176話 花と刃
MG倶楽部の閉店作業も、いよいよ大詰めを迎えていた。
客の姿もすでになく、先ほどまで賑わっていた店内には、片付けの音と二人の話し声だけが静かに響いている。
帳簿の数字を几帳面な手つきで整理していたミライが、作業台の向こうで工房の道具を片付けているグラニータへ、柔らかな声音で声をかけた。
「今日も無事に終わったね」
「ああ。今月は特に、新規のお客さんが増えた気がするな」
グラニータはそう答えながら、工房にずらりと並んだ道具を種類ごとに整理していく。
ドワーフ仕込みの鍛冶技術だけではない。
道具を扱う手つき一つにも、長年の経験に裏打ちされた無駄のなさがあった。
修理を終えた魔剣や武具を一本ずつ確認し、傷や破損がないことを確かめてから、頑丈な棚へと丁寧に戻していく。
その頃。
店舗の外では、凄腕の警備を誇るカミラが、最後の外周見回りを淡々と続けていた。
華やかな表通りから静まり返った裏手へ回り込み、いつもの巡回ルートを辿りながら、周囲の気配を一つずつ確認していく。
異常はない。
少なくとも、ここまでは。
そう判断して闇に包まれた路地を進んでいたカミラだったが、不意に、その洗練された足取りをピタリと止めた。
路地の奥。
街灯の光すら届かない薄暗い闇の中に、人影が立っている。
カミラの涼しげな瞳の奥で、猛禽類のような鋭い光が走った。
そこに立っていたのは、常人とは明らかに異なる獣の耳と、禍々しくうねる尾を持つ男だった。
男は、身を隠そうともしていない。
物陰に潜む様子もなく、ただ傲然とその場に立ち塞がり、暗闇の向こうからカミラをじっと見据えている。
その野生剥き出しの視線に、カミラの背筋を冷たい警戒感が這い上がった。
「――お客さん、そろそろ閉店の時間よ」
夜気を凍らせるような低い声が、静かな路地に響く。
男は答えない。
ただカミラを見つめたまま、歪んだ口元をゆっくりと吊り上げた。
その笑みには、客が見せるような愛想も、温もりも、一切なかった。
カミラの背中を、冷たい悪寒が撫でていく。
「――そう。話にならないなら、いいわ」
カミラは一瞬の迷いも見せず、すぐ傍らの壁際へ視線を送った。
そこに立て掛けられていたのは、常に肌身離さず持ち歩いている愛用の戦闘武器――魔槍スネークグレイブ。
自身の背丈を遥かに超える長大な武器を、カミラは片手の動きだけで軽々と引き寄せた。
漆黒の柄が手に収まった、その瞬間だった。
男の輪郭が、ぐにゃりと歪んだ。
衣服の下から筋肉が爆発的に膨れ上がり、背骨が大きく隆起する。
全身を覆うように灰色の毛が一気に生え広がり、指先からは鋭い爪が伸びていく。
骨格そのものが変形し、顔立ちが大きく崩れ、人間の面影が急速に失われていった。
一瞬の瞬き。
それだけの時間で、そこに立っていたのは、もはや人間ではなかった。
獣。
鋭い牙を剥き出しにした、完全な殺戮者の姿だった。
だが――驚異は、それだけでは終わらない。
路地の奥に広がる暗闇から、次々と別の影が這い出してくる。
一体。
二体。
三体。
その数は瞬く間に増えていき、同じような灰色の毛皮と獣の顔を持つ魔族たちが、カミラを取り囲むように姿を現した。
「……随分と、数を揃えてきたのね」
カミラは表情一つ変えず、冷ややかに呟いた。
むしろ、その紅い唇の端には、ほんの僅かな笑みさえ浮かんでいる。
アズマリアの闘技場。
そこで数え切れないほどの死線を潜り抜けてきたカミラにとって、この程度の数で怯む理由などなかった。
むしろ――。
久しく感じていなかった戦いの気配が、眠っていた闘争本能を静かに刺激していた。
先陣を切った一体が、地面を抉り飛ばすほどの勢いで地を蹴る。
巨体が一瞬にして間合いを食い潰し、鋭い爪がカミラの喉元へ迫った。
カミラは動かない。
そして、獣の爪が届く寸前。
スネークグレイブが、音もなく動いた。
長大な柄がしなり、穂先がまるで生きた蛇のように軌道を変える。
正面から振るったはずの一撃が、途中で大きく弧を描き、獣の予測を完全に裏切った。
「ギィアッ!!」
鋭い穂先が獣の胴を薙ぎ払う。
凄まじい衝撃が巨体を横方向へ弾き飛ばし、獣はそのまま路地の壁へ叩きつけられた。
壁が震える。
石片が弾け飛ぶ。
スネークグレイブは、ただ突くだけの槍ではない。
しなやかに変化する柄と、それを自在に操るカミラの技量によって、攻撃の軌道そのものが予測不能になる。
敵が避けたと思った瞬間、穂先はすでに別の角度から迫っている。
まるで意思を持った蛇が、獲物を追い詰めるように。
間髪入れず、二体目の獣が真横の死角から飛び掛かってきた。
カミラは振り向かない。
僅かに手首を返す。
それだけで、スネークグレイブの柄がしなり、穂先が背後へ滑り込んだ。
次の瞬間。
獣の首元を、鋭い刃が正確に捉える。
「な……!?」
一瞬だけ、獣の赤い瞳に恐怖と戸惑いが浮かんだ。
自分の視界では到底捉えられない軌道。
それを予測することなど、獣にはできなかった。
カミラの槍は、まさにその名の通り。
生きた蛇のように軌道を変え、逃げようとする獲物へどこまでも食らいつく、死の牙だった。
その頃。
店内では、穏やかな夜が静かに崩れ始めていた。
「――何かしら、この気配」
異変を最初に察知したのはミライだった。
帳簿から手を離し、夜の闇に沈んだ窓の外へ視線を向ける。
その表情から、先ほどまでの柔らかな雰囲気が消えていた。
グラニータもまた、手にしていた道具を止める。
「カミラが表で何かと戦ってる音がする」
遠くから、何かが壁へ叩きつけられるような鈍い音が響いた。
続いて、獣の咆哮。
「見てくる」
ミライが立ち上がった、その瞬間だった。
ドォンッ!!
店の入り口を守っていた頑丈な扉が、内側へ向かって粉々に吹き飛んだ。
大量の木片が室内へ飛び散り、床を跳ね、壁へ突き刺さる。
その向こうから、一体の獣が店内へと躍り込んできた。
「グラニータ、下がって!」
ミライは叫ぶと同時に、ポケットへ手を突っ込んだ。
取り出したのは、最後の切り札。
エンペラーナックル。
両拳へ装着した瞬間、冷たい金属が店内の灯りを鋭く反射した。
獣が吠える。
そして、まっすぐミライへ突っ込んできた。
鋭い爪が振り下ろされる。
ミライは紙一重で半身になった。
爪が髪を掠め、背後の壁を削り取る。
そのままミライは獣の懐へ潜り込んだ。
距離、ゼロ。
右拳を引く。
そして――。
放つ。
「ゴンッ!!」
一見すると、何の変哲もないジャブだった。
だが。
エンペラーナックルから叩き込まれた魔力が、一瞬で拳の破壊力を跳ね上げる。
直撃した獣の顎が跳ね上がった。
巨体が浮く。
そのまま後方へ吹き飛び、店の厚い壁へ激突した。
壁が大きく震え、獣の身体が床へ滑り落ちる。
「……嘘でしょ」
ミライは、自分の拳を見つめた。
タツヨから叩き込まれた基本のフォーム。
その教え通りの、何気ないジャブ。
だが、エンペラーナックルを通して放たれた一撃は、これまでのミライの攻撃とはまるで別物だった。
自分自身が、その威力に驚いている。
しかし、驚いている暇はなかった。
「グラニータ、後ろに!」
ミライが叫ぶ。
グラニータは即座に反応した。
作業台の脇に立て掛けてあった、自作の重厚な金属棒を両手で掴み取る。
その表情には、もう怯えはない。
「私も、突っ立ってるだけの女じゃないよ」
不敵な笑みを浮かべながら、グラニータが腰を落とす。
鍛冶師として道具を握り続けてきた両腕に、力が込められた。
店の外では、カミラのスネークグレイブが夜の闇を切り裂いている。
しなる柄。
閃く穂先。
その度に獣たちの咆哮が響き渡る。
店内では、ミライの拳が獣の巨体を次々と吹き飛ばしていく。
そして、その隣ではグラニータが金属棒を構え、迫り来る獣を睨み据えていた。
閉店作業を終え、静かに一日を終えるはずだった夜。
その穏やかな時間は、もうどこにもない。
MG倶楽部の夜は今。
花と刃が舞う、戦場へと変わっていた。
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