186話 未知への出発
朝日がまだ低い時間、王都の門の前には、俺たち五人と一台の荷馬車が並んでいた。
早朝の王都はまだ静かで、行き交う人の姿も少ない。
門の向こうには、これから向かう道が続いている。
「本当に、こんな朝早くに来なくてもよかったのに」
俺が言うと、ドナドさんは肩をすくめた。
「馬鹿言え。見送るって言ったろうが」
ドナドさんの息は白く、まだ肌寒い朝の空気に溶けていく。
「体、気をつけてな。……特にお前だぞ、リュウジィ」
「分かってるよ」
「分かってないから言ってんだよ」
ドナドさんは呆れたように笑うと、俺の肩を軽く叩いた。
その手の温かさが、妙に嬉しかった。
「無事に帰ってこいよ。帰ってきたら、またうちで腹いっぱい食わせてやるからな」
「ああ。楽しみにしてるよ」
俺が笑うと、ドナドも満足そうに頷いた。
それだけで、十分だった。
「行くぞ」
タツヨの声に、皆がそれぞれ荷馬車に乗り込んでいく。
御者台にはカミラが座り、手綱を器用に握った。
「ほんとに、あたしが御者でいいの?」
「得意なんだろ」
「まあね。任せといて」
カミラは軽く笑うと、手綱を鳴らした。
馬車がゆっくりと動き出す。
俺は荷台の後ろから振り返った。
ドナドさんがその場に立ったまま、こちらを見ていた。
手を振るでもなく、ただじっと。
その姿が見えなくなるまで、俺はずっと後ろを見ていた。
やがて王都の門を抜ける。
朝の冷たい風が、荷台の隙間から入り込んできた。
「寒っ」
ミライが小さく肩をすくめる。
「朝だからな」
「リュウジィ、そこに毛布あるよ」
カミラが御者台から声をかけてくる。
「助かる」
ミライが毛布を引っ張り出し、皆の間に広げた。
「五人で使うには、ちょっと狭いね」
「文句言うな。荷馬車なんだから仕方ねえだろ」
タツヨが笑う。
「タツヨ、そう言うなら自分だけ外で座れば?」
「なんで俺なんだよ!」
カミラの声が飛んできて、ミライが吹き出した。
ほんの短いやり取りだったが、張り詰めていた気持ちが少しだけ軽くなった。
馬車の旅は、思っていたよりも静かだった。
荷台の中は、快適とは言えない。
木箱に囲まれた狭い空間に、五人がそれぞれ適当な場所に腰を下ろしている。
「これ、あと何日かかるんだ?」
タツヨが荷台の壁にもたれながら聞いてきた。
「カシムさんの話だと、二日ってところらしい」
「長いな」
「文句言うな。歩きよりマシだろ」
御者台から、カミラの声が飛んでくる。
「聞こえてるからね、タツヨ」
「いや、俺は別に文句を言ったわけじゃ……」
「はいはい」
カミラの返事に、タツヨが小さくため息をついた。
ミライは荷物の隙間から帳簿らしきものを取り出し、静かにペンを走らせていた。
「何やってるんだ、それ」
「商会の帳簿、それっぽく作っておこうと思って。カエデさんに教わったやり方で」
「そこまでやるのか」
「バレたら困るのはこっちでしょ」
ミライは軽く笑って、また手元に視線を戻した。
「カエデさんが、細かいところまで教えてくれたんだよ。数字の書き方とか、荷物の数とか」
「へえ。そこまで準備してたのか」
「出発が決まったの、昨日なのにね」
ミライはそう言いながらも、どこか楽しそうだった。
その横顔は、思った以上に真剣だった。
ムサシは荷台の隅で、目を閉じたまま静かに座っている。
眠っているのか、それとも別のことを考えているのか。
俺には判断がつかなかった。
「ムサシ、寝てるのか?」
声をかけると、ムサシは目を開けた。
「起きている」
「そうか」
それだけ答えると、ムサシはまた目を閉じた。
「……やっぱり寝てるんじゃねえか?」
タツヨが笑う。
「寝ていない」
「聞こえてんのかよ!」
タツヨの声に、ミライがまた笑った。
こういう何気ないやり取りが、今はありがたかった。
タツヨが不意に口を開いた。
「なあ、リュウジィ」
「ん?」
「向こうに着いたら、まず何からやる?」
その問いに、俺はすぐには答えられなかった。
「……正直、まだ分からない。バラゴン商会の伝手で交易館には入れる。だけど、その先は」
「手探りってことか」
「ああ」
タツヨは小さく息を吐くと、それ以上は聞いてこなかった。
「まあ、着いてから考えればいいか」
「ああ。今のところ、それしかない」
荷馬車の車輪が、乾いた土を踏みしめる音だけが、しばらく続いた。
荷台の隙間から見える景色は、次第に見慣れた王都の風景から離れていく。
畑が広がり、やがて木々が増えていった。
王都で見ていた景色とは、少しずつ違っていく。
見知らぬ土地へ向かっている。
その実感が、ようやく体の芯まで届いてきた気がした。
◇
その頃。
魔族の国、鬼人族の居城の一角。
ヴォルグは、上機嫌だった。
「――で、俺はそのままジャンヌダルクとかいう店をぶっ壊して、悠々と引き上げてきたってわけだ」
酒の入った杯を片手に、ヴォルグは声を張り上げていた。
目の前に座るのは、ルシエルとセティス・ヴェノムだった。
「悠々と、か」
セティスが薄く笑う。
「その割には、右肩に傷が残っているように見えるが」
「……こんなもん、かすり傷だ」
ヴォルグは肩をすくめると、杯を呷った。
「それより、クラウス様が退いた件だ」
「ローザ・カイリのことだろう」
ルシエルが静かに答える。
「S級魔術士、王国最強。その相手だったというなら、分からなくもないが」
「はっ、分からなくもない、じゃねえよ」
ヴォルグは杯をテーブルに叩きつけた。
「クラウス様は、正面から誰にも負けたことのないお方だ。剣でも、拳でも、魔法でもな」
ヴォルグの声には、はっきりとした苛立ちが混じっていた。
「それを、あの女は正々堂々と挑みもせず、汚い搦め手で不意を突いただけだ。まともにやり合ってたら、あの魔術士なんぞ、クラウス様の敵じゃねえ」
「随分な自信だな」
セティスが目を細める。
「それよりお前だ。人間の店を襲って、あれだけ派手に暴れたんだ。余計な騒ぎを起こす必要はなかっただろう」
「ハッ、騒ぎになったところで問題ねえだろ。店の連中なんざ、大した数じゃなかったぜ。多少骨のある奴もいたが、俺の敵じゃねえ」
ヴォルグは自信たっぷりに笑った。
「それに、あいつらは俺を止めるどころか、逃げるので精一杯だったぜ。あれで俺が苦戦したと思われちゃ困るな」
その言葉を、ルシエルは何も言わず、ただ静かに聞いていた。
その口元には、誰にも気づかれないほどの、わずかな笑みが浮かんでいた。
(本当に、何も分かっていないようだね……クラウス様を追い詰めたのが、誰だったのかも)
ルシエルの内心は、誰にも読み取られることはなかった。
杯を傾けながら、ヴォルグはまだ得意げに武勇伝を語り続けている。
「まあ、あんな連中なら、次に何かあっても俺一人で十分だ」
その言葉に、セティスがわずかに眉を動かした。
だが、何も言わない。
その声だけが、部屋に響いていた。
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