第115話:老師の過去
朝の厳しい稽古がようやく一段落した。
身体にはまだ疲労が残っていたが、広大な砂浜には静寂が戻っていた。次に始まるのは、白木の棒による打ち込みの稽古だった。
一回。二回。五回。
棒を突き出すたび、手のひらに負担がかかる。十回を過ぎた頃には皮膚が擦れ、じんじんと熱を帯びた痛みが広がり始めた。
それでも、昨日とは明らかに違っていた。昨日は激しい痛みに耐えきれず、途中で棒を落としそうになった。だが、今日は身体の使い方が少しずつ身についてきている。
意識するのは、腕の力だけで棒を突き出さないことだ。
砂を踏みしめる足の裏から、ふくらはぎ、大腿部を通って腰へ。さらに骨盤から背中、肩、腕へと、全身の力を滑らかに伝えていく。
突き切る瞬間に全神経と力を一点に集中させ、直後には余計な力を抜く。
頭で理解するだけでは意味がない。この動きを身体そのものに覚え込ませる必要があった。
二十回を過ぎても、指先の感覚はまだ失われていなかった。
呼吸を整え、身体の中心にある軸を意識する。疲労に引きずられて姿勢が崩れないよう、足元から全身の状態を確かめながら、一本ずつ突きを繰り返した。
二十五回目。
手のひらにできていた豆が、鈍い感触とともに潰れた。
直後、突き抜けるような鋭い痛みが走る。破れた皮膚がひりひりと痛み、じくじくとした感覚が広がっていった。
思わず顔をしかめたが、突きの手を緩めることはなかった。
昨日は三十回に達した時点で、全身の筋肉が悲鳴を上げた。そこが昨日の限界だった。
だが、今日は違う。
稽古を重ねる中で、身体の使い方の勘所が掴めてきていた。腕だけに頼らず、足元から全身を連動させて突く。その感覚が、確かなものになりつつある。
三十五回。
四十回。
突きを重ねるごとに疲労は増していったが、まだ先へ進めるという手応えがあった。
四十回目の突きを終えると、リュウジィは限界を迎えた腕の力を緩め、白木の棒をそっと砂浜に置いた。
両手を何度も開いたり閉じたりして、感覚を確かめる。
微かな痺れは残っていたものの、昨日の打ち込みを終えた後に感じた、指先の感覚がほとんど失われるほどの麻痺に比べれば、遥かにましだった。
「昨日より十回増えたの」
背後から不意に声がした。
リュウジィが振り返ると、いつの間にか老師が立っていた。まったく気配を感じなかった。いつからそこにいたのかさえ分からない。
「まだまだじゃが、一日で十回増えるのは悪くない」
荒い息を整え、額の汗を拭いながら、リュウジィは老師を見つめた。
「さて今日は一つ秘伝でも教えるかの」
「見ておれ」
老師はそう言うと、リュウジィがこれまで見たことのない套路を披露した。
それは、前方へ真っ直ぐ踏み込む動きではなかった。円を描くような滑らかな軌道を主体とし、身体全体が途切れることなく連動している。
河北派の、直線的に威力を爆発させる形意拳とは違い、柔らかく流れるような動きだった。むしろ八卦掌にも通じる美しさがあり、その奥には底知れない深さが感じられた。
一つ一つの動きに無駄がない。力を入れているようには見えないのに、動きのどこにも隙が感じられなかった。
円の動きから繰り出される、強大な発勁。
リュウジィは思わず見入っていた。
「それはなんですか?」
「内功盤根。山西派形意拳の秘伝じゃ」
「えっ!でも老師の形意拳って河北派では?」
「河北じゃよ。現世にいる時に山西派に物凄く強い奴がいると聞いてな。手合わせに行ったんじゃよ。結局勝負はつかなかったが」
「そんな歴史があったんですか?びっくりです」
「わしは強くなるためには何でもやる人間じゃから、そいつに弟子にしてくれと言った。そいつは笑いながら弟子には出来ないけど、とこれを教えてくれた」
「じゃからこの内功盤根は、その山西派のそいつから教わったものじゃ」
老師は先ほどの動きをもう一度、ゆっくりと繰り返した。
「河北が剛に対して山西は柔。これを覚える事でわしの形意拳は洗練された。お前も覚えろ」
そう言うと、老師はリュウジィの手を取り、実際に動かしながら教え始めた。
手首や肘の角度、肩の力を抜くタイミング、腰の回転と足の運び。それぞれの動きがどのようにつながり、どこで力を伝え、どこで力を抜くのか。
老師は一つ一つを丁寧に確認しながら、リュウジィの身体に動きを覚え込ませていった。
頭では理解できても、実際に動いてみると思うようにはいかない。力を入れすぎれば動きが硬くなり、抜きすぎれば軸が崩れる。
そのたびに老師が手を添え、関節の角度や身体の向きを修正してくれた。
リュウジィは教えられた動きを何度も繰り返した。
波音だけが響く砂浜で、二人は幾度も套路を繰り返す。最初はぎこちなかった動きも、繰り返すうちに少しずつ滑らかになっていった。
やがてひと区切りがつくと、老師は砂の上にゆっくりと腰を下ろした。
ロンが老師の隣に寄り添うように歩み寄った。
「わしがここに来たのは百四十年前じゃ。転生した時は三十歳だった」
リュウジィは息を整えながら、老師の横顔を見た。
百四十年。
あまりにも長い年月だった。その時間の重みを想像しようとしても、自分の知っている時間の感覚では、うまく実感することができなかった。
「この世界では武術が好き放題使えた。現世では強くなっても、命のやり取りが出来る場がなかったが、ここでは違った。戦場があった。敵がいた。わしは傭兵になった」
老師は海の彼方を見つめながら、淡々と語った。
「一つの国には仕えなかった。色んな国を渡り歩いた。戦って、勝って、また次へ。どうだ俺は強いだろ?ってな。魔族の王とも闘ったことがある。決着はつかなかったがな」
リュウジィは口を挟まず、静かに耳を傾けていた。
老師がどんな人生を歩んできたのか。百四十年という時間の中で、どれほどの戦いを経験してきたのか。
その一端を、今こうして聞いているのだ。
「四十になった頃、わしは老いていくのが嫌になった。強さが衰えていくのが許せなかった。不老不死の薬を探した」
「見つかったんですか」
「不老不死の薬はなかった。じゃが、あるダンジョンで老化を遅らせる薬を見つけた。それを飲んだ。だからわしはまだここにいる」
老師はそこで言葉を切った。
しばらくの沈黙の後、再び口を開いた。
「現世の本でわしがどう書かれているか知らんが——」
老師の視線が水平線の彼方へと向けられた。
「わしは傲慢な男だった。自分の強さを試したくて、数え切れないほどの人を殺した。どうしようもない奴じゃった」
その言葉に、自分の過去を飾り立てるような響きはなかった。
強さを求め、戦い続けた果てに、自分が何をしてきたのか。老師はそれを誰かのせいにすることなく、自分自身の言葉で語っていた。
リュウジィは何も言えなかった。
どんな言葉を返せばいいのか、分からなかった。
老師は静かに言葉を続けた。
「強くなることは悪いことじゃない。だがな、強さに溺れた時、人は獣になる。わしがそうだった」
老師がリュウジィに向き直り、真っ直ぐに見つめた。
その瞳には冗談も迷いもなく、真剣な光が宿っていた。
「お前はそうなるな」
リュウジィは老師の目を正面から見返した。
百四十年という過酷な時を生き抜き、無数の戦いを経験し、自分自身の過ちとも向き合ってきた者。その言葉には、実際にその人生を歩んできた者にしか持ち得ない重みがあった。
「……はい」
リュウジィの返答を聞くと、老師は小さく頷いた。それからゆっくりと立ち上がった。
「白木の棒、まだ六十回残っとるぞ」
「う……」
リュウジィは苦笑いしながらも、砂の上に置いていた白木の棒を再び手に取った。
まだ六十回。
手のひらには痛みが残り、腕にも疲労が蓄積している。決して楽な稽古ではない。それでも、ここで弱音を吐くつもりはなかった。
四十一回。
リュウジィは足元の砂を踏みしめ、身体の中心にある軸を意識した。
足から腰へ、腰から背中へ、そして腕へ。
全身の動きを連動させ、鋭く踏み込んで突きを放つ。
突き切った棒の先端が、昨日よりもずっと自然に、ぶれずに定まったように感じた。
ほんのわずかな違いかもしれない。それでも、自分の身体が確実に変わり始めている。その手応えは、はっきりと感じられた。
一日も早くキングス・フォーンに帰って、ミライや店の皆に無事を伝えたい。
きっと皆が心配しているだろうし、自分の不在に不安を感じているはずだ。
早く帰りたいという気持ちは変わらない。
だけど、今ここで焦ってジタバタしたところで、何も始まりはしない。
だったら、しっかりと腹を括ろう。
今はただ、老師の圧倒的な技術を完璧に自分のものとして習得する。それが、キングス・フォーンへ帰るためにも、これから先を生きていくためにも、今の自分にできることだった。
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