第163話 魔獣の力
荒ぶる咆哮がもたらした衝撃波が周囲の空間を呑み込み、それがようやく遠ざかった後も、リュウジィの身体は鉛のように固まったままピクリとも動かなかった。
視界の端、崩れゆく景色の向こう側でローザの小柄な身体が虚空へと弾き飛ばされていく軌跡が、なぜか残酷なほどスローモーションのように脳裏に焼き付いて離れない。
――くそっ!なんだこれは!動け。動けよ、俺の身体。
沸き立つ内功を丹田から絞り出そうと必死に気を練ろうとするが、クラウスの放った衝撃波によって硬直した筋繊維の一本一本が完全に拒絶反応を示し、一切の命令を聞き入れてくれない。
焦燥と無力感だけが、胸の奥底で黒々とした澱のようにドロドロと膨れ上がっていく。
その絶望的な膠着状態の中、痺れきった指先の感覚が、まるで氷が溶けるようにスッと引いていく微かな変化を捉えた。
硬直が解けた、その刹那――。
リュウジィは思考よりも速く、反射の極みで地面を蹴り飛ばしていた。
吹き飛ばされ、鋭利な瓦礫の海に転がるローザの元へと、独自の足捌きである跟歩の要領で最短距離を猛然と駆ける。
だが、彼女の元へ辿り着くよりも遥かコンマ早く、視界の真横から圧倒的な暗雲の如き黒い影が冷酷に差し込んだ。
クラウスだった。
漆黒のライオンの幻影を背後に纏ったその巨大な躯体は、まるで最初からそこに存在していたかのように、冷徹な仁王立ちで道を塞いでいる。
反応する隙など、最初から与えられていなかった。
死角から閃光の如く顔面めがけて振り抜かれた重い拳が、周囲の空気を完全に引き裂きながら凄まじい風圧を伴って迫る。
殺られる――。
脳裏に突き刺さる直感を頼りに、リュウジィは咄嗟に身体を後方へ激しく跳ばし、致命的な一撃の威力を紙一重で殺そうと試みた。
だが、その退避の軌道すら、完全な魔獣となったクラウスには完全に看破されていた。
逃れようとする軌道を狙い澄ましたかのように、追撃の鋭い蹴りががら空きとなった腹部に深く、容赦なくめり込む。
「ぐっ……はっ……!」
肺の奥底に残されていた空気が一滴残らず押し出され、リュウジィの身体はまるで折れた木の葉のように虚空を舞って吹き飛んだ。
その絶対的な隙、誰もが絶望する一瞬の空白を決して逃さず、タツヨが怒涛の弾丸の如き勢いでクラウスの懐へと肉薄する。
左、右、そして虚空を抉るような顎を撃ち抜く強烈なアッパーカット――現世での果てしない鍛錬の中で幾千回、幾万回と血を流しながら繰り返してきた至高のコンビネーションが、迷いなき一撃の軌道を描いて炸裂した。
「――っ」
クラウスの屈強な巨体が、わずかに、しかし確実に揺らぐ。
――ヒットした。手応えは明確にある。確実に効いている。
だが、次の瞬間だった。
まるでタツヨの放った一連の動きを生々しくその場で完璧にトレースしたかのように、クラウスの拳がまったく同じ美しい軌道を描き、頭部、腹部、そして顎の三点を正確無比に撃ち抜いてきた。
「ぐわっ!なっ……馬鹿な……!」
迎撃する間すら一瞬たりとも与えられず、タツヨの身体は凄まじい遠心力を乗せたまま横薙ぎに弾き飛ばされた。
一方、凄まじい勢いで地面に叩きつけられたリュウジィは、激痛に波打ち続ける腹部を両手で押さえながらも歯を食いしばり、瓦礫の中にぐったりと倒れ伏すローザの元へと這うようにして駆け寄る。
震える手で胸元のアイテムボックスを探り当て、そこから最後の頼み綱である回復薬のナロキシンを掴み取り、彼女の青ざめた口元へと懸命に運んだ。
「……悪いわね、助かったわ」
ローザは差し出された薬を飲み下しながら、苦悶に歪みつつもどこか掠れた声で痛ましげに笑ってみせる。
「私は大丈夫。ただ……ちょっとの間だけ、まともに動けそうにない」
そう告げると、彼女は残された気力を集中させ、防護魔法を発動させた。淡く、しかし温かく輝く小さな魔力のドームが、彼女の負傷した身体を優しく、そして強固に覆うようにその場に立ち上がる。
その揺るぎない光の結界を確認した瞬間、リュウジィはすぐさま身を翻し、ふたたびクラウスとタツヨが血みどろの衝突を繰り返す殺戮の只中へと割って入った。
「いくぜぇ!」
「遅ぇよ、阿呆!」
二人は阿吽の呼吸で鋭く左右に分かれ、巨大な猛獣たるクラウスを挟撃する布陣を瞬時に形作る。
刹那、極限の三つ巴の死闘が再び火を吹いた。
リュウジィが践歩を爆発させ、クラウスの右側面へと一気に踏み込み、全身のバネと内功の出力を乗せた渾身の崩拳を放つ。
赤々と燃え盛る熱を纏った拳が、クラウスの頑強な脇腹に深く突き刺さり、周囲の空気を裂くような重く鈍い爆ぜる音が響き渡る。
だが、その内部へと浸透していくはずの勁は、肉体の奥底から猛然と押し返してきた圧倒的な質量と重圧に押し返され、逆に弾き出されてしまった。
「甘いな」
反撃の速度は、人間の動体視力で辛うじて捉えられる領域すら遥かに超越していた。
しなやかに返された肘の刃が、リュウジィの側頭部を冷たくかすめる。
かろうじて寸前で身体を反らせて直撃だけは免れたが、引き裂かれた黒髪の束が数本、虚空に虚しく舞い散った。
その刹那の、本当にわずかな隙すら逃さず、タツヨが背後から破壊的な左フックを叩き込む。
だがクラウスは振り向きもしず、屈強な肩の筋肉の収縮だけでその重いパンチをまるで小石のようにいなして受け流した。
「その程度か?人間!」
獰猛な笑みを浮かべながら、クラウスがさらに一歩、踏み込む。
魔獣の拳が、タツヨが構えた鉄壁のガードごとすべてを押し潰す破壊の勢いで叩きつけられた。
タツヨは鋭いトゲだらけのブルーメタリックに輝くガントレットで懸命に受け止めるが、桁違いの衝撃を完全に殺しきれず、
両足の靴底が地面に二本の深い溝を刻みながら凄まじい勢いで後退させられた。
クラウスのその拳には、驚くべきことに、未だに一筋の傷すらつかない。
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