、逃げ場はない。
街の入り口には、これといった検問はなかった。鬼人族領地の交易館のような、厳重な仕組みも見当たらない。代わりに、ただ古びて薄汚れた門が、街の入り口に寂しげに立っているだけだった。
「意外だな」
タツヨが小さく呟く。
「警戒が緩いのか?」
「いや……逆かもな」
俺は周囲を見回しながら言った。
「わざわざ検問を敷く必要がないってことだ。人間如きが単独で、あるいは少人数で乗り込んでくること自体、想定してないのかもしれない」
その言葉に、誰も反論しなかった。俺たちは警戒を緩めることなく、街の中へと足を踏み入れた。
中に入ると、思っていた以上に静かだった。中心部に近い場所には、立派な石造りの建物が並んでいる。だが、そこから少し離れると、建物の造りは急に粗末なものへと変わっていった。ひび割れた壁。崩れかけた屋根。道端には、疲れ切ったような顔をした牙血族の住人たちが座り込んでいる。
「……思ったより、貧しいな」
タツヨが小声で言った。
「思ったより、貧富の差が激しいんだな」
「牙血族も一枚岩じゃない、ってことだろ」
カミラが淡々と答えた。
道端に座り込んでいた老いた牙血族の一人が、俺たちをゆっくりと見上げた。虎を思わせる顔立ちをしている。
その目が、俺たちの顔で止まった。
一瞬、空気が張り詰める。
「……人間か」
老人は、隠す様子もなく、はっきりとそう言った。
心臓が跳ねる。だが、逃げるわけにも、否定するわけにもいかなかった。
「……そうだ」
俺は覚悟を決めて答えた。
老人は、俺たちを一人ずつ、値踏みするようにゆっくりと眺めた。ムサシ、タツヨ、カミラへと視線が移るたび、微かに眉が動く。
それでも、老人は動かなかった。声を張り上げることも、誰かを呼ぶこともしなかった。
「……騒がないのか」
タツヨが、探るように聞いた。
老人は、面倒くさそうに肩をすくめた。
「騒いで、何になる。お前さんらを叩き出したところで、俺の腹は膨れねえし、国が飯を恵んでくれるわけでもねえ」
老人は、乾いた笑い声を漏らした。
「国のために体を張る義理なんざ、俺にはねえよ。人間が来ようが魔族が来ようが、俺の暮らしは何一つ変わらねえ。だったら、わざわざ首を突っ込んで、面倒事に巻き込まれる方が損ってもんだ」
その言葉に、俺は思わず言葉を失った。
恐れているわけでも、見逃してくれているわけでもない。ただ、関わるだけの理由がない。それだけのことだった。
「珍しいこともあるもんだ。最近は、余所者があまり来ねえからな」
「何かあったのか?」
俺はできるだけ自然に尋ねた。
「クラウス様の一件があってから、街全体がピリピリしてるのさ。おかげで商売も上がったりだ」
老人は、力なく笑った。
「クラウス様、クラウス様って、皆が皆、有難がってるわけじゃねえんだよ」
その言葉に、俺たちはわずかに意識を集中させた。
老人は、吐き出すように続ける。
「あの人が意地張って、人間と揉め事を起こすたびに、交易が滞って、物の値段が跳ね上がる。割を食うのは、俺たちみたいな下々の連中さ。だが、そのクラウス様のために、俺が代わりにお前さんらをとっちめてやる義理もねえ。それだけの話だ」
俺は思わず、タツヨと視線を交わした。
やはり、予想していた通りだった。牙血族という一つの種族の中にも、様々な立場と本音がある。クラウスを支持する者ばかりではない。
むしろ、その行動に不満を抱いている者も少なくないのかもしれなかった。
そして何より、その不満を抱えた者たちにとって、目の前の人間をどうこうすることは、彼ら自身の暮らしには何の関係もない話だった。
「大変なんだな」
俺がそう言うと、老人は肩をすくめた。
「まあな。それでも、生きていかなきゃならねえのは変わらねえよ」
それ以上、老人は何も語らなかった。俺たちは軽く礼を言うと、その場を後にした。
「……今の話、使えそうだな」
少し離れたところまで歩いた後、タツヨが小声で言った。
「ああ」
俺は頷いた。
「それに、分かったこともある」
「何がだ?」
「ここじゃ、俺たちが人間だとバレても、それだけで即座に襲われるわけじゃないってことだ。少なくとも、こういう場所では」
タツヨが、なるほどというように頷いた。
「国のために動く義理がない連中ばかり、ってことか」
「ああ。だが、油断はするな。全員が今の爺さんと同じとは限らない」
ムサシが静かに釘を刺した。
「クラウスに近い連中や、忠誠心の強い奴らは話が別だ」
「分かってる」
俺たちは、街の奥へ向かって再び歩き出す。
クラウスの居場所。そして、ヴォルグの足取り。その二つを追うために、俺たちはさらに牙血族の領地の奥へと足を踏み入れていった。
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