第115話:老師の過去
朝の稽古が終わった後、白木の棒の時間が始まった。
一回。二回。五回。
十回を過ぎた頃から手のひらが熱くなってきた。昨日よりは少しましだった。全身を使うことを意識した。踏み込みから、腰から、背中から、腕へ。突き切った瞬間に力を抜く。
二十回。
まだ痺れない。
二十五回。
手のひらの豆が潰れた。
三十回。
昨日は三十回で限界だった。今日はもう少しいける気がした。
三十五回。
四十回。
白木の棒を地面に置いた。両手を開いたり閉じたりした。痺れていたが、昨日ほどではなかった。
「昨日より十回増えたの」
老師がそこにいた。いつからいたのかわからなかった。
「まだまだじゃが、一日で十回増えるのは悪くない」
リュウジィは息を整えながら老師を見た。
「さて今日は一つ秘伝でも教えるかの」
「見ておれ」
老師はそう言うと、俺が見たこともない套路を見せてくれた。
それは円の動きを主体とした套路で、形意拳と言うよりは八卦掌に近かった。
「それはなんですか?」
「内功盤根。山西派形意拳の秘伝じゃ」
「えっ!でも老師の形意拳って河北派では?」
「河北じゃよ。現世にいる時に山西派に物凄く強い奴がいると聞いてな。手合わせに行ったんじゃよ。結局勝負はつかなかったが」
「そんな歴史があったんですか?びっくりです」
「わしは強くなるためには何でもやる人間じゃから、そいつに弟子にしてくれと言った。そいつは笑いながら弟子には出来ないけど、とこれを教えてくれた」
「河北が剛に対して山西は柔。これを覚える事でわしの形意拳は洗練された。お前も覚えろ」
そう言うと老師は手を取り教えてくれた。
しばらく二人で套路を繰り返した後、老師は砂浜に腰を下ろした。ロンが老師の隣に静かに座った。
「わしがここに来たのは百四十年前じゃ。転生した時は三十歳だった」
リュウジィは老師を見た。百四十年。その言葉の重さを頭の中で測ろうとしたが、うまくいかなかった。
「この世界では武術が好き放題使えた。現世では強くなっても、命のやり取りが出来る場がなかったが、ここでは違った。戦場があった。敵がいた。わしは傭兵になった」
老師は海を見ていた。
「一つの国には仕えなかった。色んな国を渡り歩いた。戦って、勝って、また次へ。どうだ俺は強いだろ?ってな。魔族の王とも闘ったことがある。決着はつかなかったがな」
リュウジィは黙って聞いていた。
「四十になった頃、わしは老いていくのが嫌になった。強さが衰えていくのが許せなかった。不老不死の薬を探した」
「見つかったんですか」
「不老不死の薬はなかった。じゃが、あるダンジョンで老化を遅らせる薬を見つけた。それを飲んだ。だからわしはまだここにいる」
老師は少し間を置いた。
「現世の本でわしがどう書かれているか知らんが——」
老師の目が海の遠くを見た。
「わしは傲慢な男だった。自分の強さを試したくて、数え切れないほどの人を殺した。どうしようもない奴じゃった」
リュウジィは何も言えなかった。
老師は静かに続けた。
「強くなることは悪いことじゃない。だがな、強さに溺れた時、人は獣になる。わしがそうだった」
老師はリュウジィを見た。目が真剣だった。
「お前はそうなるな」
リュウジィは老師の目を見た。百四十年分の重さがそこにあった。
「……はい」
老師は小さく頷いた。それから立ち上がった。
「白木の棒、まだ六十回残っとるぞ」
リュウジィは苦笑いしながら白木の棒を持ち上げた。
四十一回。
踏み込んで突いた。
先端がわずかに、昨日より自然に止まった気がした。
1日も早くキングス・フォーンに帰ってミライや店の皆に無事を伝えたい。
きっと皆心配してるだろう。
だけど今はジタバタしても、始まらない。
だったら、老師の技術を習得するだけだ。




