191話 風に乗る影
羽人族の男との話がまとまったのは、まだ太陽が高く空を照らしている昼下がりだった。
だが、実際に出発するのは夜になってからだという。
周囲の視線が闇に紛れる時間を待つためだ。
「夜の方が見つかりにくい。国境を越えるなら、暗いうちに限る」
それまでの間、俺たちは羽人族の拠点の隅で静かに待機することになった。
やがて日が沈み、辺りがすっかり暗くなった頃。
羽人族の男が俺たちの前へやってきた。
「行くぞ」
羽人族の拠点の奥。
幾重にも重なる巨木の陰に隠れるように、一際大きな建物があった。
案内された場所を見て、俺たちは思わず足を止めた。
そこにいたのは、巨大な鳥だった。
翼を広げれば、小さな家一軒分はありそうな巨体。
全身を覆う羽毛は、深い夜のように黒い。
月明かりの下では周囲の闇に溶け込み、その姿がぼんやりとしか見えなかった。
「……こいつに乗るのか」
タツヨが呆然とした声で呟く。
「ヨミガラスだ」
エルグが素っ気なく答えた。
「気配を消すのが得意な鳥でな。普通の見張りじゃ、まず気づかれねえ」
「あなたの名前は?」
俺が尋ねると、男は少しだけこちらを見た。
「……エルグ」
それだけ答えると、エルグは軽々とヨミガラスの背へ飛び乗った。
「早く乗れ。夜のうちに国境を越えるぞ」
俺たちは顔を見合わせた。
そして覚悟を決め、一人ずつヨミガラスの背へ乗っていく。
想像していたより、その背中は広かった。
厚い羽毛の間にしっかりと体を沈めれば、簡単に振り落とされることはなさそうだ。
「全員、しっかり掴まってろ」
エルグの声と同時に、ヨミガラスが巨大な翼を広げた。
次の瞬間。
体がふわりと浮き上がる。
一瞬、内臓が浮き上がるような感覚がした。
そして、その巨体が夜空へ舞い上がった。
冷たい夜風が、一気に顔へ吹きつける。
「うおっ!?」
タツヨが思わず声を上げた。
「静かにしろ」
エルグの短い一言に、タツヨは慌てて口を閉じた。
恐る恐る下を見る。
先ほどまでいた街の灯りが、どんどん小さくなっていく。
羽人族の拠点も、鬱蒼とした木々の中に紛れ、すでにどこにあるのか分からなかった。
眼下に広がっているのは、暗い大地だけだった。
時折、遠くに小さな灯りが見える。
あれが、鬼人族の統治する街なのだろう。
ヨミガラスは一定の高さを保ちながら、夜空を滑るように飛び続ける。
驚くことに、これほど大きな鳥なのに羽ばたく音はほとんど聞こえなかった。
「静かだな」
ムサシが珍しく感心したように呟く。
「気配を殺すのが、こいつの取り柄だ」
エルグは前を向いたまま答えた。
「見張りの目にも、こいつは気づかれにくい」
「だからこそ、うちの商売が成り立ってる」
その言葉を聞きながら、俺は改めて思った。
見つかれば、ただでは済まない。
それでも羽人族は、こうして危険な仕事を続けている。
俺たちが想像している以上に、経験と技術があるのだろう。
「どれくらいで着く?」
俺が尋ねると、エルグは少しだけ考えるように黙った。
「……夜が明ける前には、国境を越えられる」
「その先は?」
「そこから先は、あんたらの仕事だろ」
エルグは振り返らなかった。
「俺は、越えさせるまでが役目だ」
その言葉に、俺は何も言えなかった。
確かにその通りだ。
牙血族の領地へ入り、そこでヴォルグを探す。
それは俺たち自身がやるべきことだった。
しばらく、誰も話さなかった。
聞こえるのは風の音だけ。
俺たちは暗い空の下を、ただ目的地へ向かって進み続けた。
どれほど飛び続けただろうか。
暗闇に目が慣れてきた頃だった。
ふいに、前にいるエルグの背中がわずかに強張った。
「……止まれ」
短い言葉と同時に、ヨミガラスが翼の角度を変える。
そして、ゆっくりと高度を落とし始めた。
「どうした?」
「下だ。見張りの灯りが動いてる」
言われて目を凝らす。
遥か下の地上に、小さな灯りがいくつも見えた。
松明の光だ。
それが、俺たちの進行方向へ向かって移動している。
「気づかれたのか?」
「いや、まだだ」
エルグは短く答えた。
「だが、このまま真っ直ぐ進めば、進路が重なる」
エルグは手綱を引いた。
ヨミガラスが大きく旋回する。
「捕まれ。揺れるぞ」
その瞬間、体が大きく傾いた。
ミライが小さな悲鳴を上げそうになり、慌てて口を押さえる。
ヨミガラスは松明の灯りから離れるように、大きく進路を変えていった。
「……見張り、多いのか?」
タツヨが小声で尋ねる。
「普段は、こんなにいねえ」
エルグの声には苛立ちが滲んでいた。
「俺一人なら、こんな遠回りする必要もねえんだがな」
「人間を乗せてるとなりゃ、話は別だ」
「俺たちのせいで?」
「ああ」
エルグは淡々と答えた。
「王都を襲った牙血族の一件、聞いてるだろ」
「あれ以来、人間の出入りに対する警戒が、普段より厳しくなってる」
「まったく、面倒な時期に頼まれたもんだ」
俺とタツヨは、暗闇の中で顔を見合わせた。
皮肉な話だった。
俺たちが追っているヴォルグが起こした事件。
そのせいで、今まさに俺たち自身が行動しづらくなっている。
それでもヨミガラスは、エルグの指示に従いながら、見張りの灯りを避けて進み続けた。
しばらくすると、再び本来の進路へ戻っていく。
誰も口を開かなかった。
やがて。
東の空が、ほんの少しだけ明るくなり始めた頃だった。
「……着くぞ」
エルグの声に、俺たちは下を見た。
そこには、深い森が広がっていた。
先ほどまで飛んでいた平原とは違う。
木々が密集し、その奥まで見通すことができない。
ヨミガラスは、その森の外れにあるわずかな開けた場所へ向かって降下を始めた。
地面に足がつく。
その瞬間、全身から一気に力が抜けた。
「ここが……」
「牙血族の領地の端だ」
エルグはヨミガラスの背から飛び降りた。
「ここから先は、あんたらの仕事だ」
「俺は、これで帰る」
「ありがとう。助かった」
俺が礼を言うと、エルグは一瞬だけこちらを振り返った。
「……礼はいらねえ」
「金は貰った分だけの仕事だ」
それ以上言うことなく、エルグは再びヨミガラスの背へ乗った。
だが、飛び立つ前に一度だけ足を止める。
「一つだけ、忠告しとく」
「なんだ?」
「牙血族の連中は、ほとんどが人間を敵視してる」
エルグの声が低くなる。
「人間だと知られただけで、殺されても不思議じゃない」
「……せいぜい、気をつけるんだな」
それだけ言うと、エルグはヨミガラスの背へ乗った。
巨大な翼が大きく広がる。
そしてヨミガラスは、静かに空へ舞い上がった。
黒い巨体は、やがて夜明け前の空へ溶け込んでいく。
俺たちは、その姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。
「……ついに、来たな」
タツヨが静かに呟く。
「ああ」
俺は大きく息を吸った。
そして、頷く。
目の前には、深い森が広がっている。
その先には、牙血族の領地がある。
ヴォルグも。
そして、クラウスも。
この先のどこかにいる。
俺たち五人は、夜明けの冷たい空気の中、森へと足を踏み入れた。
もう、引き返すことはできない。
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