第108話 真紅の竜が沈む
灰色の腕が、四方の手すりに同時に掛かった。
「メタルシールド!」
覇道の陣の魔術士カルンの声が飛んだ。
メタリックな光が船体を包んだ。船底を叩いていた音が、ドン、ドン、という規則的なリズムから、ドドドドドという連打に変わった。それでも光の膜は揺れなかった。
「船底は40分しか持ちませんよ!」
カルンが額に汗を浮かべながら叫んだ。
「わかった!」
クラウスが答えながら大剣を振るった。手すりを乗り越えようとした二体が両断されて海へ落ちた。
40分。
リュウジィはその数字を頭に入れながら、幽霊船の方向を見た。
20メートルまで迫っていた。
甲板の上で這い回っていたものたちが次々とこちらへ向かって跳んでくる。タツヨが左右のガントレットで迎撃し、イラブーが蹴りと肘打ちで叩き落とす。オリオンの矢が空中で三体を串刺しにした。
だがリュウジィの目は、幽霊船の甲板に釘付けになっていた。
一人だけ、動いていないものがいた。
船首ではなかった。甲板の中央、折れかけたマストの真下に、それは立っていた。
他と同じ灰色の皮膚だった。だが背丈が違った。頭一つ分、周囲より高かった。そして何より、目があった。
黒い穴ではなかった。
黄色く光る目が、まっすぐこちらを見ていた。
両手が見えた。
指先の爪が、ダガーのように鋭く伸びていた。十本の爪のそれぞれが刃のように細く湾曲し、月光を反射していた。
その爪の一本一本が、ただ鋭いだけではないことをリュウジィは感じ取った。月明かりを受けた刃のような輝きが、暗い甲板の上で不気味に浮かび上がっている。
あいつだ。
リュウジィは直感した。あいつを倒せば終わる。
「リュウジィ!」
タツヨの声が飛んだ。
その声を受けた瞬間、リュウジィの身体はすでに前へ出ていた。
内功を全身に巡らせた。血が沸騰するような熱が、足の裏から頭の天辺まで一気に満ちた。ファフニールがそれに応えた。
身体の内側から力が押し上がり、全身の感覚が一気に研ぎ澄まされていく。
漆黒が、燃えるように赤く染まった。
足が甲板を蹴った。
踏み込んだ瞬間、足元の甲板が大きく鳴った。
20メートルの距離が、一瞬で消えた。
リュウジィは幽霊船の甲板に着地した。腐った木が足の下で軋んだ。腐臭が鼻を突いた。
湿った木材と海水の臭いが混ざり、鼻の奥にまとわりつく。
周囲の魔物たちが一斉にリュウジィへ向いた。
だが、誰も動かなかった。
黄色い目の魔物が、片手を横に払った。それだけで、周囲の魔物たちが左右に割れた。
静かだった。
さっきまで甲板を埋めていた気配が、嘘のように薄れていく。
荒れた波の音だけが響いていた。
黄色い目の魔物がゆっくりと歩いてきた。
一歩。
また一歩。
その歩みには急ぐ様子がなく、リュウジィとの距離だけが少しずつ縮まっていった。
十本の爪が月光を切るたびに、金属音に似た音がした。
その音が、波の音の合間に小さく響く。
リュウジィは構えを崩さなかった。
相手の動きを見逃さないように、視線を黄色い目と両手の爪へ向けた。
「——」
言葉を発した。
だがリュウジィには意味がわからなかった。
聞き取れないというより、そもそも意味を理解できる言葉ではなかった。
この世界の言葉ですらなかった。
魔物が踏み込んだ。
速かった。
その瞬間、空気が変わった。
十本の爪が扇状に広がり、リュウジィの上半身を薙いだ。
リュウジィは半歩後退した。
爪の軌道が鼻先を掠めた。
ほんのわずかな距離だった。
(速い。だが——)
軌道が読めた。
魔物が追撃した。
今度は右手だけ、五本の爪が縦に振り下ろされた。
爪が月明かりを切り裂くように迫ってくる。
リュウジィは神速で踏み込んだ。
外側ではなく、内側へ。
懐に入った。
魔物の右腕がリュウジィの左肩の上を通り過ぎた。
その一瞬を逃さなかった。
「崩拳」
炎をまとった右の拳が、魔物の胸の中心を捉えた。
ドガァァァッ。
拳が触れた瞬間、炎の熱と衝撃が一気に広がった。
魔物の巨体が後方へ吹き飛んだ。
折れかけたマストに激突し、マストが根元から折れた。
鈍い破壊音が甲板に響き、折れたマストが大きく傾いた。
帆と一緒に崩れ落ちてきたマストの下に埋まった魔物は、しばらく動かなかった。
折れたマストと帆が甲板へ崩れ、魔物の姿を覆い隠す。
甲板には、崩れた木材と帆が重なっていた。
それから、瓦礫の下で何かが動いた。
押し重なった木材を押しのけるようにして、魔物がゆっくりと身体を起こした。
胸に拳の形の穴があいていた。
黄色い目が、揺れていた。
魔物はふらつきながらも、その場に立った。
だが膝が震えていた。
それでも倒れずに立っている姿を、リュウジィは中段の構えを崩さぬまま、静かに見据えていた。
魔物もその場から動かなかった。
互いに距離を保ったまま、しばらくの間、どちらも次の動きを見せなかった。
長い時間が流れた。
荒れた海の音だけが、二人の間を通り抜けていく。
風が吹き、崩れた帆が小さく揺れた。
魔物はしばらくして、ゆっくりと視線を外した。
そして海へ落ちた。
音もなく、ただ落ちた。
その姿は暗い海の向こうへ沈み、すぐに波の向こうへ消えた。
その瞬間だった。
こちらの船に群がっていた魔物たちが、一斉に動きを止めた。
手すりに掛かっていた灰色の腕が、ひとつ、またひとつと離れていった。甲板の上のものたちが海へ飛び込んだ。船底を叩いていた音が止まった。
それまで続いていた騒音が途切れ、突然、耳が痛くなるほど静かになった。
カルンのシールド魔法が光を失った。
静寂が訪れた。
波の音だけが戻ってきた。
リュウジィは魔物船の甲板に立ったまま、こちらの船を見た。
20メートルの距離。
荒れた波が船と船の間を揺らしていた。
二隻の船の間には、まだ荒々しい海面が広がっている。
飛べる。
リュウジィが踏み込もうとした瞬間、波の中に何かが見えた。
白いものだった。
波に揉まれながら、水面に浮いては沈む、小さな手だった。
一瞬だけ見えたその手は、次の波に隠れた。
「アミリ!」
ジャスパーの声が聞こえた。
その声を聞いた瞬間、リュウジィは海へ飛び込んでいた。
荒波の中に入った瞬間、冷たさが全身を包んだ。波が頭の上を越えていった。水中でリュウジィは目を開けた。
暗い水の中を見回した。
アミリが見えた。沈んでいた。目が閉じていた。フードが取れて、髪が水中に広がっていた。
リュウジィは腕を伸ばした。
水をかき分けながら、アミリの身体へ向かって一気に距離を詰めた。
その瞬間、ファフニールが共鳴して変わった。
真紅の地に、黒い爪痕が走った。
赤と黒のタイガーストライプ。
水の抵抗が消えた。
これまで身体を押し返していた水の重さが一気に薄れ、リュウジィの動きがそのまま水中へ伝わった。
リュウジィはアミリの腕を掴んだ。
確かに掴んだ感触を確かめる暇もなく、そのまま水面を目指した。
水面へ向かって蹴った。波が割れた。二人が水面に出た。
荒波が四方から押し寄せる中、リュウジィはアミリを抱えたまま船を見た。
遠かった。
波に流されていた。
船との距離は、さっきよりも開いていた。
リュウジィは全力で踏み込んだ。波の頂点を蹴り、一気に空中へと躍り出る。
その跳躍の瞬間、ファフニールの身体強化と内功の爆発的な力を全身から腕へと一気に乗せ、抱えていたアミリの身体を遠くの船へ向かって投げ放った。
うおぉぉぉぉ!
「受け取れ!」
甲板の上で数人が動いた。イラブーとブサが手すりから身を乗り出した。ナカが盾を構えて壁を作った。
それぞれがアミリを受け止めるために動いた。
アミリの身体が弧を描いた。
イラブーの腕がアミリを捉えた。
甲板に引き上げられた。
リュウジィは海に落ちた。波が頭の上を覆った。船が遠ざかっていくのが見えた。
水面に出た。船との位置を確かめた。
離れていた。
波が来るたびに、また距離が開いた。
海面の揺れに押されるように、二隻の船の間隔が少しずつ広がっていく。
冷たい海中で体勢を立て直し、遠ざかる船を見据えた。
再び内功を限界まで絞り込み、タイガーストライプに変化したファフニールを熱くたぎらせて波の頂点を蹴る。
だが風が横から叩いた。軌道が逸れた。
もう一度。
また風が来た。
船はさらに遠ざかっていた。
手を伸ばしても届かない。何度跳んでも、船へ戻るための距離を埋めることができなかった。
「リュウジィィィィ!」
タツヨの声が聞こえた。
甲板でタツヨが手すりを乗り越えようとしていた。
「行かせない!」
イラブーがタツヨの腕を掴んだ。
「離せ!あいつには待ってる奴が沢山いるんだよ」
「海に飛び込んでも死ぬだけです!」
ブサとナカがタツヨの後ろから羽交い締めにした。チュラが前に回って正面から押さえた。
「離せって言ってんだろ!リュウジィが!リュウジィがまだ——」
「見てください」
ハナの静かな声がした。
全員の視線が海へ向いた。
波の合間に、真紅と黒のタイガーストライプが見えた。
大きな波に覆われ、その姿が一度見えなくなった。
しばらくして、再びその姿が見えた。
次の波が押し寄せると、また海面の下へ沈んだ。
そのたびに、姿が見える時間は短くなっていった。
そして——
見えなくなった。
タツヨが動きを止めた。
羽交い締めにしていたブサとナカの力が抜けた。
誰も何も言わなかった。
波の音だけが響いていた。
タツヨは手すりを握りしめたまま、暗くなった海を見続けた。
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