173話 牙、仮面の下
ジャンヌダルクは、今夜も賑わっていた。
店内にはグラスの触れ合う涼やかな音が絶えず響き、その合間を縫うように、酔客たちの笑い声や陽気な話し声が幾重にも重なっている。
二階のフロアでは、華やかに着飾ったキャストたちが、それぞれの席を回りながら貴族や商人たちの相手をしており、酒の香りと香水の甘い匂いが混ざり合った空気が、いつもの夜と変わらぬ繁華な時間を作り上げていた。
一階では、バッドが店長として帳場に立ち、客の入り具合を確認しながら、時折フロアへ視線を走らせている。
腰にはオリファルコンの剣。
柄頭――ポンメルには、リュウジィから受け取った証でもある狼の彫刻が刻まれている。
かつてなら、この剣を抜くことなど珍しくなかった。
だが、ジャンヌダルクの店長となった今のバッドにとって、剣を抜くことは仕事の一部ではあっても、日常ではない。
少なくとも――今夜までは、そのはずだった。
少し離れたところでは、シドがキャストを席まで送り届けている。
短く整えたツンツン頭を揺らしながら、周囲の客へさりげなく視線を走らせているあたりは、かつてバッドとスラムで暴れ回っていた頃の名残なのかもしれない。
ハクもまた、いつも通り給仕をしながら店内を回っていた。
56歳。
ジャンヌダルクとジョジョエン、その両店舗を預かる総支配人であり、かつては傭兵団『雷鳴』で戦場を渡り歩き、「武道家最後の傭兵」とまで呼ばれた男。
そんな過去を知る者は、この店にはほとんどいない。
今のハクは、ただ静かに客へ酒を運び、店内の様子を眺めながら、若い者たちを見守る支配人に過ぎなかった。
そして事務室では、カエデが一人、帳簿へ視線を落としていた。
今夜の客の入り。
売上。
支出。
各テーブルの回転率。
並んだ数字を一つずつ確認しながら、彼女はいつものように店の経営状況を頭の中で整理していく。
数字の上では、何一つ問題はない。
今日も順調。
いつも通りの営業日。
少なくとも――その瞬間までは。
二階のフロアで、グラスが割れる音が響いた。
ガシャァンッ!!
「きゃっ!」
一人のキャストが上げた悲鳴によって、それまで陽気な笑い声に満たされていた店内の空気が、一瞬にして凍りついた。
何事かと、周囲の客たちが一斉に振り返る。
その視線の集まった先で、それまで何食わぬ顔で酒を飲んでいた客の一人が、椅子を乱暴に蹴り倒しながら立ち上がっていた。
男の身体が、不自然に揺れる。
肩が盛り上がる。
背中の筋肉が服を押し上げ、まるで内側から別の生き物が身体を食い破ろうとしているかのように、衣服が大きく膨らんでいく。
次の瞬間、腕が太くなった。
指先から爪が伸びる。
皮膚を覆うように毛が生え、骨格そのものが軋むような異音を響かせながら変形していく。
悲鳴が上がった。
だが、それは一人ではなかった。
フロアの別の席。
その隣。
さらに向こう側。
それまで酒を飲み、笑い、キャストと談笑していた「客」たちが、次々と立ち上がっていく。
一人。
また一人。
そして、また一人。
店内のあちこちで、同じ異変が起きていた。
「な、なんなの、これ……!」
キャストたちの悲鳴が重なり、さっきまで華やかだったフロアが、一瞬にして恐怖に支配される。
誰かが逃げようとして椅子を倒した。
別の客が叫び声を上げながら階段へ殺到する。
酒の入ったグラスが次々と床へ落ち、砕けたガラスが靴の下で甲高い音を立てる。
その混乱の中、帳場にいたバッドが反射的に顔を上げた。
次の瞬間には、もう身体が動いていた。
帳場を飛び出し、腰のオリファルコンへ手を伸ばす。
同時に、シドも近くにいた、キャストを自分の身体で庇うようにして振り返った。
「うそだろ……!?」
バッドの目の前で、獣へと変わっていく人間たち。
その光景に一瞬だけ絶句しながらも、次の瞬間にはオリファルコンの剣を抜き放った。
鞘から滑り出た刀身が店内の灯りを受けて鋭い輝きを放ち、柄頭に刻まれた狼の彫刻が、その光を静かに跳ね返す。
バッドの顔から、さっきまで店長として浮かべていた柔らかな表情が消えた。
「シド、客を先に――」
「言われなくても分かってる!」
シドもファルシオンを抜き放ち、すぐさま周囲の客へ向かって声を張り上げる。
「お客様は落ち着いて非常階段へ! キャストの皆さんも、順番に誘導しますから慌てないで!」
だが、恐怖に飲まれた人間を言葉だけで落ち着かせることは難しかった。
悲鳴。
怒号。
泣き声。
逃げ惑う足音。
それらが一つになった瞬間、獣と化した男たちが一斉に動いた。
人の流れへ向かって、獣たちが飛び込んでいく。
逃げ遅れた客へ爪が振り上げられ、キャストたちが悲鳴を上げながら後退する。
「くっ――!」
一人のキャストへ向けて、鋭い爪が振り下ろされた。
その瞬間だった。
キィンッ!!
乾いた金属音が響き、振り下ろされた獣の腕が横へ弾き飛ばされる。
その一撃を放った人物が、いつの間にかキャストの前へ立っていた。
カエデ。
手には麟角刀。
その構えは一見すると静かだった。
しかし、獣の腕を弾いた直後には、すでに次の動作へ移っている。
一歩。
半歩。
身体を僅かに傾ける。
迫ってきた爪の軌道から、ほんの数センチだけ身体を外し、そのまま麟角刀を滑らせるように振り抜いた。
獣が腕を引く。
そこへ二撃目。
さらに三撃目。
鋭い刃が連続して走り、獣の攻撃を真正面から受け止めることなく、その軌道だけを正確に逸らしていく。
力で押し切るのではない。
速度でもない。
相手の動きを読み、その攻撃が届く位置と時間を潰している。
「下がって。今すぐに」
声は、驚くほど静かだった。
目の前で獣が牙を剥き、周囲では人々が悲鳴を上げているというのに、カエデの表情にはほとんど変化がない。
彼女の視線だけが、獣の肩、肘、手首、そして足の位置を順番に追っていた。
その一挙動を見れば、次にどこから爪が来るのか。
どこへ身体を動かせば当たらないのか。
どの角度から刃を入れれば、最小限の力で相手の動きを止められるのか。
すべてが、彼女の頭の中では数字と軌道として処理されている。
「みんな、私の後ろへ」
カエデの声に、恐怖で震えていたキャストたちが、少しずつ彼女の背後へ集まっていく。
カエデは麟角刀を構えたまま、彼女たちを庇うようにゆっくりと後退した。
その間にも、獣は何度も襲いかかってくる。
だが、そのたびにカエデの身体が僅かに動き、爪は空を切り、麟角刀が獣の腕を弾き、攻撃の軌道を潰していく。
一撃。
二撃。
三撃。
すべてが寸分の無駄もなく繋がっていた。
「バッドさん、シドさん。表の避難路は空いています。私がここを抑えますので、先に誘導を」
「お前、一人で大丈夫かよ!」
バッドが叫ぶ。
だが、カエデは振り返ることさえしなかった。
ただ、迫ってきた爪を身体の軸を僅かにずらしてかわし、その腕へ麟角刀を滑らせる。
「動きの軌道は、もう解析済みです。問題ありません」
その言葉を証明するように、次の攻撃もまた空を切った。
カエデは獣の動きを、すでに理解していた。
獣の身体能力は高い。
速度も、人間とは比較にならない。
しかし、どれほど速くても、動きには必ず軌道がある。
軌道があるなら、予測できる。
予測できるなら、避けられる。
そして避けられるなら――倒せる。
カエデの麟角刀が、また一度、閃いた。
獣が苦しげに身体を捻る。
その一瞬だけ生まれた隙を、彼女は見逃さない。
数式を解くように、最短の一手を選び取る。
「……お前も大概、只者じゃねえよな」
シドが小さく呟く。
それでも足は止めない。
バッドと共にキャストたちを非常階段へ誘導しながら、何度も振り返ってカエデの姿を確認する。
その視線の先では、たった一人の女が、複数の獣を相手にしながら、一歩ずつ退路を守っていた。
そして――。
一階でも、すでに戦いは始まっていた。
店の入り口付近。
逃げようとする客たちと獣たちの間に、ハクが立っている。
その姿は、あまりにも静かだった。
周囲が悲鳴と怒号に包まれているというのに、ハクだけは騒がない。
慌てない。
ただ、迫ってくる獣を見ていた。
一体がハクへ飛び掛かる。
その巨体が、真正面から牙を剥いて迫った。
ハクは――動いた。
いや。
動いたようにすら見えなかった。
次の瞬間、獣の顎が跳ね上がっていた。
ドンッ!!
鈍い衝撃音が響く。
ハクの足が、獣の顎を正確に捉えている。
あまりにも速い。
獣の巨体が宙へ浮き、そのまま店の壁へ叩きつけられる。
ドゴォンッ!!
壁が震え、獣の身体が床へ崩れ落ちた。
周囲にいた客たちは、その一部始終を理解できなかった。
何が起きたのか。
いつ蹴ったのか。
ただ、気づいたときには獣が倒れていた。
「……とんでもない騒ぎだな、これは」
ハクは静かに呟く。
だが、その視線は倒れた獣には向いていなかった。
店の奥。
騒ぎの中心から少し離れた場所に、一人の男が立っている。
その男だけは――変身していなかった。
周囲の客たちが逃げ惑い、獣たちが暴れ回っているというのに、その男は一歩も動かず、ただ静かにハクを見ていた。
他の獣たちとは、明らかに何かが違う。
纏っている空気が違う。
獣たちが本能のまま暴れているのに対し、あの男だけは、すべてを理解した上で、この状況を楽しんでいるように見えた。
やがて男が、ゆっくりと口元を緩める。
「やっと、あんたと二人で話せそうだ」
穏やかな声だった。
その瞬間。
男の身体が、ゆっくりと輪郭を崩し始めた。
服の下で筋肉が盛り上がり、肩幅が広がっていく。
背骨が軋み、身体そのものが上へ伸びていく。
顔の輪郭が変形し、鼻先が前へ突き出す。
耳が尖り、皮膚を覆うように金色の毛が生えていく。
やがてそこに現れたのは、人間の顔ではなかった。
灰色の毛に覆われた狼の頭部。
裂けた口元から覗く鋭い牙。
そして、燃えるような金色の瞳。
その瞳が、店内の灯りを受けて鈍く輝いていた。
男は口元を歪める。
「支配人さんだったか。あんたと、ちょっと遊びたくてね」
ハクは、何も答えなかった。
ただ静かに、腰を落とす。
肩の力を抜く。
両足へ均等に体重を落としながら、目の前の獣を見据える。
その姿を見て、狼男の口元がさらに吊り上がった。
店内では、まだ悲鳴が続いている。
二階ではカエデが獣を抑え、バッドとシドが客とキャストを逃がしている。
逃げ惑う人々の足音。
割れるグラス。
倒れる椅子。
獣たちの咆哮。
それらすべてが、確かにそこにある。
なのに。
ハクと狼男の間だけは、まるで別の空間になったように静かだった。
「客なら、大人しく酒でも飲んで帰ればいいものを」
ハクが淡々と言う。
「悪いけど、俺は酒より、こっちの方が性に合っててね」
男が一歩、踏み出した。
床板が、わずかに軋む。
ハクの視線が、その足元へ落ちる。
すぐに顔へ戻る。
男もまた、ハクから目を離さない。
互いの呼吸が聞こえるほどの距離。
そこには、先ほどまでの乱戦とはまるで違う緊張が生まれていた。
獣が唸る。
ハクは動かない。
男も動かない。
ただ、二人の間にある空気だけが、少しずつ張り詰めていく。
まるで、次にどちらが動くのかを、互いに待っているかのように。
そして――。
店内の喧騒を遠くに置き去りにして、ハクと狼男。
二人だけの間合いが、静かに、しかし確実に狭まっていった。
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