第110話:孤島の老人
最初に感じたのは、温かさだった。
何かが顔に触れていた。
濡れていた。
柔らかかった。
リュウジィはゆっくりと目を開けた。
青い空だった。
白い雲が流れていた。
もう一度、顔に何かが触れた。
温かく、湿った感触だった。
リュウジィは首を動かした。
巨大な顔がそこにあった。
「——っ!」
反射的に飛び起きた。砂浜に手をついた。膝をついたまま、目の前のものを見た。
狼だった。
いや、狼に似た何かだった。
肩までの高さが人の腰ほどあった。毛並みがプラチナシルバーで、光の加減で白にも銀にも見えた。黄金色の目がリュウジィをじっと見ていた。
舐めていたのはこいつか。
リュウジィは息を整えながら周囲を見回した。
砂浜だった。
背後は鬱蒼とした森だった。
波の音が聞こえた。
見渡す限り、海だった。
身体を確認した。
濡れていなかった。
ファフニールの浄化効果が働いていた。衣服も肌も、海に落ちる前と変わらない状態だった。
船は見えなかった。
タツヨも見えなかった。
「起きたか」
声がした。
振り返ると、老人が立っていた。
痩せた体つきだった。背丈は普通だったが、どこか軽さがあった。木の枝を杖代わりに持っていたが、体重を預けている様子はなかった。
リュウジィは立ち上がった。
「あの、ここはどこですか」
「島だ」
老人は海を見ながら答えた。
「名前はない」
リュウジィは海を見た。どこまでも続く水平線だった。
「サウザンアイランドへ戻れますか」
「この海域は海流が複雑でな。2ヶ月から3ヶ月に一度、潮の流れが変わる時がある。その時でなければサウザンアイランドへは向かえん」
「そうですか……」
リュウジィは黙った。
タツヨの顔が浮かんだ。ミライの顔が浮かんだ。バッドの顔が、カエデの顔が、ハクの顔が浮かんだ。
2ヶ月か。
「船から落ちたのか」
老人が言った。
「はい。仲間を助けようとして」
老人はリュウジィをしばらく見た。それから小さく息を吐いた。
「ならここで待つしかないな」
リュウジィは黙って頷いた。
「飯くらいは出してやる」
リュウジィは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。助かります」
老人は小さく頷いた
銀色の獣がリュウジィの手の甲に鼻先を押し当ててきた。しばらくそうしていたかと思うと、静かに老人の足元へ戻っていった。その様子は野生のものではなかった。長い時間をともに過ごした者だけが持つ、静かな馴染み方だった。
翌朝。
特にする事もなく、リュウジィは浜辺に出て、三体式を始めた。足を肩幅より広めに開き、重心を落とし、両手を構えた。呼吸を整えた。内功が静かに巡り始めた。
「よく練れてるが、もう少し上半身の力を抜いたほうがいいのう」
声がした。
老人がそこにいた。いつからいたのかわからなかった。銀色の獣が老人の隣に座っていた。
「少しだけ体重が後ろ足に乗りすぎだ」
リュウジィは構えを崩さずに老人を見た。
「三体式をご存知なんですか」
「知ってるも何も専門家だからな。しかしこの世界で見れるとはな」
老人は鼻を鳴らした。
リュウジィは動きを止めた。
専門家。
その言葉が、頭の中で反響した。
「口で言ってもわからんじゃろう」
老人は杖を砂浜に置いた。
「ほれ!かかってこい」
リュウジィは老人を見た。
痩せた老人だった。
武器もなかった。
本気にはなれなかった。
様子を見るつもりで、軽く踏み込んだ。
その瞬間。
ドンッ!
腹を打たれて、後ろに飛ばされ砂浜に転がった。
何が起きたかわからなかった。
崩拳だった。
リュウジィは立ち上がった。
内功を高めた。
「もう一度、お願いします」
その瞬間あっと言う間懐に入られ。
ドンッ!
また崩拳を食らって、吹き飛ばされ、砂浜に転がった。
砂を口の中に感じながら、リュウジィは老人を見上げた。
老人は涼しい顔をしていた。
その顔を見た瞬間、何かが引っかかった。
見覚えがあった。
どこかで見たことがあるような気がした。
だが思い出せなかった。
老人は黙って立っていた。
銀色の獣が老人の足元に座り、リュウジィを見ていた。
リュウジィはゆっくりと立ち上がりながら、記憶の底を探った。
現世。
古い本。
黄ばんだページ。
白黒写真。
そこに添えられていた一文が、静かに浮かび上がってきた。
——半歩崩拳、あまねく天下を打つ。
リュウジィは老人を見た。
「……まさか」
老人はリュウジィの顔を見て、少し目を細めた。それだけだった。
形意拳史上、最強の名を欲しいままにした伝説の達人。現世で白黒写真の中にしか存在しなかった男。
郭竜深、その人だった。
驚くリュウジィに、老人柔らかな口調で言った。
「どうやら転生と言うのは、時間軸がずれるらしいの。わしはずいぶん前にここに来た。お主は中々の功夫じゃが、まだまだじゃのう。ここに居る間にわしが稽古をつけてやるわい」
そう言いながら、横の獣の頭を撫でながら、豪快に笑った。
リュウジィはすぐに立ち上がり、深く頭を下げた。
「宜しくお願いします。老師」
まさか、形意拳史上最強と謳われた伝説の人物に、この異世界で出会えるなんて。
しかも、その人から直接教えを乞うことができるのだ。
自分が遭難して、今の絶望的な状況など、リュウジィの頭からは完全に消え去っていた。ただただ、胸の奥から湧き上がる圧倒的な歓喜に、全身を震わせるばかりだった。
島には流木が豊富にあった。
サウザンアイランドへ戻るための筏を作らなければならなかった。
木を削りながら、郭竜深に形意拳を習う日々が始まった。




