175話 暖簾の下で、退けた
爆発的な初動。
牙と爪の群れが、空間を切り裂くように一斉に地を蹴った。
死角なき四方八方から、殺意の奔流が押し寄せてくる。
その正体は、魔族の中でも獣のような顔貌を持つことで知られる牙血族。
人間の身体を遥かに上回る巨躯に毛並みをまとい、その顔は完全に獣のもの。
鋭く突き出した牙と、獲物を射抜く獣の瞳。
そして、その両腕には人間の肉など容易く引き裂く鋭利な爪が備わっている。
一体一体が、ただの獣とは比較にならない殺傷力を持つ魔族だった。
そんな牙血族の群れを前に、手負いのギノンを背負ったまま戦い続けることは、もはや不可能だった。
ゼノンは一瞬だけ歯を食いしばり、背中にいるギノンへ声を飛ばす。
「くそ、来い……!」
その言葉と同時に、ゼノンは身体を沈めた。
ギノンも意図を察し、傷ついた身体を引きずりながらゼノンの背中から離れる。
足元へ着地した瞬間、背中に走った傷の痛みにギノンの顔が歪んだ。
それでも、倒れない。
片膝をつきながらも、すぐに自分のミスリルサーベルへ手を伸ばす。
ゼノンもまた、愛剣であるミスリルサーベルを疾風の如く一閃させた。
真正面から突っ込んでくる一体の喉元を、容赦なく断ち切る。
鋭い刃が毛皮を裂き、その下の肉を断ち切った。
噴き出した鮮血が紅の華を散らし、巨大な牙血族の身体が断末魔と共に横倒しに崩れ落ちる。
だが、死の隙間など存在しない。
すぐさま死角となる横面から、二体目の牙血族が獰猛な牙を剥いて肉薄する。
ゼノンは反射的に身体を捻った。
爪が肩口を掠める。
鋭い痛みとともに血が飛び散った。
「がっ……!」
それでもゼノンは踏み止まる。
一歩も退かない。
その横では、ギノンが震える腕でサーベルを構えていた。
傷は深い。
背中から流れ落ちる血が衣服を赤く染めている。
それでも、その目にはまだ戦う意思が残っていた。
ギノンはゆっくりと立ち上がる。
ふらつく足に力を込め、ミスリルサーベルを両手で握り直した。
「俺もやる。まだ動ける……!」
ゼノンの横へ並ぶ。
二人の背中が、互いに触れそうな距離で重なった。
一人ではない。
それだけで、僅かに状況が変わった。
前方から牙血族が迫る。
ゼノンが一体を斬り払う。
その死角へ回り込もうとした別の一体を、ギノンが横薙ぎに斬りつけた。
ガギィンッ!!
牙血族の爪と刃が激突し、火花が弾け飛ぶ。
「ぐっ……!」
傷ついた身体では、力比べは長く続かない。
ギノンの腕が押し込まれる。
だが、その瞬間。
ゼノンの刃が横から滑り込んだ。
一閃。
ギノンと鍔迫り合いをしていた牙血族の腕が切り裂かれる。
「今だ、ギノン!」
「分かってる!」
ギノンが踏み込む。
傷ついた身体から最後の力を絞り出し、ミスリルサーベルを振り抜いた。
刃が牙血族の胸元へ深々と食い込み、巨体が後方へ吹き飛んでいく。
そのまま瓦礫へ叩きつけられ、動かなくなった。
だが、倒しても倒しても、新たな牙血族が押し寄せてくる。
数の差は、あまりにも大きかった。
「くそっ……キリがねえ……!」
ギノンが荒い息を吐く。
ゼノンもまた、肩で大きく呼吸していた。
二人とも限界が近い。
それでも、足だけは止めなかった。
肉体の持久力は、もはやとっくに底を突いている。
それでも、諦めるという選択肢だけは、この二人の辞書には存在しなかった。
「守るって、決めたんだよ……」
震える唇から、血の混じった声が零れ落ちる。
ゼノンの視線が、壊れ果てた店内を一瞬だけ走った。
守るべきものは、まだここにある。
店は壊れた。
テーブルも、棚も、食器も、積み上げてきたものの多くが瓦礫へ変わった。
それでも。
ここで働いていた仲間たちは生きている。
逃がすべき人間も、まだ無事だ。
だからこそ、退くわけにはいかなかった。
その瞬間だった。
殺意の群れの奥底から、一際おぞましい気配を放つ一体の牙血族が、他の仲間たちを物理的に押し退けるようにして強引に距離を詰めてきた。
先ほどまでの雑多な個体とは明らかに違う。
体格は周囲の牙血族より一回りも二回りも巨大で、全身を覆う毛並みも濃く、その獣の顔には他の個体とは比較にならないほど鋭い牙が並んでいる。
そして何より、その動きには無駄がなかった。
ただ暴れているのではない。
明確な意思を持って、二人との距離を詰めている。
(こいつが、頭なのか……)
一瞥しただけで、ゼノンはその絶望的な真実を本能で悟った。
頭目格の牙血族が、低く唸る。
その鋭い瞳が、ゼノンとギノンを交互に捉えた。
次の瞬間。
空間を蹴破るような爆発的な踏み込み。
頭目格の牙血族が、ゼノンへと一直線に襲いかかった。
「ギノン、右だ!」
ゼノンの叫びに、ギノンが反応する。
左右から迫る牙血族を、それぞれが迎え撃つ。
ゼノンのサーベルと、頭目格の爪が激突した。
ガギィンッ!!
凄まじい金属音が響き渡る。
衝撃のあまり、ゼノンの身体が大きく後方へ弾き飛ばされた。
その横では、ギノンも別の牙血族と激しく斬り結んでいる。
二人とも、もう後退する余力はほとんど残っていなかった。
「がはっ……!」
ゼノンの肺腑から空気が一気に押し出される。
瓦礫を踏み越え、辛うじて倒れるのを堪えた。
ミスリルサーベルは、まだ手の中にある。
だが、腕は痺れ、足は震えていた。
頭目格の牙血族が、勝利を確信したようにゆっくりと近づいてくる。
剥き出しの鋭い牙が、冷たい月明かりに妖しく光った。
(ここまで、かよ……)
急速にぼやけていく意識の深淵で、それでもゼノンは折れかけたサーベルを支え棒にして、執念だけで身体を起こした。
その横では、ギノンもまた膝をつきながらサーベルを杖代わりにして立ち上がろうとしていた。
互いに限界だった。
それでも、どちらも倒れなかった。
「まだ……終わってねえ」
掠れた声は微かだったが、そこには揺るぎない魂の意志が籠っていた。
頭目格が低く唸る。
そして――飛んだ。
ゼノンは残された全ての力を極限まで絞り出し、ミスリルサーベルを両手でしっかりと構えた。
真正面から力任せに受け止める愚行はしない。
敵の動きを読む。
爪の軌道。
身体の向き。
踏み込みの角度。
そして、ほんの僅かに身体をずらした。
頭目格の爪が、ゼノンの肩を掠める。
その瞬間。
ゼノンのサーベルが閃いた。
研ぎ澄まされた刃が、牙血族の強靭な喉元へ吸い込まれるように滑り込む。
ズブリ、と、生々しい肉を断つ重い感触が手に伝わる。
「うおおおおおっ……!!」
血潮を浴びながら絶叫し、渾身の力を込めて刃を奥深くまで押し込む。
頭目格の巨体が大きくよろめいた。
そして、凄まじい咆哮を上げながら、その場に膝をつく。
その決定的な一撃を境にして、周囲を包囲していた牙血族たちの動きが止まった。
まるで、群れ全体から一瞬にして芯を抜かれたかのようだった。
統率の要を失った牙血族たちが、急速に浮き足立っていく。
一体が後退する。
それを見た別の一体も、唸り声を上げながら後ずさる。
やがて一体、また一体と、恐怖に駆られるように闇の中へと姿を消していった。
「……行け、よ」
荒れ狂う嵐のような息の下で、ゼノンが冷たくそう吐き捨てる。
牙血族たちはしばらくその場に留まっていた。
だが、頭目格が倒れた今、戦いを続ける理由はない。
最後まで執念を残していた頭目格の牙血族さえも、深手を負った身体を引きずるようにして、路地の深い暗がりへと逃げ込んでいった。
やがて――。
完全なる静寂が、戦場に戻った。
崩れ落ちた壁。
木端微塵に砕けたテーブル。
無数の割れた食器が硝子の破片となって散らばる血塗れの床。
かつて賑わいを見せていたジョジョエンの原形は、もうどこにも残されていなかった。
それでも。
ゼノンとギノンは、泥まみれになりながらも、確かに生きていた。
二人は互いに支え合うようにして、その場に腰を落とす。
「……終わった、のか」
ゼノンは瓦礫の壁にもたれかかったまま、掠れきった声でぽつりと呟く。
隣でギノンが、痛みに耐えながら微かに身じろぎした。
「おい、ゼノン……生きてるか」
「馬鹿、それはこっちの台詞だ……」
傷だらけの体で弱々しく笑い合いながら、ゼノンはようやく張り詰めていた限界の息を長く吐き出した。
その時だった。
裏口の破壊された外から、心配のあまりそっと戻ってきたバッドの母とリッカが、瓦礫の裂け目から痛ましい様子を覗き込んでいる。
「ゼノン……! ギノン……!」
感極まって駆け寄ってくる二人の姿に、ゼノンは疲労困憊の目をゆっくりと細めた。
「悪い、な……店、めちゃくちゃにしちまって」
「そんなの、今はどうでもいいのよ! あんたたちが無事なら、それでいいんだから!」
バッドの母が涙声を抑えきれずに叫びながら、まるで自分の息子にするように、二人の傷だらけの体を両腕で抱き寄せた。
リッカも隣で、震える手を口元に当てながら涙をこらえていた。
瓦礫の山に座り込んだまま、ゼノンは静かに顔を上げて夜空を見上げた。
店は壊れた。
肉体は全身ボロボロだ。
それでも。
守るべきものは、死守し抜いた。
夜空には、人間の営みの移り変わりなど意に介さず、ただ静かな月が冷たく輝いていた。
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