174話 灰狼、牙を剥く
喧噪の泡が、まるで波に引かれるように、ハクの意識から急速に遠ざかっていった。
視界の端で逃げ惑う客たちの姿がぼやけ、悲鳴も、割れたグラスの音も、獣たちの唸り声も、すべてが遠い場所から聞こえてくるように薄れていく。
残ったのは、ただ二人。
ハクと、全身を灰色の毛並みに覆われた狼の頭を持つ男――ヴォルグ。
二人の間にある空間だけが、周囲から切り離されたような静寂に包まれていた。
ほんの数秒。
互いに相手の呼吸と足の位置を探るように見据え合ったあと、先に動いたのはヴォルグだった。
「悪いが、手加減はできない性分でね」
低い声が響く。
その言葉が消えるより早く、ヴォルグの身体が沈んだ。
筋肉が一斉に収縮し、床を踏み抜くような勢いで地面を蹴る。
目で追うことすら困難な踏み込み。
次の瞬間には、鋭く伸びた爪を備えた巨大な腕が、ハクの胸元へ一直線に迫っていた。
速い。
だが――。
ハクには、その一撃が見えていた。
爪が届く寸前、ほんの半歩だけ身体を横へ滑らせる。
それだけだった。
ヴォルグの爪が、白い衣服の脇を掠めて空を切る。
凄まじい風圧がハクの頬を撫で、そのまま背後へ抜けていった。
そして、その爪の軌道上にあった頑丈な木製テーブルへ、ヴォルグの一撃が吸い込まれる。
ズバンッ!!
耳を劈く轟音とともに、分厚い無垢の木製テーブルが真っ二つに裂けた。
切断面は驚くほど滑らかで、まるで巨大な刃物で一刀のもとに断ち切ったかのようだった。
飛び散った木片が床へ落ちる。
ハクはそれを一瞥する。
(見た目より、ずっと鋭い爪だ)
冷静にそう分析しながらも、その表情には微塵の動揺も浮かんでいない。
「危うく、大切な備品を失うところでした」
穏やかな声だった。
まるで、目の前にいる相手が自分を殺そうとしていることなど、まるで気にしていないかのように。
ハクはゆっくりと右足を軸に身体を回した。
腰が回る。
肩が遅れて追いつく。
そして、その回転が一つの力となって、最後に右脚へ伝わった。
放たれたのは、鋭い回し蹴り。
踵が風を巻き込みながら、ヴォルグの側頭部へ吸い込まれていく。
だが――。
ヴォルグの反応もまた、常人の域を遥かに超えていた。
まるで最初から蹴りの軌道を読んでいたかのように腕を差し出し、側頭部を守る。
ドンッ!!
巨大な鉄槌が叩き込まれたような衝撃が、店内の空気を震わせた。
ハクの踵がヴォルグの腕を打ち抜き、その衝撃で獣の毛が大きく揺れる。
それでも、ヴォルグは倒れなかった。
「ほう」
初めて、ヴォルグの声に明確な感心が混じった。
「ただの支配人じゃないみたいだな」
ハクは蹴り足を静かに引き戻す。
そのまま自然に身体を整え、涼しい顔でヴォルグを見た。
「差し支えなければ、お名前を伺えますか?」
場違いなほど丁寧な問いかけだった。
ヴォルグの太い眉が、僅かに動く。
「名を聞くとはな。……ヴォルグだ。ヴォルグ・ハウル」
「ヴォルグ様、ですね。承りました」
その瞬間だった。
ハクの気配が、ふっと消えた。
ヴォルグの瞳が細くなる。
次の瞬間――ハクの姿が、一気に距離を詰めていた。
踏み込みが見えない。
予備動作もない。
ただ、気づいたときにはハクの脚がすでにヴォルグの腹部へ迫っている。
一撃。
ヴォルグが腕を下げて受ける。
ドンッ!!
二撃。
反対側から叩き込まれる。
ドンッ!!
三撃。
四撃。
五撃。
ハクの前蹴りが、まるで一本の槍のように正確な軌道を描きながら連続してヴォルグの防御へ突き刺さっていく。
蹴りのたびに、ヴォルグの巨体が僅かに揺れる。
一歩。
また一歩。
確実に後ろへ押されていく。
ハクは力任せに蹴っているわけではなかった。
足を出す。
戻す。
踏み込む。
腰を回す。
次の蹴りへ繋げる。
一つ一つの動作に無駄がなく、全身の重心が途切れることなく次の一撃へ流れていく。
それは、長年にわたって磨き抜かれた武術そのものだった。
やがてヴォルグが、口元を吊り上げる。
「悪くない」
その声と同時に、ヴォルグの全身から黒い靄が噴き出した。
まるで身体の内側に溜め込んでいた何かを、一気に解き放ったかのようだった。
どす黒い靄は床へ流れ落ち、蛇のように這いながら店内へ広がっていく。
足元が黒く染まる。
椅子の脚を覆い、床を這い、周囲の空間そのものを侵食していく。
そして――。
その闇の中から、何かが這い出してきた。
四つ足。
鋭い牙。
長い爪。
狼だった。
だが、生きた狼ではない。
その身体は完全な黒。
毛並みすらなく、影そのものが獣の形を得たかのように輪郭が揺らめいている。
一匹。
二匹。
三匹。
さらに増える。
十。
二十。
三十――。
数える間にも、その数は増え続けた。
店内の空気が急激に冷えていく。
足元を覆う闇の中から、無数の唸り声が重なって聞こえてきた。
「ハンドレッド・ウルフ」
ヴォルグが短く告げる。
その瞬間。
影の狼たちが、一斉に動いた。
床を蹴り、テーブルを飛び越え、互いの身体を踏み台にするようにして、あらゆる方向からハクへ殺到する。
視界を埋め尽くすほどの数。
まるで黒い津波が押し寄せてくるようだった。
(これは、ずいぶんと手の込んだお出迎えをいただいたものです)
ハクは、静かにそう考える。
だが、足は止まらない。
一匹目が真正面から飛び込んできた。
牙が喉元を狙う。
ハクは身体を沈めた。
狼の腹の下へ潜り込むようにして攻撃をかわし、そのまま下から脚を跳ね上げる。
蹴りが顎を正確に捉えた。
影の狼の身体が大きく跳ね上がり、空中で輪郭を崩す。
黒い靄となって消えた。
だが、ハクにはそれを確認する時間すらない。
左右から二匹。
同時に飛び込んでくる。
ハクは身体を回転させ、片方の爪を紙一重でかわしながら後ろ蹴りを叩き込み、反対側から迫る狼には回転の勢いをそのまま利用して踵を打ち込んだ。
二匹が同時に霧散する。
さらに背後。
一匹。
ハクは振り返らない。
気配だけを感じ取り、後ろ蹴りを放つ。
ズンッ!!
影の狼が弾き飛ばされ、壁へ激突する前に黒い霧へと変わった。
次。
また次。
狼たちは途切れることなく襲いかかってくる。
だが、ハクの動きは乱れなかった。
回し蹴り。
後ろ蹴り。
踵落とし。
前蹴り。
そして、再び回し蹴り。
一つ一つの蹴りが確実に獲物を捉え、そのたびに影の狼が消えていく。
その動きには、余計な力が一切なかった。
大きく振りかぶることもない。
必要以上に跳ぶこともない。
ただ、最小限の動きで最大の威力を生み出し、次の攻撃へと繋げていく。
まるで一連の型を舞うような足運びだった。
しかし、その一つ一つには、かつて戦場で命を奪ってきた男の正確さが宿っている。
影の狼が消える。
また現れる。
消える。
また現れる。
どれだけ蹴り飛ばしても、ヴォルグの周囲から新たな狼が湧き出してくる。
「なかなか、数の減らない相手ですね」
ハクは静かに呟いた。
呼吸は乱れていない。
額に汗すら浮かんでいない。
だが、その一瞬だった。
狼の群れへ意識を向けた、ほんの僅かな隙。
ヴォルグは見逃さなかった。
「――そこだ」
巨体が動く。
自ら影の狼を押し退けるようにして、その中心から一気に飛び出した。
距離が消える。
ハクの懐へ、ヴォルグが滑り込んだ。
爪が振り抜かれる。
ハクが顔を僅かに逸らした。
爪が頬を掠める。
鋭い風圧が肌を裂き、白い頬に細い赤い線が走った。
そして、そのまま後方の柱へ爪が届く。
ズバァッ!!
厚い木製の柱が斜めに切り裂かれた。
天井を支える柱の一部が削ぎ落とされ、木材が悲鳴を上げるようにミシミシと軋む。
「危なかったな。今のは避け切れたのか、運が良かっただけか」
ヴォルグが笑う。
ハクは崩れた姿勢を整えながら、穏やかに答えた。
「さて、どちらでございましょうか」
その声に、ヴォルグの笑みが深くなる。
ハクは着地の勢いを殺さなかった。
そのまま身体を沈める。
床すれすれまで重心を落とし、次の瞬間――。
跳ね上がった。
狙いは、ヴォルグの顎。
下から突き上げるような蹴りが迫る。
ヴォルグは反射的に首を引いた。
間一髪。
踵が顎を捉える寸前でかわす。
だが、完全には逃れられない。
足先が生み出した風圧だけで、ヴォルグの頬を覆う灰色の毛が数本、宙へ舞った。
「……本当に、ただの支配人が務まる腕じゃないな」
「若い者たちに、全てを背負わせるわけにも参りませんので」
ハクは静かに答えた。
その直後。
背後から影の狼が飛び込んでくる。
ハクは振り返らない。
気配だけを捉え、身体を半回転させる。
後ろ蹴り。
影の狼の頭部を正確に捉え、その身体が黒い霧となって砕け散った。
だが――。
その正面から、ヴォルグの爪が迫っていた。
近い。
避けるには遅い。
ハクは咄嗟に両腕を交差させる。
ガッ!!
爪が腕を捉えた。
鋭い痛みが走る。
肉を裂く感触とともに、腕から鮮血が滲んだ。
それでも、致命傷ではない。
ハクはそのまま一歩後ろへ下がる。
ヴォルグが笑った。
「ようやく、当たったな」
勝利を確信したような笑みだった。
ハクは自分の腕へ視線を落とす。
赤い血が、白い衣服へゆっくりと染み込んでいく。
そして――。
静かに袖を整えた。
「……そろそろ、私も本気で相手をさせていただきましょう」
その声は、それまでと何も変わらなかった。
穏やかで。
丁寧で。
静かな声。
だからこそ――。
ヴォルグの笑みが、ほんの僅かに止まった。
何かがおかしい。
ハクの姿は、変わっていない。
身体が大きくなったわけでもない。
気配を放っているわけでもない。
魔力が膨れ上がったわけでもない。
ただ――。
立ち方が、変わっていた。
先ほどまでのハクは、店を守る支配人として戦っていた。
今のハクは違う。
足の位置。
腰の高さ。
肩の力。
視線。
そのすべてが、戦うためだけの形へと静かに整えられている。
ヴォルグは、それを見て初めて理解した。
――今までの男は、まだ本当の姿ではなかった。
ハクが、ゆっくりと息を吸う。
肺腑の奥まで空気を取り込み、静かに吐き出す。
それだけだった。
だが、その瞬間。
周囲にいた影の狼たちが、僅かに動きを止めた。
本能が、何かを感じ取ったのかもしれない。
ハクは一歩、前へ出る。
その足音は小さかった。
なのに、ヴォルグには妙にはっきりと聞こえた。
「……なるほど」
ヴォルグが低く呟く。
その金色の瞳が、初めて獲物を見る目から、敵を見る目へと変わった。
そして、口元がゆっくりと吊り上がる。
「面白い」
影の狼たちが一斉に牙を剥いた。
無数の黒い獣が、再びハクへ向かって地を蹴る。
ハクは動かない。
迫り来る群れを、ただ静かに見据えている。
その瞳には、先ほどまでの穏やかな支配人の面影が残っていた。
だが、その奥にあるものだけは――もう隠されていなかった。
かつて戦場を駆け抜けた男。
「武道家最後の傭兵」と呼ばれた男。
その仮面が、今。
静かに剥がれ落ちようとしていた。
お読みいただき、本当ありがとうございます。もし気に入っていただけましたら、作品のブックマークや、下の星(☆☆☆☆☆)で応援をお願いします!次の更新の大きなエネルギーになります!




