第111話 孤島の日々
早くサウザンアイランドへ行って、皆に無事を知らせたい気持ちはある。
タツヨのことが特に心配だった。あいつは必ず自分を探しに来る。
それがわかるから余計に気が重い。
だが、ジタバタしたところでどうにもならない。船はない。海流の関係で、向こうへ渡れる時期でもない。
ならば、やれることをやるだけだ。
老師の小舟はあったが、それを借りるわけにもいかない。
まず潮の流れが、変わった時にサウザンアイランドに行くための筏を作る。
そして老師に稽古をつけてもらう。
気がつけば、この孤島での一日は自然と決まっていった。
朝、目が覚めると老師特製の朝食が待っている。塩漬けにした魚と野菜を煮込んだスープ。素朴だが、身体に染み渡る味だった。
片付けを終えて海へ向かおうとすると、背後に気配がした。
振り返ると、老師の飼ってる銀狼の獣がいる。
この銀狼の獣はルナ・ウルフと言うモンスターで老師がサウザンアイランドの市場で偶然子供の頃に買って、この島に連れて来て育てたと言っていた。
名前はロン。
巨大な銀色の体。肩までの高さは俺の腰を超えている。琥珀色の目がまっすぐこちらを見ていた。
「……お前も来るか?」
返事の代わりに、ロンは鼻をひとつ鳴らした。
それからというもの、朝の見回りはいつも三人だった。俺と、ロンと、海風。
老師が仕掛けた罠に魚が掛かっていないか確認するためだ。掛かっていれば小屋へ持ち帰り、さばいて塩漬けにする。
海の確認が終わると次は森へ入り、獣用の罠を確かめる。ロンは俺より先に獣の気配を察知して耳をそばだてる。
なかなか優秀な相棒だった。
老師に聞いたところ、この島には老師とロンが生きていくには十分すぎるほどの獣がいるらしかった。実際、罠にはほぼ毎朝何かしら掛かっていた。
午前中に生活に必要なことを済ませてしまう。残った時間は筏の製作に充てた。
勿論人生で筏など作った経験はない、太い木を切り出し、蔓で縛り、試しに浮かべては崩れ、また組み直す。その繰り返しだった。
昼食。老師は「自分の口に合う物しか食べたくない」と、俺には料理を作らせてくれなかった。
そしていよいよ稽古が始まる。
まずは三体式。時計がないから正確にはわからないが、一方向十分前後、左右で二十分ほどだろう。
老師が無言で俺の前に立った。
「見ておれ」
それだけ言って、老師は五行拳を打ち始めた。
最初の一歩で、俺は息を飲んだ。
どこにも、力みがない。肩も、腰も、腕も。全身がまるで水のように、ただそこにある。放鬆とはこういうことか、と思った瞬間、老師の拳が空気を裂いた。
崩拳。
音が遅れてきた。
身体の軸が一切ブレていない。踏み込みから拳の先端まで、全てが一本の線に乗っている。全身の勁が拳一点に集中してる。
趣味とはいえ、二十七年やってきた。それなりに分かってるつもりだった。
だが、目の前にあるのは俺の知っている形意拳じゃなかった。
同じ名前の、別の何かだ。
気がついたら、見惚れていた。
強いとか、速いとか、そういう言葉じゃない。美しい、感動的だった。
「長く立つことより、正しい形で立つことを考えろ。形に意をのせるから、形意拳じゃ」
最初の頃、俺はとにかく長く立ち続けようとしていた。それを老師は一言で切り捨てた。
次に五行拳、十二形拳、連環拳をいくつか。
「とにかく最初にゆっくり、次は全て発勁する。一発一発丁寧にな」
老師の指摘は毎回鋭かった。俺が二十七年かけて積み上げてきたものを、老師はことごとく一度ほぐして、また組み直させる。痛いが、確実に何かが変わっていくのがわかった。
夕方、老師がロンと俺の様子を見て、珍しく眉を上げた。
「そいつが人間に懐くのは初めてじゃ」
「そうなんですか」
「儂にも、最初は子供でありながら警戒しとったわ」
老師は少し面白くなさそうな顔をした。俺は何も言わなかった。
夕暮れになると稽古は終わり、夕食を食べて眠る。
贅沢も娯楽もない。だが不思議と悪くなかった。
夜、波の音を聞きながら横になると、決まって色々なことが頭に浮かんだ。
ミライのことが一番多かった。あいつは今頃どうしているだろう。心配性なくせに、心配していることを顔に出さない女だ。それがかえって気になった。
タツヨは絶対に探しに動いている。あの男の性格上、じっとしていられるはずがない。無茶をしていなければいいが、と思ってすぐ、あいつに無茶をするなと言っても無駄だと気づいて苦笑いした。
バッドは店をちゃんと回しているだろうか。カエデは相変わらず帳簿と睨み合っているだろうか。ハクさんは今夜も無口に杯を傾けているだろうか。
会いたい、と素直に思った。
早く戻りたい。だからこそ、今は老師に全部預けるしかない。
——待ってろ。必ず戻る。
波の音を聞きながら、俺は目を閉じた。




