169話 静かなる火種
魔王城の広間。
張り詰めた冷気が、石造りの柱の影に澱んでいる。
天井の明かり取りから射し込む一条の光が、埃の舞う空間に鋭い筋を描いていた。
硬質な静寂。それを踏み砕くように、重厚な足音が石畳を叩く。
「――帰ったぞ」
ヴォルグ・ハウル。魔王直属五人衆が一人、牙血族の戦士。その狼の相には、長旅の疲労を超えた獣の飢えが刻まれていた。
広間の闇、柱の裏から影が解ける。
「おう!帰ったか、ヴォルグ」
鬼人族ルシエル。腕を組み、不敵な笑みを貼り付けている。
その足元、水気を含んだ漆黒の影の中から、コブラの頭部を持つ鱗の民セティス・ヴェノムがヌラリと姿を現した。
人間の胴体に不釣り合いなその異形の頭が、鎌首をもたげるように不気味に揺れる。
「随分と長旅だったな。……何も知らんのだろう?」
セティスの濡れた吐息のような声。その含みのある響きに、ヴォルグの眉間に深い皺が刻まれる。
「知らんとは、何がだ」
「ガルダが死んだ。人間どもとの小競り合いでな」
世界が、一瞬にして音を失った。
ヴォルグの歩みが止まる。心臓の鼓動だけが、鼓膜の内側で暴力的に暴れ始めた。
「……もう一度言ってみろ」
「聞こえただろう。ガルダは死んだ。それと――クラウス様も、深手を負って今は治癒士のもとで休んでいる」
言葉が脳に突き刺さる。
ヴォルグの拳が、ガタガタと音を立てて震えだした。
伸びた鋭い爪が、自身の掌を無慈悲に引き裂く。鮮血がポタポタと冷たい石畳を汚していくが、その痛みすら彼には届いていない。
「ガルダが……死んだ、だと……」
脳裏をよぎる、荒々しい笑い声。泥にまみれ、血を流して肩を組み合った、あの図太い思い出。それがもう、永久に灰になるというのか。
「ふざけるな……ふざけるなよ!!人間だと?殺してやる。」
咆哮が城を揺らした。地響きのように石柱が震え、燭台の炎が恐怖したように激しくのたうち回る。
ルシエルは眉一つ動かさない。ただ、ヴォルグの煮え滾る瞳を冷ややかに見つめていた。
「怒るのは勝手だが、相手を知らずに突っ込むのは愚か者のすることだぞ」
「相手は誰だ」
「Sランク魔術士――ローザ・カイリという女だ」
その名を聞いた瞬間、ヴォルグの全身から噴き出していた殺気が、ピタリと凪いだ。
「……Sランク、だと」
「勘違いするなよ。クラウス様がまともにやり合っていれば、Sランク魔術士と言えど、相手にならん。本来なら足元にも及ばんほどの差だ」
ルシエルの冷徹な分析。
「だが、クラウス様は慢心から油断し、最初から全力を出さなかった。その隙を突かれて人間どもに足元をすくわれ、深手を負わされた――それだけの話だ」
「最初から全力を出していれば、あんな連中に後れを取るなど有り得ん!」
セティスの追撃に、ヴォルグの喉の奥から、ドロドロとした低い唸り声が絞り出される。
「……その、油断を突いた人間どもがいるということか」
「ああ。だが、その油断を引き出させた相手もまた、只者ではないということだ」
ヴォルグは、血で濡れた拳を強く握り直した。
その口元が歪む。自嘲ではない。獲物を仕留める直前の、獣の獰猛な笑みだ。
「なら――狙うべきはそっちだな」
セティスとルシエルが、一瞬だけ視線を交差させる。
「何を考えている」
「決まってるだろう。俺たちの長が――我が族長がやられたんだぞ」
剥き出しの牙。剥き出しの憎悪。
「クラウス様を舐め腐らせた人間ども、そしてそいつらが目をかけている連中がいるはずだ。守るべきものを一つずつ潰していけば……勝手に頭を垂れて出てくる」
ヴォルグは冷徹な眼光を走らせ、低く唸った。
「慢心を誘うほど厄介な力を持つ人間だ。名も、居場所も分からんでは動きようがない」
「ほう。今すぐ突っ込むかと思ったが、頭は冷えているようだな」
ルシエルの挑発的な問いかけ。
「怒りに我を忘れて犬死にするほど、俺は愚かじゃない」
ヴォルグは獣じみた笑みを崩さないまま、喉を鳴らす。
「お前らは何か知っているか。クラウス様の相手をした人間どもについて」
「詳しくは知らんな。……調べておくことだ」
セティスの冷淡な拒絶。ヴォルグは鼻を鳴らし、踵を返す。
石畳を苛立たしく踏み鳴らす足音が、急速に遠ざかっていく。
静寂が、再び広間を支配した。
「……止めなくてよかったのか?ルシエル」
「ふん。あれを止められるのは、もうガルダしかいなかっただろうよ。それに魔王様もあくまでも牙血族だけで動くのは良しとしている」
ルシエルの薄い唇が、静かに弧を描く。それは、多くの命が泥に帰る未来を予見した、冷徹極まりない微笑だった。
(せいぜい事を大きくして、協定の秩序を根底から食い破れ。最高のお膳立てだ)
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