第182話 この怒りを、終わらせない
翌日。
重い沈黙を乗せた馬車が、王宮へ続く石畳を進んでいた。
昨日までの片付けで酷使した肉体の疲労は、まだ芯から抜けきっていない。
泥と灰の匂いが染みついた手足を動かすたび、鈍い痛みが走る。
それでも、俺たちは王宮へ向かっていた。
今回の襲撃について、報告するためだ。
「顔が怖いぞ。リュウジィ」
向かいの席に座るタツヨが、冷えた視線をまっすぐ俺に向けて言った。
「そうか」
「ああ。今にも誰かを殺しそうな顔してる」
タツヨは自嘲気味に笑った。
「まあ、俺も人のこと言えないけどな」
そう言いながら、膝の上で組んだ拳には力が込められている。
白くなった指先。
それを見れば、タツヨも俺と同じ気持ちなのだと分かった。
腹の底に溜まった怒りは、昨日から一度も消えていない。
窓の外へ視線を向ける。
そこには、無惨に傷ついた街並みが流れていた。
半ば焼け落ちた看板。
崩れた建物。
鋭く突き出したままになっている壁の残骸。
道端には、まだ片付けきれていない瓦礫が積まれている。
昨日までなら、当たり前だった景色だ。
それが今は、どこを見ても戦いの爪痕しかない。
その光景を見るたびに、腹の底でくすぶっていた熱が、じわじわと広がっていった。
俺の店も、同じだった。
いや。
店だけじゃない。
そこで働いていた人間。
そこで笑っていた客。
そこで積み重ねてきた時間。
それらすべてが、たった一度の襲撃で踏みにじられた。
考えるだけで、奥歯が軋む。
「……着くぞ」
タツヨの声で顔を上げた。
いつの間にか、馬車は王宮の正門へ差しかかっていた。
重厚な門がゆっくりと開く。
馬車はそのまま敷地へ入り、静まり返った一角でぴたりと停止した。
俺たちは顔見知りの近衛兵に無言でうなずく。
案内されるまま馬車を降り、王宮の中へ足を踏み入れた。
長い廊下を進む。
やがて、見慣れた大扉の前へ辿り着いた。
扉が開く。
その先にあったのは、以前にも足を踏み入れた、厳粛な謁見の間だった。
ひんやりとした空気が肌を撫でる。
奥には玉座。
そこには威厳を纏った国王が座り、そのすぐ傍らにはローザが控えていた。
「よく来たわね、二人とも」
ローザが、いつもの調子で軽やかに声をかけてくる。
けれど、その金色の瞳には隠しきれない心配が浮かんでいた。
「話は聞いてるよ。三店舗、やられたんでしょう」
「はい」
俺は深く頭を下げた。
「ジョジョエン、ジャンヌダルク、MG倶楽部。三店舗とも大破しました」
一度、言葉を切る。
「幸い、死人は出ていません」
その言葉に、国王がわずかに身体を乗り出した。
「三店舗、同時にか」
「はい」
国王の表情が険しくなる。
「牙血族だな」
「はい」
短い答えが、謁見の間に落ちた。
国王はしばらく黙っていた。
「……先日の件と繋がっているのか」
「その可能性が高いと思われます」
ローザが答えた。
国王の視線がローザへ向く。
「やはり、そうか」
低い声が謁見の間に響いた。
「協定がある。あの国とは不可侵の取り決めを結んでいるはずだ」
「分かっています」
答えながらも、胸の奥に溜まったものは消えなかった。
協定。
国同士の約束。
理屈としては分かっている。
だが、俺の頭に浮かぶのは、そんな言葉ではなかった。
黒く焦げた瓦礫。
崩れ落ちた店内。
その中で必死に片付けを続けていた仲間たちの姿。
あの光景が、何度も脳裏によみがえる。
拳に力が入った。
その時だった。
「陛下」
ローザが口を開いた。
「私からも、話しておきたいことがあります」
「何だ」
ローザは一瞬だけ俺たちを見た。
その表情には、いつもの明るさとは違う、重いものが滲んでいる。
「私にも責任があります」
国王が眉をひそめる。
「責任?」
「はい」
ローザは小さく息を吸った。
「先日のアウトローズ・クラウンの一件。私が、この二人を誘ったんです」
ローザの言葉を聞き、国王は静かに頷いた。
「その件については、すでに報告を受けている」
「はい」
ローザは頷いた。
「でも、その時のことをきちんと話しておきたいんです」
ローザの声は落ち着いていた。
だが、その言葉の一つ一つには、自分自身への責任を認めるような重さがあった。
「その時、私は牙血族の王、クラウスと戦いました」
国王はローザを見つめた。
「そのことも聞いている」
「はい」
ローザは頷いた。
「私は、クラウスと戦って瀕死まで追い詰めました」
国王の表情がわずかに険しくなる。
「だが、報告では、お前一人で戦ったことになっていたな」
「それは……」
ローザが少しだけ苦い顔をした。
「私が、二人のことを伏せて報告したからです」
国王の視線が鋭くなる。
「なぜだ」
「二人を巻き込みたくなかったからです」
ローザは俺たちを見た。
「でも、実際には違う」
その声が少しだけ柔らかくなる。
「私一人じゃなかった」
そして、はっきりと言った。
「この二人がいてくれたから、私は助かったんです」
国王の視線が、ゆっくりと俺たちへ向く。
「……そうだったのか」
「はい」
ローザは小さく頷いた。
「二人が一緒に戦ってくれたから、私は生きて帰れました」
胸の奥がわずかに熱くなる。
あの時の光景が、鮮明によみがえった。
クラウス・バイト
牙血族の王。
三人で挑んだ、あの戦い。
ローザが倒れた時、俺とタツヨがクラウスを食い止めた。
その間にローザは回復し、再び戦線へ戻った。
最後は、三人とも傷を負いながら、あの場を後にした。
国王はしばらく黙っていた。
「今回の襲撃も、その件が原因なのか」
「ええ。間違いありません」
ローザが答えた。
「ヴォルグ・ハウルという牙血族が、クラウスと戦った相手を突き止めた」
ローザの視線が俺へ向く。
「そして、クラウスと戦ったのが、私たち三人だと知った」
声が少し低くなる。
「だから、リュウジィの店を襲ったんだと思います」
胸の奥が、焼けただれるように熱くなった。
拳が震える。
クラウスと戦った。
その報復を受けることくらい、分かっている。
俺たちが牙血族の王に刃を向けたんだ。
向こうからすれば、許せるはずがない。
俺たちを狙うこと自体は、覚悟している。
だが――。
店を壊した。
そこで働いていた仲間を巻き込んだ。
何も知らない人間まで恐怖に晒した。
思い出すだけで、頭の中が熱くなる。
焼けた店。
崩れた壁。
散らばった瓦礫。
怯えていた仲間たち。
あの光景が、何度も脳裏に浮かぶ。
俺たちに向けた報復なら、受けてやる。
だが、仲間を巻き込んだことだけは絶対に許せない。
許せるはずがない。
……殺してやりたい。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、さらに怒りが込み上げた。
ただ殺すだけでは、この胸の中に渦巻くものは消えない。
逃げ場もなくなるまで追い詰めて、二度と誰かを傷つけられないようにしてやりたい。
そう思うほど、憎しみが膨れ上がっていく。
拳が震える。
奥歯が軋む。
目の前にあいつらが現れたなら、自分が何をするのか分からない。
それほどまでに、怒りは膨れ上がっていた。
国王はしばらく沈黙していた。
やがて、すべてを飲み込むように重く息を吐く。
「事情は分かった」
その声には、国王としての重みがあった。
「だが、それでも国として大々的な報復はできない」
分かっていた。
それでも、言葉にされると胸が重くなる。
「協定がある以上、これ以上事を大きくすれば、戦争になりかねない」
「……分かっています」
俺は答えた。
頭では理解している。
これは個人の私怨ではない。
国と国の問題なのだ。
王が判断しなければならない問題なのだ。
だからこそ、俺たちにはどうすることもできない。
そう思いかけた。
だが――。
「……そうですね」
ローザが静かに言った。
「でも、私は今回のことを他人事にはできない」
その言葉に、俺は顔を上げた。
「私が二人を誘ったんだもの」
ローザは少しだけ苦笑する。
「そのせいで、二人まで巻き込んだんでしょう?」
「ローザ……」
「だから、知らん顔なんてできないわよ」
国王はしばらくローザを見つめていた。
「……そうか」
短くそう告げると、国王は俺たちへ視線を戻した。
「お前たちも、これ以上は無茶をするな」
「はい」
俺とタツヨは国王へ深く頭を下げた。
ローザにも一礼し、俺たちは謁見の間を後にした。
重厚な扉が閉じる。
その瞬間、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
静まり返った王宮の廊下を、俺とタツヨは並んで歩き始めた。
しばらく進んだところで、後ろから足音が近づいてくる。
「ちょっと待って、リュウジィ!」
振り返る。
ローザが小走りで追いついてきた。
「さっきの話なんだけど」
ローザは俺の顔を見る。
その表情は、謁見の間にいた時よりずっと柔らかい。
「やっぱり、二人だけで抱え込むつもりでしょ?」
「……そんなつもりは」
「嘘」
即答だった。
「顔に出てるもの」
タツヨが横から口を挟む。
「俺もさっき同じこと言った」
「でしょうね」
ローザがくすりと笑う。
「二人とも分かりやすいんだから」
その笑みが消える。
「でも、本当に無茶はしないでよ」
「分かっています」
「ほんとに?」
ローザが念を押す。
「……はい」
「なら、これだけ教える」
ローザは少しだけ声を落とした。
「もし何か調べたいなら、カシムに聞いてみなさい」
「カシムさん?」
「そう」
ローザは頷く。
「あいつ、変なところに顔が利くから。牙血族のことでも、何か手掛かりを持ってるかもしれない」
その名前を聞いた瞬間だった。
頭の中に、一人の男の顔が浮かんだ。
カシムさん。
俺の店によく来てくれる常連客だ。
何度も顔を合わせるうちに、自然と親しくなった。
ファフニールのことを教えてくれたのも、カシムさんだった。
「カシムさん、ですか」
「ええ」
ローザは頷く。
「何か分かるかは分からないけど、私からも話を通しておくわ」
「そこまでしてもらっていいんですか?」
「何言ってるのよ」
ローザが少し呆れたように笑う。
「私が二人を巻き込んだんだから、これくらいさせてよ」
「……」
「それに」
ローザは少しだけ目を細める。
「二人が無茶して、また死にかけたりしたら困るのよ」
「ローザ……」
「だから、まず調べる」
ローザは人差し指を立てた。
「それから考える。いい?」
「はい」
「よし」
ローザは満足そうに頷いた。
「じゃあ、カシムのところへ行くなら、私から話を通しておく」
「ありがとうございます」
「だから、それはもういいって」
ローザは笑った。
「命を助けてもらった分、少しくらい働かせてよ」
そう言って、ローザは手を振る。
「じゃあね、リュウジィ。タツヨも」
「ああ」
「またな」
ローザは来た道を戻っていった。
その背中が角の向こうへ消える。
俺とタツヨは、再び静まり返った王宮の長い廊下を歩き始めた。
足音だけが、石造りの廊下に響いている。
しばらく無言で歩いていたタツヨが、押し殺した低い声で尋ねた。
「どうする」
「まだ、分からない」
そう答えると、タツヨが横目で俺を睨んだ。
「嘘つけ」
「……」
「もう決めてるだろ」
タツヨは足を止めない。
ただ、こちらを探るように横目を向けてくる。
「お前の顔に書いてある」
俺は何も答えなかった。
答えられなかった。
高く切り取られた窓の外へ視線を向ける。
そこに広がっていたのは、どこまでも曇った空だった。
昨日までなら、ただの曇り空だったはずだ。
けれど今は、ひどく重たく見えた。
目を閉じる。
すると、すぐに浮かんでくる。
焼けた店。
散らばった瓦礫。
グラニータの背中。
ミライの震える指。
そして、何もできずに立ち尽くしていた自分。
胸の奥が、焼けるように熱くなった。
拳を握る。
もう一度、ゆっくりと目を開いた。
「……まずは、カシムさんに会う」
気づけば、口から言葉が漏れていた。
タツヨがわずかに目を細める。
「やっぱり決めてたじゃねえか」
「ああ」
今度は否定しなかった。
まだ何をするのかは分からない。
どうやって敵を追うのかも分からない。
それでも、立ち止まっているわけにはいかなかった。
俺たちの店を壊した連中が、今もどこかで息をしている。
昨夜、絶望の中で噛み締めた言葉が、胸の奥によみがえる。
(このままじゃ、終われない)
昨日はただの感情だった。
怒りに任せた、行き場のない叫びだった。
だが、今は違う。
王宮で現実を突きつけられ、それでも一つだけ道が見えた。
ならば、その道を進むしかない。
たとえ、その先に何が待っていようとも。
俺はもう、あの瓦礫の前で立ち尽くしているだけの自分には戻れなかった。
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