172話 牙、暖簾の奥へ
暖簾を下げようとしていたゼノンの手が、完全に止まった。
店先へ流れ込んでいた夜風の向こう、通りの先にある路地の暗がりから、何かが弾き出されるような勢いで飛び出してきたのだ。
一体、二体。
それだけではない。
闇の奥から次々と黒い影が躍り出し、見る間にその数は五、六と増えていく。
やがて街灯の淡い光がその姿を照らし出したとき、ゼノンは思わず息を呑んだ。
そこにいたのは、もう人間とは呼べないものだった。
毛並みに覆われた巨躯は人間のそれを遥かに上回り、太い腕の先からは鋭い爪が伸び、口元には獲物を引き裂くための牙が覗いている。
そして何よりも異様だったのは、暗闇の中で爛々と輝く、縦に裂けた瞳孔だった。
獣の視線が、まっすぐ店へ向けられている。
「……ギノン!」
ゼノンが低く叫ぶと、その声を聞きつけたギノンが厨房から飛び出してきたが、店の外に広がる異様な光景を目にした瞬間、その表情から血の気が引いていった。
「なんだよ、あれ……」
答えを考える暇など、なかった。
先頭にいた一体が、身体を低く沈めたかと思うと、次の瞬間には地面を蹴り砕くような勢いでこちらへ突進してくる。
巨体からは想像もつかないほどの速度だった。
「くそ、店の中に――!」
ギノンが叫び終える、その直前。
店の奥から、耳をつんざくような悲鳴が上がった。
「きゃああっ!!」
ホールに立っていたバッドの母の声だ。
それに続いて、経理を任されているリッカの声まで響き渡り、ゼノンが反射的に店内へ視線を戻した、その瞬間――窓ガラスが凄まじい音を立てて吹き飛んだ。
砕けたガラス片が店内の照明を受けて無数の光となって舞い散り、その向こうから一体の獣が、まるで壁そのものを突き破るようにして店内へ侵入してきた。
「バッドのお袋さん、リッカ! 裏から逃げろ!!」
ゼノンは叫ぶと同時に、腰に差していた特注のミスリルサーベルを一気に抜き放った。
鞘走りの鋭い音とともに現れたミスリルの刀身が店内の灯りを受けて冷たい銀光を放ち、柄頭に刻まれた狼の彫刻が、その光を鈍く跳ね返している。
ゼノンはその柄を両手で握り直し、腰を落とすと、倒れたテーブルを足で蹴り飛ばして獣の進路を塞いだ。
直後、獣の腕が唸りを上げて振り抜かれる。
ゼノンは身を捻ってかわそうとしたが、完全には避け切れず、鋭い爪の先が腕を掠めた。
制服の布が裂け、その下から血が滲む。
焼けつくような痛みが走ったが、ゼノンは構わず踏みとどまり、目の前の獣へサーベルを向けた。
「こっちだ、早く!」
その声に応えるように、ギノンが震えるリッカの腕を掴み、裏口へ向かって強引に引きずっていく。
バッドの母も恐怖で足をもつれさせながら、それでも必死に二人の後を追った。
「な、なんなのよあれ……! あんな化け物、見たことない……!」
「俺もよくわからねぇ! とにかく走れ!」
ギノンは二人を裏口の外まで送り出すと、そこでようやく足を止め、荒い息を吐きながら振り返った。
その視線の先では、ゼノンが二体の獣を相手に、たった一人で踏みとどまっていた。
一体が正面から爪を振り下ろせば、ゼノンは身体を横へ滑らせてかわし、その勢いのままサーベルを振り抜いて牙を弾き飛ばす。
続けざまにもう一体が横から飛び掛かってくると、ゼノンは両手へ持ち替えたサーベルを力任せに叩きつけ、ミスリルの刃と獣の爪が激突して、耳をつんざく金属音とともに火花が弾けた。
まともに受ければ身体ごと弾き飛ばされかねないほどの力だったが、それでもゼノンは両足を踏ん張り、床板を軋ませながら耐える。
そして一瞬だけ生まれた隙を逃さず、腰を捻って斬り込むと、ミスリルの刃が獣の腕を浅く切り裂き、毛皮の下から赤い血が飛び散った。
だが、浅い。
獣を止めるには到底足りない。
その巨体はわずかによろめいただけで、すぐに牙を剥きながらゼノンへ向き直った。
「ゼノン!」
ギノンが叫びながら店内へ取って返し、自身のサーベルを抜き放つと、ゼノンへ迫っていた獣の横腹へ飛び込みざまに斬りつける。
「二人は逃がした!」
「上出来だ! ……けど、店の中はもうめちゃくちゃだぞこれ!」
軽口を叩いてはいるものの、その声にいつもの余裕がないことは、互いに分かっていた。
なぜなら、店の外からはすでに新たな咆哮が響き始めていたからだ。
一体を斬り伏せても、その向こうから別の獣が現れ、さらにその背後から新たな影が迫ってくる。
窓が次々と割られ、扉が叩き壊され、調理台が獣の巨体に吹き飛ばされるたび、店の中には破壊音が響き渡り、二人が積み上げてきたものが目の前で次々と瓦礫へ変わっていった。
「くそっ、キリがねえな……!」
ギノンが吐き捨てるように言う。
一体を斬り伏せても、また新しい一体が外から現れる。
倒しても、倒しても、終わらない。
その数の差は、すでに明らかだった。
「ゼノン、退くぞ! これ以上は――」
ギノンがそう叫びかけた、その瞬間だった。
背後から、獣の影が音もなく迫っていた。
ゼノンだけが、その存在に気づく。
「ギノン、後ろ!」
叫び声が響く。
だが、遅かった。
獣の爪が振り抜かれ、ギノンの背中を深々と切り裂いた。
「ぐあっ……!」
ギノンの身体が大きく前へ崩れ、そのまま膝から床へ落ちかけたところを、ゼノンが咄嗟に抱き止める。
「ギノン! しっかりしろ!」
「……大丈夫だ、まだ動ける」
そう言いながらも、その声には明らかに力がなく、背中から流れ落ちる血が床へ赤い跡を作っていく。
それでも、ギノンは立ち上がろうとした。
ゼノンはそんなギノンを支えながら、改めて店内を見渡す。
そこにはもう、かつてのジョジョエンの姿は残っていなかった。
割れた食器が床一面に散らばり、テーブルは砕け、棚は崩れ、調理場も見る影もない。
窓はほとんどが破壊され、壁には獣の爪痕が深々と刻まれている。
ここで二人が働き、守ってきた場所が、目の前で瓦礫へと変わっていた。
ゼノンはギノンの身体を背負い上げると、血の滲んだ手でミスリルサーベルの柄を握り直した。
柄頭に刻まれた狼の彫刻が、血に濡れた手の中で冷たく沈んでいる。
「まだ、だ……」
震える声で、そう呟く。
守るべきものは、まだここにある。
たとえこの店が壊されても。
たとえ自分たちの体がボロボロになっても。
逃げるわけには、いかなかった。
ゼノンは背中にギノンの重みを感じながら、ゆっくりと足を開き、腰を落とす。
血の滲む腕に力を込め、両手でミスリルサーベルを握り直すと、目の前を埋め尽くす獣の群れへ向けて、もう一度構えを取った。
牙が光る。
爪が床を擦る。
無数の低い唸り声が重なり合い、壊れた店内を震わせる。
それでもゼノンは退かなかった。
暖簾の奥。
ここだけは、渡さない。
次の瞬間、獣の群れが一斉に地を蹴った。
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