107話 船底を叩く音
「来るぞ!」
クラウスが大剣を抜き放ち、鋭い気合を纏う。
イラブーが低く腰を落とした。
タツヨの両腕のブレスレットが眩いメタリックブルーのガントレットへと変貌を遂げる。冷たい金属の輝きが甲板の闇を切り裂き、その拳を完全に覆い隠した。
リュウジィは自らの内功を巡らせ、極限まで身体を強化する。その気配に呼応するように、ファフニールがじわりと温度を上げていくのを感じた。
魔族の幽霊船との距離が、いよいよ30メートルを切る。
船上の空気が極限まで張り詰めた。
幽霊船の甲板から、いくつもの不気味な影がこちらへ殺到していく。
そして――最初の一体が、音もなく甲板に着地した。
人の倍はあろうという巨体でありながら、着地音は一切しない。
人型をしていながら、その皮膚は死人のような灰色で、関節は人間とは逆向きに奇怪な曲がり方をしていた。顔の造形こそ人に近いものの、口だけが耳の端まで大きく裂けている。
裂けた口の奥に歯はない。ただ、すべてを飲み込むような黒い空洞が広がっているだけだった。
次の瞬間、それは動いた。
四つ足で這うように、信じられないほどの超高速で甲板を駆けてくる。
巨体からは到底信じられない俊敏さだった。
だが、遅い。
タツヨが一歩を踏み出し、踏み込みの勢いそのままに右拳を魔物の顔面へ叩きつけた。
ガキィッッッン。
凄まじい衝撃音が甲板の木材を揺らし、拳が魔物の頑丈な胴体へと深くめり込んだ。その一瞬、巨体を受け止めた拳と魔物の身体の間で、凄まじい力がぶつかり合った。
魔物の巨体が真横に吹き飛ぶ。手すりを紙屑のように粉々に砕きながら、そのまま黒い海面へと消えていった。
直後、鈍い着水音が響く。ほんの一瞬の出来事だった。
タツヨは右手を軽く振り、不敵な笑みを浮かべる。
「見た目より硬いな」
その表情に焦りの色は微塵もない。
「どんどんこいや!」
次が来た。今度は三体同時だ。
甲板の左右、そして正面から、それぞれ別のルートを選んで容赦なく迫ってくる。
タツヨが正面のものへ向かって迷いなく踏み込んだ。
叩き込まれるのは、豪快なスーパーマンパンチ。
拳が魔物の顔面を捉えた瞬間、凄まじい衝撃波が弾けた。首から上が跡形もなく吹き飛び、頭部を失った巨大な身体がそのまま勢いよくマストへ激突する。
凄まじい衝撃に、マストが大きく軋み、揺らいだ。
左から襲い来るものを、リュウジィが静かに迎撃する。
踏み込みは最小限。無駄な動作は一切ない。
丹田からの力を連動させて繰り出された右の掌が、魔物の胸の中心へ吸い込まれるように打ち込まれた。
「劈拳」
パアァァァン。
乾いた破裂音とともに、魔物の胸板にぽっかりと大きな穴が開く。
そのまま凄まじい推進力を伴って後方へ五メートル吹き飛び、甲板へ激しく転がった。二度と動くことはない。
右から迫るものに対して、リュウジィは振り返りさえしなかった。
踵を軸にして半歩、横へスライドする。魔物の鋭い爪が虚しく空を切った。
ずらした方向へそのまま全体重を乗せ、死角から崩拳を脇腹へ叩き込む。
ドゴォッ。
凄まじい重撃を受け、魔物は真横へ弾き飛ばされ、覇道の陣のバルガが構える盾へと激突した。
「おっと……」
バルガが低い声を漏らした。
リュウジィはそれに答えず、すでに次の敵を睨み据えていた。
左舷からも、まるで押し寄せる波のように次々と魔物が乗り込んでくる。
「行くよ!」
イラブーの気高い声が甲板に響き渡った。
その一言を皮切りにリュキュウの風のメンバーが動く。
イラブーが最前線へと飛び出した。
常日頃から鍛え抜かれた肉体こそが最大の武器。余計な武具など持たぬ手足が、初撃として最初の一体の顎を下から凄まじい勢いで跳ね上げた。
膝から上だけを使った、一切の無駄がない鋭利な蹴り技。
魔物が宙へ浮き上がったその瞬間、追撃するようにイラブーの右肘が側頭部へと重く叩き込まれる。
隣ではブサが両手で愛用の斧を大きく振り上げていた。
ガァァンッ。
圧倒的な筋力で、二体の魔物をまとめて甲板へと叩き伏せる。足元の板がバリバリと音を立てて割れた。
ナカが頑丈な盾を前面に押し出し、猛然と押し寄せる三体を正面から受けて立つ。踏み締めた足が甲板の木を削ったが、見事に押し切った。
その盾の横から、チュラが素早く踏み込み、閃光のような二連の剣閃を放つ。
二体の魔物が崩れ落ちるように沈んだ。
右舷では、クラウスが大剣を構えて微動だにしていなかった。
乗り込んできた魔物四体が、一斉にクラウスへ牙をむく。
クラウスは動かない。
最初の一体が間合いの限界を踏み越えた瞬間、静止していた大剣が閃いた。
鮮烈な、横一文字の斬撃。
速い。あまりの神速に、リュウジィの動体視力ですら、その軌道が一瞬遅れて目に映るほどだった。
二体の魔物が、交差した軌跡のまま同時に両断される。
残り二体がクラウスの死角である側面へ回り込もうとしたその刹那、覇道の陣から放たれたロデンの槍が一体を鮮やかに貫き、追うようにドレンの大剣がもう一体を甲板へと叩き伏せた。
覇道の陣の連携は、驚くほど無駄なく噛み合っている。
全員が己の役割を骨の髄まで理解し、信頼し合っているからこそ、余計な動きや迷いが一切ない。
タツヨが舌打ちを鳴らした。
「……中々やるじゃねえか」
吐き捨てるような小声だった。リュウジィの耳だけに届く声量だ。
「言ったろ」
「まあ、俺様ほどじゃないけどな」
その軽口を遮るように、頭上から巨大な影が落ちてきた。
マストの上から、五体の魔物が同時に跳び降りてくる。
甲板の中央。味方が密集しているど真ん中めがけて、まっすぐ落ちてくる。
オリオンが素早く弓を引いた。
弦が鳴り、三本の矢が驚異的な速さで連続して放たれる。
空中で見事に三体を射抜いた矢は、そのまま落下する彼らの命を奪い去った。
残り二体が甲板へと着地する寸前、アミリの杖が眩い光を放った。
暴風がその場で爆発したような轟音が響く。
残る二体はまともに風圧を食らい、真横へ盛大に吹き飛ばされてそのまま海へと消えていった。
「援護します!」
アミリの澄んだ声が、初めて喧噪に包まれた甲板に響きわたった。
少し離れた手すりの近くでは、ジャスパーが震える手で剣を構えていた。
乗り込もうとする二体の魔物と、今まさに正面から対峙している。
足元が恐怖で小さく震えていた。それでも、剣を投げ出すことはしなかった。
一体が跳躍する。
ジャスパーが思わず目を閉じかけたその刹那、横からタツヨの左ジャブが電光石火の速さで飛んできた。
鈍い音とともに、魔物の顔面が大きく陥没する。
「前から目離すな」
走り抜けながら、タツヨが短い叱咤を飛ばした。
「は、はいっ!」
ジャスパーは顔を上げ、残された一体へ向かって必死に剣を振り下ろした。
浅い。しかし、確かに当たった。
魔物がバランスを崩してよろめいたその一瞬の隙を見逃さず、もう一度踏み込む。
今度は深く、肉を断つ手応えがあった。
魔物が崩れ落ちる。
ジャスパーは荒い息を何度も吐き出しながら、それでも顔を上げ、次なる敵を睨み据えた。恐怖が消え去ったわけではない。足の震えだっておさまっていない。
それでも、彼は剣を握り締めたまま、戦場から目を逸らさなかった。
魔物船との距離が、さらに恐ろしい勢いで縮まっていく。
わずか20メートル。
船倉から這いずり出てきたおびただしい数の魔物が、今度は一斉に海へと身を躍らせた。
甲板へと這い上がってくるのではない。海中へ消えたのだ。
「水の中から来るぞ!」
船長が絶叫した。
その直後だった。
船底を、硬いもので激しく叩きつけるような不気味な音が響き渡る。
ドン、ドン、ドン。
それは規則正しいリズムだった。
こちらの出方を窺うような、まるで水底から探るような打撃音。
リュウジィは甲板の中央に立ったまま、足裏に伝わる船底の振動を聞き分ける。
漆黒のファフニールに、金色の微弱な筋が走った。
(……船ごと沈める気か)
黒い水面が激しく波打つ。
船体の周囲、その四方から同時に、無数の灰色の腕が手すりへと這い上がり始めた。
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