170話 静かなる朝
「……本当に、ヤツハカ村に行くの?」
ミライの声には、まだ棘が残っていた。数日前、あり得ないほどボロボロの姿で転移魔法によって家に送り届けられたリュウジィを見た時の衝撃が、今も鮮烈に彼女の胸を締めつけているのだろう。
細い指先が、わずかに震えていた。
「いや、自分でもよく分からないんだけどさ。老師って昔、魔王と戦ったことあるって言ってたから、これから魔族と闘う事になった時の、ヒントが見つかるかもしれないから」
「……」
ミライは言葉を失い、旅支度の手をピタリと止める。そして、隠しきれない不安を湛えた瞳で、リュウジィを真っ直ぐに射抜いた。
「何も言わずに、危ないことするから……。何回も何回も、どれだけ心配してると思ってるの?」
胸が痛いほどのトゲが、リュウジィの心臓を刺す。
「……悪かったよ」
リュウジィは素直に頭を下げた。何度目かの謝罪だったが、軽薄な言葉ではない。
今度こそ、彼女の震える心にちゃんと届けたいと思った。
「謝ってほしいわけじゃない。ただ、次からはちゃんと言って。私だって、あなたの隣にいたいから」
潤んだ瞳の奥にある、確かな決意。
「……分かったよ。約束する」
リュウジィの誓いに、張り詰めていた空気がわずかに緩む。
しばらくの静寂の後、リュウジィはふと、はにかむように口を開いた。
「なあ、こっちが落ち着いたらさ……二人でどっか旅行でも行くか」
ミライの目が、驚きに少し丸くなる。
「旅行……?」
「ああ。ずっと店のことばっかりで、まともに出かけたことなかったろ。海でも山でも、お前が行きたいとこ、どこでも」
不意打ちの言葉に、ミライは一瞬呆気に取られたような顔をしたあと、こみ上げる熱を隠すように小さく吹き出した。
「……約束だからね」
「ああ、約束だ」
朝の爽やかな空気が、二人の背中を押す。
リュウジィがお守りより一回り大きいだけのアイテムボックスを宙に放り投げると、空間にガバッと黒い歪んだ口が開き、用意していた旅の荷物がまるで吸い込まれるように次々と消えていく。
手のひらをかざしてアイテムボックスを回収すると、空間は音もなく閉じた。
身軽になった姿で玄関の外に出ると、すでにタツヨが頼もしい背中を預けて待っていた。
「お、来てたのか」
「馬車の手配、終わらせといたぞ」
「タツヨさんも一緒に行くんでしょう?」
見送りに出たミライの問いに、
タツヨは軽快に片手を上げる。
「ああ。俺もちょうど、話聞きたいと思ってたところだったし」
信頼できる相棒の言葉にうなずき、リュウジィは見送るミライへと視線を戻した。
「気をつけてね。老師によろしく」
「ああ。……行ってくるね」
車輪が軋み、馬車がゆっくりと動き出す。
愛しい日常の街並みが、次第に遠ざかっていった。
ヤツハカ村までの道のりは、二
日ほどかかる。
ガタゴトと単調に揺れる馬車のなか、窓の外を流れる景色を見つめながら、タツヨがぽつりと口を開いた。
「……あの時さ、正直、死ぬかと思ったわ」
「俺もだよ」
タツヨの零した本音に、リュウジィは無言で頷く。
あの死闘で味わった絶望的な感覚は、今も消えることなく、体の奥底に重く燻り続けていた。
二日後。
果てしない道のりを経て、ヤツハカ村の懐かしい入り口が見えてきた。
ちょうどシルバーウルフのロンを連れて村の見回りをしていたらしい老師が、こちらに気づいてふと足を止める。
その傍らには、頼もしいムサシの姿もあった。
「おお、久しぶりだな。今日はどうした」
「老師、ちょっと相談したいことがあります」
リュウジィが真剣な声音で切り出すと、老師は鋭い眼光で二人の顔を交互に見据えた。
「相談……ふむ。まあいい、立ち話もなんだ、中で聞こうか」
老師はそう告げると、鮮やかな身のこなしで踵を返して村の奥へと歩き出す。
ロンがその後をついていき、ムサシも興味深そうに二人を見ながら並んで歩き始めた。
「珍しいのう、お二人揃って来るなんて。……で、何があったのか?」
老師の質素な小屋に着くと、四人と一匹はパチパチと薪が爆ぜる囲炉裏を囲むように腰を下ろした。
老師が手際よく茶を淹れる間、リュウジィとタツヨは顔を見合わせる。
どちらから切り出すべきか、わずかな緊張が走る空気を破り、先に口を開いたのはタツヨだった。
「実は、ちょっと厄介な相手とやり合いまして」
「厄介、とは」
「牙血族の序列三位ってやつです。名前はクラウス」
その名が出た瞬間、老師の手が、ほんの一瞬だけピタリと止まった。
その微細な異変に気づかないまま、リュウジィが焦燥感を滲ませて言葉を継ぐ。
「二人がかりで、正直まるで歯が立ちませんでした。何とか撤退させることはできましたけど……あのままもう一度当たってたら、多分俺たち死んでたと思います」
囲炉裏の炎が、パチリと乾いた音を立てて爆ぜる。
老師はしばらくの間、深い沈黙のなかで静かに茶を注ぎ続けていたが、やがてゆっくりと顔を上げ、重みのある口を開いた。
「そのクラウスとやらのことは、わしには分からん。会ったこともない相手の頭の中まで読めはせんよ」
「……そうですよね」
突き放されたわけではないが、冷たい現実が肩にのしかかる。
肩を落としかけたリュウジィに、老師は強い光を宿した瞳を向け、続けて言った。
「だが、お前たちが今よりも力をつければいい話だろう」
「力を、ですか……」
戸惑うリュウジィの胸に、老師の言葉が深く落ちていく。
「難しく考えるな。わしがしてやれるのは、これまでと同じことだ。汗を流させて、少しでも強くしてやる。それだけだ」
老師はそう言って静かに立ち上がると、赤々と燃え盛る囲炉裏の火を見下ろした。
その背中には、揺るぎない歴戦の重みが満ちている。
「クラウスがどう出るか分からんなら、次にどう出られても崩れんだけの土台を作っておけばいい。単純な話だ」
タツヨが、苦笑混じりに小さく笑った。
「老師らしいですね、それ」
「わしにできるのは、それだけだからな」
飾らない、しかし圧倒的な事実。
リュウジィも、胸につかえていた熱い息をゆっくりと吐き出す。
答えらしい答えではなかった。だが、今の自分たちに必要なのは、小手先の策ではなく、泥臭くとも、たしかに血肉となるこういう地に足のついた話だった。
「……分かりました。よろしくお願いします、老師」
リュウジィの決意に満ちた声を聞き、老師は小さく頷く。
それ以上は無駄な言葉を重ねず、慣れた手つきで鍋の支度を始めた。
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