185話 送り出す者たち
ドナド亭は、本来なら深夜にしか灯りの点かない店だった。
それが今日は、昼間から扉を開けている。
「おやっさん、こんな時間に悪いね」
「水臭いこと言うなよ、リュウジィ」
ドナドは厨房から顔を出すと、いつもの人懐っこい笑みを浮かべた。
「お前が村で目を覚ましたばかりの頃から思えば、ずいぶん立派になったもんだ。あの時、俺の店で暴れた騎士どもをぶっ飛ばした時から、こうなる予感はしてたけどな」
店の中には、すでに何人かが集まっていた。
バッド、シド、カエデ、ハクさん。
カウンターの奥では、フロドが真剣な顔で鍋をかき混ぜている。
その隣で、プリカが皿を並べる手伝いをしていた。
「兄貴、明日出発なんですよね」
バッドが声をかけてくる。
「ああ。世話になった」
「水臭いのはこっちも同じっすよ」
バッドは少し照れくさそうに笑った。
その隣で、シドも小さく頷いている。
「兄貴たちが行ってる間、店の後片付けと修復、ちゃんとやっときますんで」
「ああ、頼んだ」
「給料の件は、私の方でしっかり管理しておきます」
カエデが淡々と言った。
だが、その声はいつもよりわずかに硬い。
「オーナー。……本当に、大丈夫なんですか」
「分からない。正直、今の時点じゃ何も約束できない」
俺は誤魔化さずに答えた。
カエデは何かを言いかけて、結局口をつぐんだ。
店の奥のテーブルでは、リナとニーナが並んで座っていた。
「気をつけてね」
リナがそれだけ言って、小さく手を振る。
ニーナも心配そうな顔をしながら、それ以上は何も言わなかった。
厨房近くでは、バッドの母が勝手知ったる様子でグラスを並べている。
時折こちらに視線を送りながらも、余計な口出しはしなかった。
それが逆に、彼女なりの気遣いのようにも見えた。
ハクさんが一歩前に出た。
「店のことは、我々にお任せください」
その声には、いつもの落ち着きがあった。
「行くと決めたのなら、私が止める道理はございません。ただ――」
一拍、間を置く。
「必ず、五人揃ってお戻りください。それだけが、私の願いです」
その言葉に、隣にいたタツヨが小さく頷いた。
カミラも、ミライも、ムサシも、それぞれ静かにその場に立っていた。
ミライが一歩前に出て、俺の腕に軽く触れた。
「グラニータには、店のことちゃんと頼んできたから。心配しないで」
「ああ」
「それより」
ミライは俺の顔をまっすぐ見上げた。
「あたしたち、ちゃんと五人で帰ってこようね」
その声には、いつもの明るさの奥に、隠しきれない緊張が滲んでいた。
「約束する」
俺はそれだけ言った。
それ以上の言葉は、今はまだ軽く思えた。
タツヨがバッドの肩を軽く叩く。
「留守の間、頼むぞ」
「……分かってますって」
バッドは短く答えると、少し悔しそうに唇を噛んだ。
「俺も、連れてってほしいっすけどね」
「駄目だ」
タツヨが即座に答えた。
「お前まで行ったら、こっちを任せる奴がいなくなるだろ」
「……分かってますよ、それくらい」
バッドはそれ以上何も言わず、目を伏せた。
シドがその肩に軽く手を置く。
カミラが小さく息を吐いた。
「ま、あたしらが戻るまで、こっちのことは頼んだよ」
「任せてください」
バッドが少し照れくさそうに答える。
ムサシは何も言わず、ただ静かに頷いていた。
やがてドナドが、大皿に盛った料理をテーブルに並べ始めた。
「さあ、食え食え。腹が減ってちゃ、いい旅もできねえだろ」
その一言で、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
フロドが得意げに料理を運んでくる。
プリカも、小さな手で皿を配って回っていた。
賑やかな時間が過ぎていく。
誰も、深刻な顔ばかりしているわけにはいかなかった。
食事が一段落した頃、俺はカエデにだけ声をかけた。
「カエデ、ちょっといいか」
「はい?」
怪訝そうな顔をするカエデを、店の外へ連れ出す。
他の皆には聞こえない距離まで来てから、俺は静かに切り出した。
「もし……もし俺が帰ってこなかったら」
「オーナー?」
「店の資産とか、貯めてる金とか。皆で分けてくれ」
カエデの表情が、一瞬で強張った。
「そんなこと、今言わないでください」
「万が一の話だ。お前は数字に強いし、こういうことを任せられるのはお前しかいない」
「……オーナー」
カエデは何か言い返そうとしたが、言葉が出てこないようだった。
いつも冷静に数字を語る彼女が、今だけは何も計算できずにいるように見えた。
「必ず帰ってくるつもりだ。でも、念のためだ」
「……分かりました」
カエデは俯いたまま、小さく頷いた。
その声は、いつもよりずっと小さかった。
「ちゃんと、帰ってきてください」
「ああ」
店の中に戻ると、皆がそれぞれ思い思いに過ごしていた。
さっきまでの重い空気も、少しずつ和らいでいるように見える。
その夜、俺たち五人は近くの空き部屋に集まり、明日からのことを詰めることにした。
「それで、俺たちはどういう立場で行くんだ?」
タツヨが切り出すと、俺は懐から一枚の紙を取り出した。
カシムさんから預かった書状だ。
「カシムさんの伝手は『バラゴン商会』ってところだ。交易館に定期的に荷を納めてる商会らしい」
「聞いたことないな」
「俺もだ。だからこそ、都合がいい」
俺は皆の顔を見回した。
「カイエンタイの名前を出したら、すぐバレる。俺が誰なのか知ってる人間は、向こうにもいるかもしれない」
「……ああ、そうか」
タツヨが納得したように頷く。
「カシムさんが、バラゴン商会には話を通してくれてる。俺たちは、その商会の代理として向こうへ行く」
「つまり、あたしらがバラゴン商会の名前を使うってこと?」
カミラが片眉を上げる。
「乗っ取りみたいで面白いじゃん」
「乗っ取りじゃなくて、代理だ。カシムさんがちゃんと話を通してくれてる」
「はいはい」
カミラは軽く笑って、それ以上は突っ込まなかった。
「役割はどうする?」
ムサシが静かに聞いてきた。
「俺が商会の代理人として交渉役をやる。タツヨとムサシは護衛」
「それは分かりやすいな」
タツヨが頷く。
「カミラは護衛でも、御者でもどっちでもいい」
「御者でいいよ。あたし、馬の扱い得意だし」
「ミライは荷物と帳簿の管理、頼めるか」
「うん、任せて」
ミライがしっかりと頷いた。
「数字のことなら、カエデにもコツ聞いておくから大丈夫」
「助かる」
一通り役割が決まると、部屋の中に少しだけ現実味を帯びた緊張が満ちた。
「さっさと行ってボコボコにして、皆で帰ってこようぜ」
タツヨがニヤリと笑った。
「ああ」
俺は短く答えた。
まだ何もかもが手探りだ。
バラゴン商会という名前も、書状一枚の縁も、頼りないと言えば頼りない。
それでも、動き出さなければ何も変わらない。
「明日の朝、出発だ」
その言葉に、四人がそれぞれ頷いた。
窓の外はすっかり夜になっていて、王都の灯りが遠くにぽつぽつと灯り始めていた。




