第114話 白木の大槍
朝の稽古がようやく終わった。
三体式、五行拳、十二形拳、連環拳。老師の指摘は今日も鋭かったが、昨日より言葉が少なかった。それが良い兆候なのか悪い兆候なのか、最初はわからなかった。
指摘が減ったということは、少しずつ動きが身についてきたということなのか。それとも、まだ理解できていない部分が多すぎて、何から教えればいいのか見極められていないのか。
リュウジィには判断がつかなかった。
ただ、身体には朝の稽古で積み重ねた疲労が確かに残っていた。繰り返し動作を確認し、わずかな重心のずれや力の使い方を指摘され、そのたびに修正する。基本の動作であっても、老師の求める水準に到達するのは容易ではなかった。
稽古が一段落した時、老師が口を開いた。
「基礎はよう出来ておる」
リュウジィは思わず老師を見た。
聞き間違いかと思ったわけではない。確かに、今の言葉は自分の基礎を認めるものだった。
老師はめったに褒めない。指摘するか、黙っているかのどちらかだった。その老師が基礎を認めてくれた。二十七年続けてきたことが、この一言で報われた気がした。
これまでのやって来た事が無駄ではなかった。その事実を、初めて老師自身の言葉で確かめられたような気がした。
「二十七年やってきただけのことはある。土台はしっかりしておる」
老師はそれだけ言って、踵を返した。
「ちょっと待っとれ」
老師が小屋の方へ向かった。しばらくして戻ってきた時、肩に担いでいたのは白木の棒だった。
太さは握ってちょうど指が届くほど。長さは四メートルはあろうかという、立派な一本だった。これほど長い棒をどうやって作ったのか、リュウジィには見当もつかなかった。
目の前に現れた棒は、武器として使うにはあまりにも長かった。人の背丈を大きく超えるその長さは、見慣れた棒術の道具とは別物にさえ思える。
それだけの長さがありながら、白木の表面には目立った装飾もなかった。武器としての機能だけを追求したような、飾り気のない姿だった。
老師は白木の棒を軽々と構えた。両手で握り、槍を持つような姿勢を取る。
四メートルもの長さがある棒を、老師はまるで身体の一部であるかのように扱っていた。長い棒を支えるために余計な力を込めている様子もなく、構えた姿勢には不自然なところがひとつもなかった。
「槍の基本動作じゃ。見ておれ」
老師が踏み込んだ。
白木の棒が鋭く突き出された。先端が空気を切り裂き、ワンテンポ遅れて乾いた音が響く。突き切った棒の先端は、スッと力が抜けるように止まっていた。
リュウジィは、その一連の動きを目で追った。
長い棒を前方へ突き出しただけに見える。しかし、そこには無駄な動きがなかった。踏み込んだ脚から生まれた力が腰を通り、背中から腕へと伝わっていく。その流れが途中で途切れることなく、棒の先端まで届いていた。
腕の力だけで押し出したのなら、あれほど鋭い突きにはならない。しかも、突き切った瞬間には余計な力が残っていない。強烈な破壊力を先端へ伝え切りながら、止めるべき場所では自然に静止している。身体全体の動きが一つにつながり、鋭い勁となって棒の先端へ結実していた。
「全身を強調する。腕だけで突こうとするな。踏み込みから、腰から、背中から、最後に腕へ。そして突き切った瞬間、先端の力を抜く」
老師はもう一度やって見せた。
今度も、動きは一瞬だった。
棒が鋭く伸び、先端が止まる。
また、音だけが遅れて届いた。
リュウジィは、老師の言葉を頭の中で繰り返した。
踏み込みから、腰から、背中から、最後に腕へ。
順番を理解することはできる。全身の力をつなげるという考え方も、形意拳を長年練習してきた自分には馴染みのあるものだった。
だが、実際にあの長い棒を扱うとなれば話は別だ。自分の身体で、老師と同じことができるのか。それは、まだわからなかった。
「これをゆっくり百回やれ」
老師はリュウジィに白木の棒を渡した。
現世で習っていた中国人の老師も、発勁を強化するなら兵器、つまり槍などの武器を練習しろと言っていた。
だが、俺は戦う時には素手だ。三国志じゃあるまいし、槍を持ち歩くわけにもいかない。そう考えて、以前はかじる程度にしか練習したことがなかった。
今になって考えれば、当時の自分は武器の練習が持つ意味を十分に理解していなかったのかもしれなかった。
素手で戦う以上、素手の技を磨くことが最優先だ。そう考えるのは自然なことだったし、実際、長年にわたって拳法の練習を続けてきた。
しかし、目の前にある白木の棒は、これまで扱ったものとはまるで違っていた。
重かった。現世で持たされた槍も重かったが、重さも長さも比較にならない。
両手で受け取った瞬間、想像以上の質量に思わず膝が沈んだ。持ち上げるだけで全身に力が入り、構えるだけでも腕が震えた。
長い棒は、ただ持ち上げればいいというものではない。先端まで意識を行き届かせようとすれば、手元の重さだけでなく、棒全体を支える難しさまで意識しなければならなかった。
これでは、突く動作に入る前から力を使い切ってしまいそうだった。
それでもやるしかなかった。
一回。踏み込んで突いた。
二回。
五回。
十回。
最初は老師の動きを思い出しながら、腰、背中、腕へと力を伝えようとした。だが、棒の重さに意識を奪われ、どうしても腕に頼ってしまう。
全身を使おうと意識するほど、動きがぎこちなくなる。腕の力を抜けば棒を支えられなくなりそうで、かといって腕に力を込めれば、老師の教えから遠ざかってしまう。
頭の中では、正しい動きの順序がわかっている。
それなのに、身体は思いどおりに動かなかった。
二十回を過ぎた頃から、手のひらがジンジンと痺れるように痛み出してきた。
長い棒を握り続けることで、手のひらに負担が蓄積していく。指に力を込めるたびに、じわじわとした痺れが広がっていった。
三十回。
突いた瞬間、白木の棒を取り落としそうになった。慌てて握り直したが、両手が痺れていた。指に力が入らず、握っている感覚も薄れていた。
これ以上続ければ、まともに棒を扱うことすら難しくなる。
リュウジィは白木の棒を地面に置いた。手を開いたり閉じたりしてみたが、感覚がなかなか戻らなかった。
指を動かしているつもりでも、普段のような感覚がない。自分の手なのに、どこか遠くにあるもののように感じられた。
わずか三十回。
百回には、まだ七十回も残っている。
数だけを考えれば、先は長かった。しかし、今の状態では、残りの回数をこなすことさえ簡単ではない。
老師が静かにそれを見つめていた。
「腕の力だけで持とうとしておる」
「……わかってはいるんですが」
「わかっておらんから腕が痺れるんじゃ」
老師は静かに言った。
言葉の意味は理解できる。腕だけで支えようとせず、身体全体を使う。それは、先ほどの突きを見た時からわかっていた。
それでも、いざ自分で棒を持つと、重さを支えることに意識を奪われてしまう。頭で理解していることを、実際の動きに反映できていないのだ。
「全身を使え。体幹で支えて、脚で踏ん張って、腰で導く。腕はただ添えるだけでいい」
リュウジィは老師を見た。
腕はただ添えるだけでいい。
言葉にすれば簡単だが、四メートルもの棒を扱いながら、その状態を保つのは難しい。腕に頼らず、身体全体で棒を支え、動かす。そのためには、今まで以上に自分の身体の使い方を理解する必要がある。
「……突き切った時に力を抜くというのは」
「突き切った瞬間に執着を手放す。力を入れたまま止めるから腕に返ってくる。波が岸に当たって砕けるように、自然に散らせるんじゃ」
頭では理解できた。
だが、理解することと、実際に身体を動かす方法は違う。今の自分には、棒を持ち上げるだけでも精一杯だった。
突き出す瞬間に全身の力を伝え、その力を先端まで届ける。そして、突き切った瞬間には余計な力を残さない。
力を込めることばかりに意識を向けていては、老師のような動きにはならないのだろう。
必要なのは、単に強い力を出すことではない。力を生み出し、伝え、必要な瞬間に手放す。その一連の動きを、身体全体で成立させることだった。
わかっているつもりだった。
しかし、今の自分には、その教えを実践できるだけの技術が足りていない。
手の痺れが引くのを待ちながら、リュウジィは足元の白木の棒を見た。四メートルの棒が、途方もなく長く見えた。
さっきまでは、ただ長くて重い棒だと思っていた。
今は違う。
この棒を自在に扱えるようになるまでに、どれほどの修練が必要なのか。それを考えるだけでも、気が遠くなりそうだった。
老師はその白木の棒をひょいと拾い上げた。片手だった。
先ほどと変わらない涼しい顔で棒を構え、また一突きした。鋭く伸びた先端がスッと止まり、遅れて音が届いた。
リュウジィは、その動きを見つめた。
あれほど長く、重い棒を、まるで重さなど存在しないかのように扱っている。しかも、突きの鋭さは変わらない。全身の力を先端まで伝えながら、必要以上の力は残さない。
自分が三十回で手を痺れさせている棒を、老師は片手で拾い上げ、何事もなかったかのように突いてみせる。
やはりこの人は化け物だ、とリュウジィは思った。
少し離れた場所では、ロンが砂浜に寝そべって、呑気にこちらを見ていた。
こちらが必死になって修行しているのに、ロンは変わらずのんびりしている。その姿が目に入ったが、今のリュウジィには、それを気にしている余裕もなかった。
リュウジィは大きく息を整えた。しばらく待つと、ようやく手の感覚が戻ってきた。
指を動かした時の感覚も、少しずつ普段のものに戻っていく。まだ完全に疲労が抜けたわけではない。それでも、再び棒を握るための感覚は戻っていた。
もう一度、白木の棒を持ち上げた。
先ほどと同じ重さが両手に伝わってくる。だが、今度はその重さをただ腕だけで受け止めるのではなく、老師の教えを意識しながら構えようと思った。
この長い棒での鍛錬を乗り越えた時、自分の勁力は確実に本物になるはずだった。
まだできないことは多い。老師の動きには遠く及ばず、三十回の突きでさえ満足にこなせなかった。
それでも、武術愛好家とは言え、二十七年続けてきた、プライドがある。
一度でできないからといって、諦めるつもりはなかった。
「絶対出来るようになってみせる。撃てるようになってみせる。老師のような、芸術的で強大な勁力の崩拳を」
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