190話 はぐれ者の翼
翌朝、俺たちは宿の主人へ、思い切って本音をぶつけることにした。
「牙血族の領地に、正規の手続きなしで入る方法はないか」
主人は一瞬だけ、磨いていたグラスを拭く手を止めた。
そして、鋭い視線をこちらへ向ける。
「……穏やかな話じゃねえな」
「事情があるんだ」
「聞かねえよ、そんなもん」
主人は面倒くさそうに言うと、カウンターの奥から古びた紙切れを引っ張り出した。
「この街の外れに、羽人族の拠点がある」
「羽人族?」
「知らねえのも無理はねえ。この国は、鬼人族、牙血族、それに鱗の民。この三つが表向きの主な種族だ」
主人は紙をカウンターの上に置いた。
「だが、大昔はそこに羽人族も名を連ねていた」
「今は違うのか?」
「ああ。種族同士の争いに、あの連中はとことん愛想を尽かしたらしくてな」
主人は肩をすくめた。
「ある時期を境に、自分たちから統治の外へ出たのさ。それ以来、どこの勢力にも属さねえ」
「羽人族の本拠地は、もっと遠くにあるらしいがな」
「じゃあ、この街にいるのは?」
「そこから派遣されてる四、五人だけだ。細々と商売をしてるって話だよ」
主人は俺たちを見た。
「飛べるってだけで、他の種族とは違う動き方ができるからな」
「羽人族……」
タツヨが低く呟いた。
「あそこを仕切ってる責任者は、ちっとばかし変わってる」
主人は少し声を落とす。
「争い事が大嫌いでな。鬼人族にも牙血族にも肩入れしねえ」
「その代わり、金になる話なら、多少きな臭くても引き受けるって噂だ」
「密輸みたいなことも?」
「さあな。俺は何も知らねえよ」
主人はそれ以上詮索させないように言うと、手描きの簡単な地図が記された紙を俺たちへ差し出した。
「行くなら、自己責任でな」
俺たちは礼を言うと、すぐに宿を出た。
地図を頼りに、街の外れへ向かう。
中心街の喧騒から離れるにつれて、周囲の建物は次第に簡素なものへと変わっていった。
やがて、道の先に不自然なほど大きな木々が立ち並ぶ一角が見えてくる。
「ここか」
俺たちは足を止めた。
見上げると、天を突くような太い木々の上に、小さな家がいくつも作られていた。
それらを繋ぐように、縄で編まれた吊り橋や手作りの梯子が複雑に張り巡らされている。
「……誰かいるのか?」
タツヨが周囲を警戒するように見回した。
だが、人の気配はほとんど感じられない。
その静けさが、かえって俺たちの緊張を高めた。
その時だった。
「――ん? 見ない顔だねえ」
声が聞こえた。
頭上の木々からではない。
すぐ背後からだった。
全員が反射的に振り返る。
いつの間に現れたのか。
俺たちの退路を塞ぐように、一人の男が立っていた。
足音も聞こえなかった。
気配すら感じなかった。
慌てて周囲を見回す。
すると、木々の枝や陰にも、いくつもの人影が潜んでいることに気づいた。
背中に大きな翼を持つ者たち。
彼らは冷ややかな目で、こちらを静かに見下ろしていた。
完全に包囲されていた。
背後に立つ男は、三十代半ばほどに見える。
背中には、大きな翼が折りたたまれていた。
飄々とした間延びした口調。
だが、その細められた目の奥には、俺たちを値踏みするような鋭さがあった。
「随分と大人数で来たもんだ」
男は俺たちを見回した。
「それとも、喧嘩を売りに来たのかい?」
隣で、タツヨが小さく息を呑んだ。
俺も、喉が渇くのを感じていた。
「あなたが、この拠点を仕切ってる方ですか」
俺は唾を飲み込み、できるだけ落ち着いた声で尋ねた。
「まあ、そんなとこだ」
男は気のない返事をする。
「んで、喧嘩じゃねえなら、何の用だ?」
「牙血族の領地に、内密に入る方法を探しています」
遠回しに探っている余裕はなかった。
俺は単刀直入に答えた。
男は一瞬、ぽかんとした顔で俺たちを見た。
そして次の瞬間、口元に笑みを浮かべる。
「はは。物騒なこと言うじゃねえか、兄さん」
「無理な相談だとは分かっています。それでも」
「いやいや」
男は手をひらひらと振った。
「無理とは言ってねえよ」
その言葉と同時に、周囲の木々に潜んでいた羽人族たちが、次々と地上へ降りてきた。
音もなく。
翼を器用に使いながら、俺たちの周囲へと降り立っていく。
「うちはな、誰が何しようと知ったこっちゃねえんだよ」
男は肩をすくめた。
「鬼人族だ、牙血族だ。そんな面倒くさい話に付き合ってらんねえからな」
「それで、中立を?」
「中立なんて、格好いいもんじゃねえよ」
男は笑った。
「ただ、争いが嫌いなだけだ」
「ずっと昔、うちの先祖が愛想を尽かして、勝手に外へ出ちまっただけの話さ」
そう言うと、男は大きなあくびをかみ殺した。
「で、金は払えんのか?」
その目が、再び俺たちへ向けられる。
「タダで危ない橋を渡るほど、お人好しじゃねえぞ。人間を許可なしに牙血族の領地に入れるんだからよ」
「払います」
迷う暇はなかった。
俺は懐へ手を入れ、旅の資金として持っていたゴルドの入った袋を取り出した。
男はそれをちらりと見る。
そして、満足そうに口元を歪めた。
「よし。話は決まりだ」
男は周囲の仲間へ顎をしゃくる。
「うちの若いのに、案内させよう」
その言葉に、羽人族たちの中から一人の若い男が前へ出てきた。
まだ少しあどけなさの残る顔。
だが、その表情はひどく無愛想だった。
鋭い目で、俺たちを一人ずつ見ていく。
まるで、面倒な荷物でも押しつけられたような顔だった。
「……本気で、あそこに行くのか」
低い声だった。
その声には、これから死地へ向かおうとしている俺たちに対する呆れが、はっきりと滲んでいた。
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