187話 境界の門
「二日目の昼過ぎ、朝の冷え込みが嘘のような陽気の中、荷馬車がようやく速度を緩めた。」
「見えてきたぞ」
御者台から、弾むようなカミラの声が飛んでくる。
俺はざらついた布を押し退け、荷台の隙間から前方を覗き込んだ。
遠くの地平線の先に、威圧感のある石造りの巨大な建物がそびえ立っている。
高い外壁に囲まれ、その向こうには魔族領特有のいくつもの尖塔が、空へ突き刺さるように伸びていた。
周囲には俺たち以外にも、国境を越えようとする荷馬車や旅商人らしき人々が長い列を作っている。
「あれが、交易館か」
タツヨが低く呟いた。
俺も、思わず目を見張る。
想像していたのは、もっと小さな検問所のような場所だった。
だが、実際に目の前にあるのは違う。
人や荷物が行き交い、国境を管理するための設備が集まった、大きな施設だった。
「思ったより厳重そうだね」
ミライが隣で小声で言った。
その手には、国境を越えるために道中ずっと作り込んでいた帳簿が握られている。
「今さらビビるなよ」
「ビビってないよ。ただの確認」
ミライはそう言った。
けれど、帳簿を握る指にはしっかりと力が入っている。
「……分かりやすいな」
「うるさい」
俺が小さく笑うと、ミライは少しだけ頬を膨らませた。
荷馬車はゆっくりと列に組み込まれ、砂埃を立てながら少しずつ前へ進んでいく。
順番が近づくにつれ、荷台の中の空気も自然と静かになっていった。
「ムサシ、起きてるか」
「起きている」
「いつもより早い返事だな」
「緊張はしている」
いつもは飄々としているムサシの、あまりにも素直な返事。
一瞬だけ、荷台の空気がふっと緩んだ。
「ムサシでも緊張するんだな」
「する」
「即答かよ」
タツヨが小さく笑う。
その笑いに、俺たちも少しだけ肩の力が抜けた。
やがて、俺たちの順番が来た。
巨大な門の脇に立っていた係の男が、こちらへ近づいてくる。
制服らしき堅い服を身に着けた、四十代ほどの男だった。
表情は硬く、こちらを見る目にも愛想はない。
「商会名と、荷の内容を」
「バラゴン商会の者です。カシム様からの紹介で、こちらに」
俺は懐から書状を取り出し、両手で差し出した。
男はそれを受け取ると、黙ったまま目を通し始めた。
静かな時間が流れる。
ほんの数秒のはずなのに、妙に長く感じた。
「……ふむ」
男は書状から視線を上げる。
そして今度は、俺たち一人ひとりの顔を順番に見ていった。
「バラゴン商会の使いにしては、随分と若い顔ぶれだな」
一瞬、心臓が跳ねた。
だが、ここで慌てるわけにはいかない。
「先代からの代替わりでして。今回が初めての大きな仕事なんです」
「ほう」
男はもう一度、書状へと目を落とした。
しばらく黙っていたが、やがて小さく頷く。
「……まあいい。書状に不備はない」
少しだけ安心しかけた、その時だった。
「荷を検める。全員、降りてくれ」
俺たちは顔を見合わせた。
「……やっぱり、そう来たか」
タツヨが小さく呟く。
逃げ場はない。
俺たちは一人ずつ荷馬車を降りた。
すぐ隣に立ったタツヨと、一瞬だけ視線を交わす。
言葉はなかった。
けれど、お互いに考えていることは同じだった。
まだ、何も終わっていない。
むしろ、ここからが本番だ。
係の男は荷台へ近づくと、積まれていた木箱を一つずつ確認していった。
蓋を開け、中身を見る。
そして、次の箱へ移る。
その表情からは、何を考えているのかまったく分からない。
木箱を三つほど確認したところで、男の手が止まった。
「これは?」
男が手に取ったのは、荷物の間に置いてあった帳簿だった。
一瞬、空気が止まったような気がした。
「商会の帳簿です」
ミライが一歩前に出る。
「荷の内容と数を、こちらでも控えとして持ち歩いてまして」
声は落ち着いていた。
少なくとも、俺にはそう聞こえた。
男は帳簿を開き、ページをめくっていく。
「……随分と几帳面な字だな。それに、この記法は」
「先代から教わったやり方です」
ミライはすぐに答えた。
「バラゴン商会は、代々このやり方で記帳してきたので」
よどみなく続く言葉。
出発前にカエデから教わった知識が、今、役に立っている。
男はしばらく帳簿を見ていた。
俺たちは何も言わず、その様子を見守る。
やがて。
「まあ、いい。商会ごとに癖があるのは珍しいことじゃない」
男は帳簿を元の場所へ戻した。
ミライが、誰にも分からないくらい小さく息を吐いた。
続いて、最後の木箱へ手を伸ばす。
「これで最後だ」
重い蓋が開いた。
中には、布に包まれた雑貨や、どこにでもありそうな工具が整然と並んでいる。
カシムさんが用意してくれた、商人の荷として見せるための品だった。
男はしばらく中を確認していたが、やがて蓋を閉じた。
「……問題ない」
その一言に、全員の肩がわずかに動いた。
男は手元の書状に、重々しい印を押す。
「通行を許可する。次の検問までは、この印を見せればいい」
「ありがとうございます」
俺は書状を受け取り、深く頭を下げた。
男はそれ以上何も言わなかった。
すぐに次の馬車へ向かっていく。
俺たちは、しばらくその場から動けなかった。
「……終わった?」
ミライが小さく聞く。
「たぶんな」
「たぶんって何よ」
「絶対とは言えないだろ」
「そういうところだよ」
ミライが少しだけ笑った。
ようやく、俺たちも荷馬車へ戻る。
全員が乗り込むと、それぞれ長い息を吐いた。
「……びっくりした」
ミライが両手で胸を押さえながら、力なく呟く。
「よくやった」
タツヨがミライへ笑いかけた。
「カエデさんのおかげだよ、ほんとに」
「あいつが聞いたら、喜ぶかもな」
「いや、普通に『ちゃんとできて当然です』って言いそう」
「言うな」
その場に、小さな笑いが起きた。
ついさっきまで張り詰めていた空気が、少しずつほどけていく。
「これで、あとは中に入るだけか」
「ああ」
俺は深く息を吸った。
そして、目の前にそびえ立つ交易館の巨大な門を見上げる。
この先にあるのは、俺たちがこれまで一度も足を踏み入れたことのない場所。
魔族の国。
何が待っているのかは、まだ何も分からない。
それでも。
ここまで来た以上、進むしかない。
荷馬車が、再びゆっくりと動き始めた。
巨大な門の向こうへ。
俺たちは、未知の領域へ足を踏み入れようとしていた。
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