171話 静寂の裏側
老師は小さく頷くと、それ以上は無駄な言葉を重ねなかった。
囲炉裏の火加減を確かめ、鍋を取り出す。
その手つきには長年の慣れが滲んでいて、さっきまで交わされていた話の余韻さえも、静かに受け止めているようだった。
「少し外の空気でも吸ってきたらどうだ。飯ができるまで、まだ時間がかかる」
老師にそう促され、リュウジィとタツヨは連れ立って小屋を出た。
外へ出た瞬間、夕暮れの柔らかな風が頬を撫でた。
空は茜色に染まり、山の向こうへ沈みかけた太陽が、村全体を淡い橙色の光で包んでいる。
以前この村を訪れた時とは、まるで別の場所のようだった。
あの時は、村全体を覆うように張り詰めた空気があった。
人々の顔には怯えが浮かび、声を潜めるように暮らしていた。それが今では、遠くから子供たちの笑い声が聞こえてくる。
広場では、何人もの子供たちがロンの周りを走り回っていた。
大きな体を持て余したロンは、子供たちに追い回されながらも嫌がる様子はなく、むしろ嬉しそうに尻尾を振っている。
時折、子供の一人が背中によじ登ろうとすると、困ったように振り返り、それでも決して怒ろうとはしない。
その光景を眺めているうちに、リュウジィの口元には自然と笑みが浮かんだ。
あの惨劇の後、この村がここまで元の姿を取り戻すとは、正直想像していなかった。
失われたものが戻ってくるわけではない。
あの日、広場に残されたものを見た時の記憶が消えることもない。
それでも、人は生きていく。
こうして子供たちが笑い、明日のために畑を耕し、夕食の支度をする。
その当たり前の光景が、今のリュウジィには何より尊いものに感じられた。
「村長」
声をかけると、井戸端で作業をしていた村長が顔を上げた。
こちらに気づいた瞬間、その表情がぱっと明るくなり、すぐに深々と頭を下げる。
「これはこれは、リュウジィ様。ムサシ様に続いて、また頼もしい方々が」
「様はやめてくださいって、何度も言ってるじゃないですか」
リュウジィが苦笑しながら言うと、村長も困ったように頬を緩めた。
「はは、そう言われましてもねえ」
どうにも呼び方だけは直りそうにない。
村長は苦笑しながら、井戸端に置かれた籠いっぱいの野菜を指差した。
色とりどりの野菜が、籠の中からこぼれそうなほど詰め込まれている。どれも瑞々しく、土の匂いさえ、どこか心地よく感じられた。
「今年は畑の実りも良くてね。老師とムサシ様が来てくださってから、若い者も安心して外仕事に出られるようになりました」
その言葉を聞いた瞬間、リュウジィの胸の奥に、じんわりと温かなものが広がった。
だが、その温かさの奥には、今も消えることのない記憶があった。
あの日。
広場に並べられていた小さな体。
目を閉じても、時折その光景が蘇る。
思い出すたびに胸の奥が締め付けられ、息が詰まりそうになる。それでも、目の前に広がっている光景を見れば、その痛みを抱えたままでも前を向いていいのだと思えた。
この村は、確かに前へ進んでいる。
失ったものを忘れるのではない。
抱えたまま、それでも生きていく。
その姿を目にできることが、リュウジィにとって何よりの救いだった。
「無理はしないでくださいね。何かあったら、いつでも呼んでください」
「ありがとうございます。……ですが、今のこの村なら、そう簡単にはやられませんよ」
村長の声には、以前にはなかった確かな自信が滲んでいた。
その表情を見れば分かる。
この自信が、ただの強がりではないことくらい。
村人たちが安心して畑へ出られるようになった理由も、夜になれば穏やかに眠れるようになった理由も、リュウジィには、そして隣に立つタツヨにも言うまでもなく分かっていた。
村を守る力が、この場所にはある。
だからこそ、村長は胸を張ってそう言えるのだ。
やがて太陽が山の向こうへ沈み始め、村を包む光が少しずつ薄くなっていく。
夕日が村を橙色に染めていく中、二人は小屋への道を戻った。
しばらく無言で歩いていたタツヨが、ふと足を緩める。
広場から聞こえてくる子供たちの声に、一度だけ振り返った。
そして、前を向いたまま、ぽつりと呟く。
「……いい村になったな」
その言葉に、リュウジィは静かに頷いた。
それ以上、言葉を重ねる必要はなかった。
小屋に戻ると、扉を開ける前から、ふわりとした良い匂いが二人を迎えた。
囲炉裏では鍋が静かに煮えている。
先ほどまで漂っていた薬草や薪の匂いに混じって、温かな料理の香りが小屋いっぱいに広がっていた。
老師が振り返り、二人を見ると、小さく笑う。
「腹が減っていては、いい考えも浮かばんぞ」
その言葉に誘われるように、二人は囲炉裏の傍に腰を下ろした。
薪がぱちりと音を立てる。
その音を聞きながら、リュウジィはゆっくりと肩の力を抜いた。
窓の外では、ヤツハカ村の穏やかな夜が、静かに更けていく。
誰もが、この夜も昨日までと同じように過ぎていくのだと思っていた。
少なくとも、この時までは。
——
王都は、いつもと変わらぬ夜を迎えようとしていた。
通りにはまだ人の姿があり、店々から漏れる明かりが石畳を照らしている。
ジョジョエンも今日も繁盛していた。
店内には最後まで客の声と食器の音が絶えず響き、ようやく閉店の時間が近づいていた。
最後の客を見送ったゼノンが暖簾を下げようと表に出る。
その手が、ふと止まった。
何かを感じたわけではない。
目に見える異変があったわけでもない。
それでも、なぜか足が止まった。
ゼノンは通りの奥へ視線を向ける。
街灯の光が届かない場所。
そこには、闇が溜まっているように見えた。
「……どうした」
厨房から顔を出したギノンが声をかける。
ゼノンはすぐには答えなかった。
暗がりから目を離さないまま、しばらく黙っている。
やがて、わずかに眉を寄せた。
「いや……何か、視られてる気がしてよ」
「気のせいだろ。最近ぶっ通しで働いてるから、疲れてんじゃねえか」
ギノンの軽口に、ゼノンは苦笑いを返した。
「そうかもな」
そう言いながらも、暖簾を下げる手は止めなかった。
暗い路地の奥。
何かがいる。
そんな感覚だけが、妙に消えずに残っていた。
だが、それが何なのかを確かめる術は、二人にはまだなかった。
そして、その視線が向けられているのがゼノンだけではないことも、もちろん知る由はなかった。
一方、ジャンヌダルクは今夜も貴族や商人で賑わっていた。
店内には酒と香料の匂いが混じり、談笑する、キャストと客たちの声が絶え間なく響いている。
店の中央立つ、店長のバッドは、腰のオリファルコンの剣に手をかけたまま、フロアを見渡していた。
特に変わったことはない。
客足も普段通り。
キャストや店員たちも忙しそうに動き回っている。
それでも。
胸の奥で、何かが小さくざわついていた。
理由は分からない。
だからこそ、その感覚が気になった。
「シド、なんか今日、静かすぎねえか」
「気のせいだろ。客足は普段通りだ」
そう答えたシドも、完全に気を抜いているわけではなかった。
言葉とは裏腹に、入り口の方へ一度視線を向ける。
誰かがいる。
そう思ったわけではない。
ただ、確認せずにはいられなかった。
事務室では、カエデが帳簿を確認していた。
数字を一つずつ追っていた指が、ふと止まる。
視線だけが、帳簿の上を動かない。
何かがおかしい。
数字に間違いがあるわけではない。
記帳漏れもない。
計算も合っている。
それなのに、胸の奥に説明のつかない違和感が滲んでいた。
彼女は普段、そうした曖昧な感
覚を信用しない性質だった。
数字には根拠がある。
事実には理由がある。
だから、説明できないものを判断材料にすることはない。
それでも。
今夜だけは、その違和感を無視することができなかった。
そして、フロアで給仕をこなしていた支配人のハクは、さりげなく入り口の方へ視線を向けていた。
今夜は妙に、見覚えのない客が多い。
それだけなら、偶然で片付けられる。
だが、気になるのはその後だった。
どの客も長居をしない。
一杯だけ飲む。
店内をぐるりと見渡す。
そして、ほどなく席を立っていく。
まるで酒を飲むためではなく、何かを確認するために店へ入ってきているようだった。
ハクの目が、ほんのわずかに細くなる。
長年、他国の戦場で数えきれない人間の出入りを見てきた男には、その動き方に覚えがあった。
何気ないように見えて、実際には周囲を観察している。
視線の動き。
身体の向き。
店内へ入った瞬間の確認。
そして、出ていくまでに必要以上に周囲を見回す仕草。
獲物を品定めするような、あの
独特の視線の運び方だ。
「ハクさん、どうしたの?」
近くを通りかかった新人のホールスタッフが声をかける。
ハクは一瞬だけそちらを見る。
だが、すぐにいつもの表情へ戻った。
「いや、何でもない。仕事に戻れ」
短くそう答えると、ハクは何事もなかったかのように空いたグラスを片付け始めた。
その動きに乱れはない。
表情にも出さない。
今はまだ、確かめる材料が足りない。
勘だけで騒ぎ立てれば、店の空気を乱すだけだ。
だが、注意を怠るつもりはなかった。
同じ頃、MG倶楽部でも閉店作業が進んでいた。
最後の客を見送ったミライが、帳簿を片付けながらグラニータと軽口を交わしている。
いつもと変わらない。
笑い声もある。
閉店間際の、どこか気の抜けた空気もある。
店の外では、警備のカミラが最後の見回りをしていた。
表通りから裏手へ回り、いつものように周囲を確認していく。
異常はない。
そう思いながら路地を進んでいたカミラだったが、不意に足を
止めた。
路地の奥。
薄暗い闇の中に、人影があった。
カミラの視線が鋭くなる。
そこに立っていたのは、獣のような耳と尾を持つ男だった。
男は隠れていなかった。
物陰に身を潜める様子もない。
ただ、堂々とその場に立ち、じっとこちらを見ている。
その視線に、カミラは無意識に
警戒を強めた。
手がわずかに動く。
それでも、すぐに武器へ伸ばすことはしなかった。
まずは相手の出方を見る。
「……お客さん、そろそろ閉店の時間よ」
低く声をかける。
男は答えなかった。
ただ、カミラを見つめたまま、ゆっくりと口の端を吊り上げる。
笑っている。
だが、その笑みには客が見せるような愛想はなかった。
むしろ——。
カミラの背中を、冷たいものが撫でた。
三つの店に、それぞれ見慣れない影が忍び寄っていた。
ジョジョエン。
ジャンヌダルク。
そして、MG倶楽部。
それぞれの店では、ほんの小さな違和感が生まれていた。
誰かが路地を見た。
誰かが客を警戒した。
誰かが、説明のつかない胸騒ぎを覚えた。
だが、それらを一つに結びつける者は誰もいない。
まさか、それが同じ夜、同じ狙いのもとに動いているとは。
この時点では、誰一人として気づいていなかった。
王都は、いつもと変わらない夜を過ごしている。
人々は笑い、酒を飲み、店員たちは仕事を終えようとしている。
窓から漏れる明かり。
通りを行き交う人々。
遠くから聞こえる話し声。
いつもの王都。
穏やかな夜。
——そう見えていた。
やがて、鐘の音が王都に響き渡った。
夜の街に、その音が幾重にも重なっていく。
その瞬間。
ジョジョエンの路地の暗がりで、何かが動いた。
誰かが立ち上がったのか。
あるいは、ずっとそこに潜んでいたのか。
街灯の届かない闇の中では、その姿すらはっきりとは見えない。
ただ一つだけ確かなのは——。
最初の影が、静かに動き出したことだった。
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