第122話:鞭のような拳
翌日、朝の冷たい空気がまだ肌に残る中、俺はタツヨの家へと足を向けた。重い木製の扉の前に立ち、拳で二度ほど強く扉を叩くと、しばらくして面倒くさそうな足音を響かせながら、タツヨが姿を現した。
いかにも寝起きといった、不機嫌そうな顔だった。
「なんだ、朝っぱらから」
「上がるよ」
タツヨは半分眠ったままの目でリュウジィをじっと見つめてから、あきらめたように扉をもう少し大きく開けた。
俺はそのまま部屋に入った。タツヨは椅子に腰を下ろすと、隠そうともせずに大きなあくびをした。
「朝っぱらから、何の用だよ」
「ミライのことだ」
その名前を聞いた途端、タツヨの目がわずかに動いた。
「ボクシング教えてたんだってな」
「あれ? ばれちゃった」
「なんで俺に一言言わないんだよ」
タツヨはリュウジィに目を向けると、少し考えるような、それでいて面白がるような顔を浮かべた。
「ミライちゃんが言うなって言ったんだよ。それに何回も何回も、もう待つ女にならないって言うからさ。根性あるな、お前の女」
「全く、あいつは」
リュウジィは苦笑した。
別に本気で怒っているわけじゃない。怒ったところで、一度決めたら言うことを聞くような女ではない。そんなことは、俺が一番よくわかっている。それに、俺のためにこっそり習い始めたのだと思うと、強く出ることもできなかった。
「才能あるって言ったそうだな」
「そう! それなんだよ」
タツヨは目を丸くして、勢いよく言った。
「ミライちゃんのスキルって何なんだ?」
「えっ? 何で?」
「まるで乾いた砂が水を吸い込むみたいに、教えたそばから技を吸収するんだよ……天才すぎるんだよ。ちょっと異常なんだよ、あいつは」
「はあ? お世辞じゃなかったの?」
タツヨが身を乗り出して言う。
「俺はボクシングに関して、お世辞なんて言わないよ。お前の発勁とも違う、俺のパンチの打ち方とも違うんだよな。女性ならではの柔軟性もあるんだろうけど、全身のバネを使って鞭みたいな鋭いパンチを打つんだよ」
その言葉に、俺は思わず絶句した。
「嘘だろ!」
「本当だよ。そりゃパワーはまだないし、組まれたときの対処法も覚えていないから不利だけどさ、ディフェンス能力は凄いぞ。あと少し練習を積ませれば、その辺のゴロツキなんか触れる事も出来ねえレベルになるぞ」
「…………」
「おい、怒ってるのか?」
「怒ってないよ。強くしてやってくれ。大事な女だからさ。頼む」
俺は深々と頭を下げた。
「おいおい、よせよ。わかった。少しでも危険な目に遭わないように、俺の技術の全てを教えてやるよ」
そう言ってタツヨはニッと笑い、力強く拳を突き出した。
家に帰ると、俺は形意拳の練習スペースにミライを呼んだ。
「何? どうしたの?」
「ちょっとミライのボクシングの成果を見たいんだよ。ちょっと俺に打って来てよ」
「リュウジィには敵わないよ」
「勝つ負けるじゃないよ。見せてよ」
「わかったわ」
そう言うと、ミライがファイティングポーズを取った。なかなか様になっている。
ヒュンッ!
次の瞬間、鋭いジャブが飛んできた。絶対に避けられないほどではない。それでも、確かに速い!
俺の部屋は決して広くない。だから、その場から動かずに躱そうと思ったのだが、思わず足が動いてしまった。
ヒュンッ! ヒュンッ!
鞭のようにしなるジャブが、次々と飛んでくる。俺はそれを手で反らしながら、手際よく躱していく。
フットワークも実に速い。俺は心の中で確信した。
(これは強くなるな)
その瞬間、右のストレートが飛んできた。思った以上に伸びのあるストレートだったうえ、油断もしていたせいで、手で反らして躱すのが間に合わなかった。俺は内功盤根の円の動きを使い、滑らかに躱してミライの体勢を崩した。
体勢を崩し、そのまま倒れかけたミライをサッと抱きかかえた。
「ミライ凄いな」
「やっぱり当たらない!」
ミライは悔しそうに言った。俺たちはしばらくそのままの姿勢でいた。ミライの息が落ち着いた頃、彼女は俺を見上げて口を開いた。
「ねえ、相談があるんだけど」
「なんだ」
「お店、辞めていいかな」
俺は少し間を置いてから、ミライに目を向けた。
「理由を聞かせてくれ」
ミライは真剣な顔をしていた。
「今回、エンペラーナックルを探して王都中の武具屋を回っていたんだけど。女性剣士も女性冒険者もたくさんいるのに、どこの店に行っても男性用ばかりで、女性向けは全部特注になるって言われたわ」
「それで?」
「女性専用の武具屋を作れないかなって。需要はあるのに、誰もやっていないから」
リュウジィは腕を組んだ。
もともとミライに男装して店を手伝ってもらったのは、俺が勧めたからだ。彼女自身がやりたいと言ったわけではない。やりたいことを見つけたのなら、本人の自由にさせるのが一番だ。
それに、悪くない。むしろ、かなり良い着眼点だった。確かに女性冒険者や女性剣士も一定数いる。それに対して、武具屋はどこも男性向けが主流だった。
「それは構わないけど、ミライのラッキーを引き継げる人はいる?」
ラッキーとは、キャバクラで女性の付け回しをする係のことだ。今はミライが主に担当しており、店の生命線ともいえる業務になっている。ミライが店で働く前は、リナ、バッド、ハクさんが状況に応じて担当していた。今ではミライ一人に任せきりになっている。
「シド君ならできるよ。たまに私の代わりにやってもらっているし、ちゃんと教えているから大丈夫」
「そうか。なら武具屋をやるなら鍛冶屋を探さないと無理だぞ。売るだけじゃなく、作れる人がいないと」
「実は、お願いしたい人を一人見つけたのよ。王都の外れで小さな武具屋を営んでいて」
「俺は剣のことがわからないからな。バッドも一緒に連れて行こうか?」
ミライは嬉しそうに頷いた。その笑顔を見つめながら、俺はふと思った。
(待つ女は止めるか。ミライの奴、俺よりずっと商売人じゃないか)
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