140話 達人と言う現実
厨房から漂ってくる香ばしい匂いに、老師が目を細めた。
ゼノンとギノンが慌ただしく動き回り、テーブルの上に炭火の入った鉄板を運んでくる。バッドの母が下味をつけた肉を大皿に盛り付けて持ってきた。
「良い匂いだ」
老師がそう呟くと、隣に座ったロンが小さく尻尾を振った。犬の姿になってもその仕草は変わらないらしい。
老師は肉を一切れ取り、鉄板に乗せた。じゅっと音を立てて脂が弾ける。焼き加減を見極めるように、じっと肉を見つめている。
しばらくして、老師は焼けた肉を口に運んだ。
「うむ」
老師の反応を横で見ていたバッドの母が、少し緊張した顔で聞いた。
「お口に合いますでしょうか」
「島の干物とは比べ物にならん。焼き加減を自分で決められるというのも、悪くないものだな」
その一言に、バッドの母がほっとした表情を浮かべた。
タツヨは向かいの席で肉を次々と鉄板に並べながら、ちらちらと老師の様子を窺っていた。まだ半信半疑といった顔をしている。
食事が終わる頃、老師が箸を置いて言った。
「では、約束通り軽くやるか」
タツヨが立ち上がった。目の奥に、闘志の色が浮かんでいる。
「望むところだ」
店の裏手にある広場に移動すると、ゼノンとギノンも見物に付いてきた。ロンは少し離れた場所に座り、静かにこちらを眺めている。
夕方の風が広場を吹き抜けていく。タツヨが肩を回し、拳を握り直した。
「リュウジィさん、あの方は本当に大丈夫なんでしょうか」
ゼノンが小声で聞いてきた。俺は黙って首を横に振った。
「見てればわかるよ」
タツヨが構えを取った。ボクサー特有の軽い足運びで、老師との間合いを測っている。老師は特に構えるでもなく、自然に立っているだけだった。それでいて、隙という隙が見当たらない。
「いつ来てもかまわんぞ」
タツヨが踏み込んだ。
速い左のジャブを放った、次の瞬間スウーッとタツヨの懐に入り、老師の掌がタツヨの胸を撃った。タツヨの体が宙に浮き、地面に転がっていた。
何が起きたのか、俺にもはっきりとは見えなかった。
「な、」
タツヨが起き上がりながら、信じられないという顔をした。
「もう一回だ」
「おい若いの、わしはここを動かんから好きなだけ撃ってこい」
老師はそう言いながら、右足でトントン地面を踏みしめた。
ゼノンとギノンが顔を見合わせ、息を呑んでいるの。
俺も同じだった。あの構えは、孤島で何度も見た。
動かないと宣言しておいて、実際に一歩も動かず捌ききる。あの頃の俺は何十回も、地面に転がされた。
タツヨは一気に距離を詰め、パンチを連打した。
嵐のようなタツヨの連打を老師は一歩も動かず全て、捌いた。
バッ!バッ!バッ!バッ!バッバ!
そして老師の掌がタツヨの顎を軽く撃った。
タツヨはその場で落ちるように膝をついた。
ゼノンとギノンが顔を見合わせた。
タツヨは立ち上がるが、膝がプルプル震えていた。
「まだやるのか?」
「勿論やるよ」
タツヨの声には、先ほどまでの余裕がなくなっていた。
「うおおおお!」
叫び声を上げながら踏み込み、ファントムストレートを放った。しかし老師は最小限の動きでそれを流し、腹に突きを入れた。
軽く突いたように見えたが、タツヨは五メートルぐらい吹き飛んだ。
タツヨはまた地面に沈んだ。
しばらく動けずにいたタツヨが、仰向けのまま息を吐いた。
「……何なんだよ、これ」
老師が静かに言った。
「お前はパワーもスピードもあるが、殺気が強すぎるな。来るのがわかる」
タツヨは何とか起き上がると、悔しそうな顔をしながらも、老師の言葉を頭の中で反芻しているようだった。
「もう一回やってくれよ」
「今日はここまでにしておこう。何度やっても結果は同じだからのう」
タツヨは不満げな顔をしたが、それ以上は言わなかった。
俺はその様子を見ながら、孤島での稽古を思い出していた。あの頃の自分も、こうして何度も地面に転がされ、悔しさだけを抱えて夜を明かした。
だが振り返れば、あの日々があったからこそ、今の自分がある。タツヨにとっても、今日のこの敗北がきっと同じ意味を持つはずだった。
ロンが近づいてきて、タツヨの手に鼻先を押し付けた。慰めているのか、それとも笑っているのか。
タツヨは苦笑いを浮かべながら、ロンの頭を軽く撫でた。
すでに日が落ち、広場に灯りが灯り始めていた。
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