第109話:波の向こうへ
サウザンアイランドの港は、相変わらず喧騒に包まれていた。
色とりどりの旗を掲げた船が林立し、荷下ろしに奔走する男たちの怒鳴り声と、空を掠めるカモメの鋭い鳴き声が雑然と混じり合っている。
潮の香りに混ざって、積み荷の匂いや船から漂う油の匂いまでが入り交じり、港そのものが巨大な生き物のように絶えずざわめいていた。
エドガー・ハウゼンは埠頭で待ち受けていた王宮の使者と合流し、厳重に管理されていた極秘文書を引き渡した。これにて、今回の依頼は滞りなく完了したのだった。
イラブーが、静かにタツヨへと近づいていく。
足取りはどこか重かった。
「俺たちは王宮に向かいますよ……来ないんですか」
タツヨは首を振った。
「いい。もう着いたんだから依頼は終わったろ」
イラブーはしばらくタツヨを見ていた。
何か言いたそうな顔だった。喉元まで出かかっている言葉を必死に押し殺しているのが、その表情から痛いほど伝わってきた。
だが結局、何も言わなかった。
男は深く頭を下げ、リュウキュウの風の面々を連れて歩き出した。
ブサが振り返った。
ナカが振り返った。
チュラが振り返った。
全員が無言のまま、去っていく。
ハナだけがその場で一度立ち止まり、震えるような小ささで頭を下げてから、イラブーの後を慌てて追いかけた。
その姿も、やがて港の人波の向こうへ消えていく。
入れ替わるように、ジャスパーが前に出た。
その険しい顔立ちは暗く曇りきっていた。
「俺たちも残れればいいんですが——」
「いい」
タツヨは短く遮った。
「お前らは関係ない。行け」
ジャスパーはしばらくタツヨを見ていた。
その双眸には悔恨と無念の色がにじんでいた。
それから、意を決したように深く頭を下げた。
オリオンとアミリもそれに続く。
アミリの目は異様に赤く腫れていた。
顔を上げた時、何かを訴えるように一瞬だけ口を開きかけた。
だが、絞り出すべき言葉はついに出なかった。
唇を強く噛み締め、滲む涙をこらえながらジャスパーの後ろにつく。
クラウスが無言でタツヨの横を通り過ぎた。
足を止めることは一度もなかった。
だが、すれ違う瞬間に一瞬だけ、二人の視線が交差する。
それだけだった。
喧騒の中、一行の背中が遠ざかり、やがて完全に視界から消えた。
タツヨは港の片隅に、たった一人取り残されていた。
さっきまでそこにいた仲間たちの気配だけが、妙に鮮明に残っている。
だが、その気配も港の喧騒に少しずつ呑み込まれていく。
すぐに聞き込みを始めた。
まず埠頭で荷下ろしに追われていた男に歩み寄り、声をかける。
航海中に仲間が海に落ちたこと、流された先を探したいのだと告げ、心当たりはないかと問うた。
男は手をピタリと止め、怪訝そうな顔でタツヨを見据えた。
「海に落ちた?どの辺りで」
「サウザンアイランドから南東の海域だ」
男は腕を組み、少し考えてから首を横に振った。
「わからんな。潮の流れ次第でどこへでも行く。この国が貿易してるゼルドリア大陸のレスタリアって国があるが、距離が長すぎるし、方角も違うから、あそこには流れつく事はないだろ」
それだけ冷たく言い放つと、男は再び背を向け、荷下ろしの作業へと戻っていった。
タツヨは次へ向かった。
次は漁師だった。
使い古された網を手入れしていた中年の男の傍らに立ち、同じ問いを投げかける。
「南東か。あの辺りは俺たちの漁場じゃないからな。詳しくはわからん」
食い下がるように、タツヨはさらに問い質した。
「北の海域はどうだ。島はあるか」
「地図に載ってないような小島ならいくつかあると聞いたことはある。だが行ったことはない」
それだけでも、タツヨにとっては聞き流せない情報だった。
情報を求めて、タツヨは次へと足を向けた。
足を踏み入れたのは、むせ返るような潮の香りと酒の臭いが漂う港の酒場だった。
昼間からアルコールをあおっている老人が三人、薄暗いテーブルを囲んでいる。
その全員に声をかけた。
一人目は、面倒臭そうにただ首を振った。
二人目は、そんな名前の海域は知らんと吐き捨てた。
三人目は、かつて荒波を渡ってきた元船乗りだった。
深く刻まれたしわだらけの顔の中で、濁った瞳の奥だけが異様に鋭く光っている。
「海に落ちた人間を探してるのか」
老人はじっとタツヨの目を覗き込んだ。
品定めをするような、重く冷たい視線だった。
「いつの話だ」
「三日前だ」
老人はぴたりと動きを止めた。
店内のざわめきが遠ざかるような静寂の中、かすれた声で呟く。
「三日経ってたら、生きてるかどうか——」
老人はそこで言葉を続けようとした。
だが、真正面から捉えたタツヨの揺るぎない眼光に気付いた瞬間、老人の喉がピタリと塞がれたように止まった。
わずかな沈黙が、重くテーブルを支配する。
「生きてる」
タツヨは一切の迷いなく、静かに言い切った。
その気迫に気圧されたように、老人は小さく息を吐いた。
「北の海域に地図にない島がいくつかある。流された方向によっては辿り着いてるかもしれん。だが今すぐ探しに行ける船はこの港にはないぞ」
「何故だ」
「船頭がいない。あの辺りの海を知ってる人間が少ない上に、今の時期は海が荒れやすい」
タツヨは一歩も引かず、黙って老人の顔を見据え続けた。
「心当たりの船頭に声をかけてやることはできる。だが時間がかかる」
「頼む」
老人は観念したように頷いた。
タツヨは店を出て、再び港の石畳を踏みしめた。
人々の活気あるざわめきが、どこか現実離れしたノイズのように遠く感じられる。
聞こえているはずの怒鳴り声も、船の音も、カモメの鳴き声も、今のタツヨにはただ流れていく音にしかならなかった。
十人に声をかけた。
十五人に声をかけた。
それでも、決定的な情報には届かない。
容赦なく太陽が傾き、空が茜色から深い群青色へと染まっていく。
港の景色も、昼間とは少しずつ違った色に変わっていった。
それでもタツヨが求める答えだけは、どこにも見つからない。
どれだけ歩いても、聞き回っても、たどり着いた現実は一つしかなかった。
誰も、リュウジィが今どこにいるのかを知らなかった。
疲労に任せるように、港の片隅で安い宿を取った。
狭く殺風景な部屋だった。
昼間の港とは違い、部屋の中は静かだった。
窓の外に目をやると、波間に揺れる船の灯りが、冷たく瞬いているのが見える。
その向こうには、夜の海が広がっている。
タツヨはベッドの端に腰を下ろしたまま、しばらくの間微動だにしなかった。
今日一日、どれだけ人に声をかけたのか。
どれだけ答えを求めたのか。
それだけを繰り返しても、リュウジィに繋がる確かなものは見つからなかった。
薄暗い部屋の一角、小さなテーブルの上に、粗末な羊皮紙とインク壺がぽつんと置かれている。
宿の主人が気を利かせて置いていったものだろう。
重い足取りで立ち上がり、タツヨは椅子に身を沈めた。
震えを抑えるようにしてペンを手に取る。
目の前に広げられた白紙は、残酷なほど何もない。
ペン先を落とそうとして、手が止まる。
何を書けばいい。
リュウジィが海に落ちた。
必死に探したが見つからない。
今、生きているかどうかもわからない。
そんな絶望的な現実を、遠くで待つミライにどう書けばいいのか。
同じ仲間であるバッドに、どう伝えたらいい。
カエデの顔が脳裏をよぎり、胸の奥が締め付けられる。
タツヨは持っていたペンを、乱暴にテーブルへ置いた。
窓の外に広がる海を見つめる。
夜の帳に包まれた海はどこまでも黒く、ただ冷たい波の音だけが耳を打っていた。
脳裏から離れないのは、あの瞬間のことだ。
アミリを投げ放った、あの時のリュウジィの声。
自分が二度と戻れなくなると分かっていながら、一切の迷いを見せなかったあの背中。
あいつは、そういう男だ。
だからこそ、ここで終わるはずがない。
タツヨは再びペンを強く握りしめた。
迷いを断ち切るように、紙の上にペンを走らせる。
あえて短く、しかし強い筆圧で。
リュウジィが海に落ちた。
今探している。
必ず見つける。
それだけを叩きつけるように書き殴った。
ペンを置き、大きく息をつく。
書いた文字を見つめる。
そこにあるのは、たった三つの事実だった。
リュウジィが海に落ちた。
今探している。
必ず見つける。
それでいい。
もう一度、窓の外の漆黒の海へと視線を戻した。
「待ってろよリュウジィ。必ず見つける」
唇の間から漏れたその誓いは、誰に聞かせるわけでもなく、ただ夜の闇に溶けていった。
タツヨは窓から一瞬たりとも目を離さない。
目の前にはただ、果てしない暗い海が広がっているだけだった。
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