180話 戻った夜、消えぬ怒り
白々と明けていく空を追い越すように、馬車は一晩中、車体をきしませながら王都を駆け抜けていた。
車輪が石畳を踏みつけるたび、激しい振動が座席を揺らす。
それでも、リュウジィは一睡もできなかった。
目を閉じれば浮かぶのは、村で見た光景ではない。
王都に残してきた仲間たちの顔。
そして――自分がいない間に起きた出来事への、言いようのない不安だった。
やがて、地平線の向こうに見慣れた城壁が姿を現した。
その瞬間から、リュウジィの右手は、ちぎれんばかりに握りしめられた。
爪が食い込んだ手のひらは、血の気が引いて真っ白になっている。
帰ってきた。
ようやく帰ってきた。
なのに――安心することができなかった。
王都の街並みが近づくほど、胸の奥に嫌な予感だけが膨らんでいく。
馬車が最初に向かったのは、ジョジョエンだった。
敷地に足を踏み入れた瞬間、リュウジィの足が止まった。
目の前に広がっていたのは、知っている店の姿ではなかった。
半分に引き裂かれたように崩れ落ちた外壁。
爆発にでも巻き込まれたかのように吹き飛び、骨組みだけになった屋根。
丸裸にされた木の柱が、冷たい朝の光の中で、痛々しい傷痕のように晒されている。
床には焼け焦げた木片が散乱し、壁際には崩れた瓦礫が山のように積み上がっていた。
昨日まで、ここには人の声があった。
料理の匂いがあり、笑い声があり、仲間たちが忙しそうに動き回っていた。
それが今は――何もない。
静かすぎる。
その静けさが、かえって惨状を際立たせていた。
リュウジィの喉から、乾いた息だけが漏れる。
「……こんなに、なってたのか」
かすれた声は、そのまま朝の冷気の中へ溶けて消えた。
隣に立つタツヨも、何も言わない。
ただ、拳を腰の横で強く握りしめたまま、焼け焦げた店を睨みつけている。
「オーナー!」
ハッとして視線を巡らせる。
瓦礫の山から煤けた木くずを掻き出していたカエデが、こちらへ歩み寄ってきた。
いつもと変わらない、整えられた衣服。
しかし、その顔には明らかな疲労が浮かんでいる。
目の下には、寝る間も惜しんで動き回っていたことを物語る、どす黒いクマが刻まれていた。
「戻ってきてくれたんですね」
「カエデ……」
リュウジィは、カエデの顔を見つめた。
無事だった。
その事実に安堵する一方で、胸の奥に別の疑問が突き刺さる。
「ゼノンとギノンは」
「まだ治療院で眠っています」
カエデの声がわずかに低くなる。
「命に別状はありません。ただ、目を覚ますまでは、もう少しかかると……」
「そうか」
短い返事。
だが、その声には隠しきれない苦痛が滲んでいた。
リュウジィは奥歯を噛み締める。
ギリッ、と小さな音が鳴った。
「俺が……村になんか行ってなかったら」
口からこぼれた言葉は、自分でも情けないと思うほど弱かった。
もし、あのとき王都に残っていたら。
もし、自分がここにいたら。
ゼノンとギノンは傷つかなかったのではないか。
店も、こんな姿にはならなかったのではないか。
そんな「もし」が、頭の中で何度も繰り返される。
「それを言っても、今は仕方ありません」
カエデは静かに言った。
責めるでもなく、慰めるでもない。
ただ、現実を見据えた声だった。
「今、オーナーがすべきことは、後悔することじゃないと思います」
正論だった。
だからこそ、胸に刺さった。
リュウジィは何も言い返せない。
ただ、握りしめた拳の中で、行き場のない怒りがじわじわと熱を帯びていく。
「詳しい話は、後で聞かせてくれるか」
「はい」
カエデは小さく頷いた。
「今はまず、他のみんなのところへ」
その言葉に背中を押されるように、リュウジィは重い足を引きずって踵を返した。
次に向かったのは、ミライと暮らす自宅だった。
道中、リュウジィはほとんど口を開かなかった。
誰かに声をかけられても、短く返すだけ。
頭の中にあるのは、ただ一つ。
ミライが無事か。
それだけだった。
家の前に辿り着く。
扉を見つめた瞬間、込み上げてくる焦燥感に耐えきれなくなった。
リュウジィは、蝶番が悲鳴を上げるのも構わず、半ば体当たりするように木製の扉をこじ開けた。
「ミライ!」
血を吐くような声が家の中に響き渡る。
返事はない。
一瞬、心臓が凍りついた。
だが――
「リュウジィ……?」
奥の薄暗い廊下から、聞き慣れた声がした。
見慣れたシルエットが、ゆっくりと姿を現す。
痛々しく包帯が巻かれた左腕。
それでも、その足取りはしっかりと床を踏みしめている。
頬に差す血色も悪くない。
生きている。
ミライは、ちゃんとここにいる。
その事実を目で確認した瞬間、リュウジィの中で張り詰めていたものが切れた。
「ミライ……」
床を蹴る。
怪我をした体に触れないよう細心の注意を払いながら、それでも抑えきれない衝動のまま、ミライの体を強く引き寄せた。
「無事で……良かった。本当に良かった」
震える声が、ミライの首筋に落ちる。
温もりを確かめるように、抱きしめる腕の力が自然と強くなる。
生きている。
温かい。
ここにいる。
それを確かめるたびに、胸の奥に溜まっていた恐怖が少しずつほどけていった。
「ごめん」
「え?」
「守ってやれなくて、ごめん」
それ以上、言葉が続かなかった。
情けない。
悔しい。
自分がここにいなかったことが、どうしようもなく腹立たしい。
あふれ出そうになる感情を押し込めるように、リュウジィは唇を噛み締めた。
ミライは、しばらく何も言わなかった。
ただ、胸の中で身じろぎもせず、その大きな腕の中に身を任せている。
やがて――
凍てついた心を解かすように、そっとリュウジィの背中に温かい手が回された。
「文句なんて、言わないよ」
耳元で響いたのは、いつもの、けれどどこか愛おしい落ち着いた声だった。
「たまたまあなたが、いなかっただけでしょ?」
「でも……」
「でも、じゃないの」
ミライはリュウジィの胸板に額を押し当てたまま、ふっと小さな笑い声をこぼした。
「あなたが謝ることじゃない」
その声には、責める色が一切なかった。
「皆生きてるんだから、それでいいじゃない?」
胸を突くような、真っ直ぐな言葉だった。
リュウジィは、もう何も返せなかった。
ただ、あふれ出そうになる熱いものを飲み込みながら、腕の中にある温もりを壊さないよう、そっと力を強める。
その瞬間だけは、怒りも、悔しさも、すべてを忘れていた。
自宅を後にしたリュウジィ、タツヨ、ムサシの三人は、足早にジャンヌダルクへ向かった。
しかし、そこでも待っていたのは、無惨な光景だった。
店構えはジョジョエンに劣らず破壊されている。
壁は崩れ、店内には瓦礫が散乱していた。
看板も大きく傾き、床には割れた木片やガラスの破片が転がっている。
「……ここまでやるか」
タツヨが低く呟いた。
リュウジィは答えなかった。
視線だけを店内へ走らせる。
そのときだった。
崩れた壁の隙間から、見覚えのある不敵な笑みがひょっこりと顔を出した。
「兄貴、来てくれたんすね」
バッドだった。
片腕には白い包帯が痛々しく巻かれている。
それでも、その瞳に恐怖の色は微塵もない。
むしろ、そこには確かな闘志が宿っていた。
「バッド、お前……」
「大したことないっすよ、これくらい」
バッドは負けじと胸を張り、カラリと笑ってみせる。
その笑顔を見た瞬間、リュウジィの胸にまた別の感情が込み上げた。
こいつも戦った。
自分がいない場所で。
「無茶したな」
「兄貴がいなくても、ここは俺らの店っすから」
その言葉に、リュウジィは一瞬だけ目を伏せた。
その背後から、片手で痛む脇腹をかばいながら、シドがトボトボと歩み出てくる。
「兄貴、お疲れ様です」
「シドも……」
リュウジィは傷を見つめる。
「悪かったな。俺がいない間に」
「謝らないでくださいよ」
シドは苦笑した。
「俺らも、店も、ちゃんと守り抜いたんで」
その言葉に、リュウジィの胸が熱くなる。
自分が守れなかった。
そう思っていた。
だが、違う。
こいつらは、自分がいない場所で自分たちの居場所を守ったのだ。
リュウジィは小さく頷いた。
「……ありがとう」
その声は、いつになく低かった。
さらに店舗の奥の闇から、靴音すら立てずにハクが静かに姿を現した。
「リュウジィ様」
その涼しげな声音には、どんな修羅場を潜り抜けても揺らがない、絶対的な気高さがあった。
「ご心配をおかけしました」
「ハクさん……相手は、強かったんですか」
問いかけに、ハクの表情がわずかに変わる。
「ええ」
短い返答。
「狼のような顔の獣族でした」
その名を聞いた瞬間、リュウジィの眉がわずかに動いた。
「やはり牙血族か……」
「私一人では、完全に退けきることはできませんでした」
ハクは淡々と続ける。
「正確には、あちらから引いたというのが正しいでしょう」
その言葉の裏にある死闘を、リュウジィは想像する。
ハクが、退けきれなかった。
それが何を意味するのか。
リュウジィには、嫌というほど分かった。
仲間が傷つけられた。
店を壊された。
そして何より――自分たちの前に、明確な敵が現れた。
胸の奥で、静まり返っていた怒りの火種に、一気に油が注がれる。
「その男は、今?」
「行方は分かりません」
ハクは静かに首を振った。
「ただ――再び現れる可能性は、十分にあると思います」
リュウジィの指先が白くなる。
拳が、ゆっくりと固く結ばれていく。
「……そうですか」
声は静かだった。
怒鳴ることもしない。
ただ、その目だけが冷たく研ぎ澄まされていた。
「教えてくれて、ありがとうございます」
「いいえ」
ハクは微動だにせず、深々と頭を下げた。
そして最後に向かったのは、MG倶楽部だった。
ここも例外ではなかった。
重厚な壁の一部が砕け散り、フロアには未だ片付け途中のガラス片や木くずが散乱している。
見るからに大きな被害だった。
それでも――
「よう、リュウジィ」
不敵な笑みを浮かべたカミラが、頬に残る痛々しい擦り傷をそのままに、ひらりと片手を上げて出迎えた。
「カミラ、無事で良かった」
「これくらい、大したことねぇよ」
豪快に笑い飛ばすカミラ。
その背後から、巨体のグラニータが、ずしり、ずしりと地響きを立てながら歩み寄ってくる。
「店は派手にやられましたけど、俺らは誰も欠けちゃいないっすよ」
丸太のような分厚い腕をガッチリと組み、グラニータは頼もしい胸板を叩いた。
「グラニータも、怪我を……」
「かすり傷っすよ。気にしないでください」
そのぶっきらぼうで温かい優しさに触れ、リュウジィは胸が詰まる思いで小さく頷いた。
「怪我までさせちまって、悪かったな」
「大したことないよ」
カミラはからからと笑いながら、わざとらしく大きく肩をすくめてみせる。
「それより、これからどうする?」
リュウジィは答えなかった。
店内を見回す。
壊された壁。
散乱するガラス。
傷ついた仲間たち。
そして、自分がいない間に必死で戦った者たち。
拳が、また強く握られた。
だが、今度は怒りだけではなかった。
すべての店を巡り終えた頃には、いつの間にか太陽は天高く昇っていた。
王都全体が、眩しいほどの光に包まれている。
しかし、瓦礫が山積みのまま残されたジャンヌダルクの前に立つリュウジィには、その光さえも眩しすぎるように感じられた。
足元の石ころを見つめる。
その表面には、細かな埃と煤がこびりついていた。
リュウジィは、それを靴先でゆっくりと転がす。
「みんな、無事だった」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
「……それだけは、本当に良かった」
それは本心だった。
誰も死ななかった。
それだけでも、奇跡なのかもしれない。
けれど――
目の前に広がる瓦礫を見れば、素直に喜ぶことなどできなかった。
「でも……」
リュウジィは顔を上げる。
「このままには、しておけない」
背後で腕を組んだまま、黙っていたタツヨが、重い沈黙を破るように声を張り上げた。
「な、リュウジィ」
「……何だよ?」
「きっちり、礼しねえとな。犬もどきによ」
図星を突かれた痛みに、リュウジィは眉をひそめた。
反論しようとして――やめた。
確かに、その通りだった。
今の自分は怒っている。
腹が立って仕方がない。
仲間を傷つけた連中が許せない。
店を壊したことも。
自分の大切な場所を踏みにじったことも。
何より、自分がいない隙を狙ったことが許せない。
だが、怒りに任せて飛び出せば、また誰かを傷つけることになるかもしれない。
リュウジィは、ゆっくりと拳を開いた。
手のひらには、爪が食い込んだ跡が赤く残っている。
「……当然だよ」
低い声だった。
けれど、今度の声には迷いがなかった。
「だから、これからどうするか」
一度、ゆっくりと息を吐く。
そして、正面を見据える。
「ちゃんと考えないと」
タツヨは、しばらくリュウジィの横顔を見つめていた。
やがて、ふっと不敵な笑みを浮かべる。
「そう来なくちゃな」
リュウジィは答えなかった。
ただ、瓦礫の向こうへ視線を向ける。
そこに敵の姿はない。
牙血族がどこへ消えたのかも分からない。
まだ何も分かっていない。
それでも――
もう、何も知らないままではいられない。
守るだけでは足りない。
待っているだけでも足りない。
高く澄み渡った王都の青空の下。
瓦礫の中に立つリュウジィの胸の奥で、怒りはまだ消えていなかった。
いや――
消すつもりもなかった。
ただの激情で終わらせるのではない。
この怒りを、次に進むための力へ変える。
そのために何をすべきなのか。
リュウジィは、静かに考え始めていた。
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