106話 幽霊船来たる
午後に入ると、世界の色と手触りが一変した。
さっきまで真横から頬を叩いていた潮風が、いつの間にか前方から押し返すように向きを変え、船の進路を拒む。足元の波が少しずつ高さを増していく。
船体の揺れが大きくなり、甲板の上にしっかりと足を踏み張っていなければ、バランスを崩して転がりそうになるほどの負荷がかかり始めていた。
それに伴って、船員たちの動きが目に見えてピリついたものに変わっていく。
先ほどまで響いていた緩やかな笑い声が嘘のように消え失せ、短い緊張を孕んだ指示が甲板のあちこちで飛び交う。
マストに張られた帆が、風圧を逃がすために素早く、かつ的確に調整されていく。
船長は舵のすぐそばに仁王立ちし、眉間には深い皺を刻んだまま、一切の瞬きもせずにじっと水平線の彼方を見据えていた。
「ちょっと荒れて来たのかな?」
リュウジィが波飛沫を避けるように目を細めながら、どこか呑気な、しかし周囲の空気を鋭敏に察知した声で言った。
空を覆う雲の色が、明らかに違う。
昼間の澱んだ鈍い灰色から、夕闇の訪れとともに底知れぬ暗みを帯びはじめている。
広大な水平線の向こう側が、じわじわと、しかし確実に、絵の具を溶かしたような黒に染まりつつあった。
ジャスパーが近くにいた船員の一人に歩み寄り、何か短い言葉を投げかけた。
戻ってきた彼の顔には、隠しきれない硬さが張り付いている。
「この海域、夕方以降は時々荒れるそうです。嵐にはならないと思うが、と言ってましたけど」
「そうなんだ?思うがか」
「はい」
リュウジィは再び水平線へと視線を戻した。
そこに広がる波の形が、先ほどまでとは決定的に違っている。
まるで、どこか遠い海の底で、巨大な何かがうごめきながらこちらを窺っているような、気味の悪いうねりだった。
アミリのサーチ当番が終わり、ハナへと交代したのはまさにその緊迫した頃合だった。
ハナはマストの根元に静かに座り直し、スッと目を閉じる。
彼女の魔力による探知範囲が、一気に200メートルへと広がった。
その数値の変化をリュウジィが視認することはできないが、ハナの細い肩の力が抜け、表情が水面のように穏やかに、そして深く研ぎ澄まされていくことで、彼女が何をつかんだのかが痛いほど伝わってきた。
波の高さがさらに増す。
甲板をまっすぐ歩くことすら難しくなり始め、船酔いや危険を察した何人かのメンバーが足早に船室へと姿を消した。
それでも、各パーティーを率いるリーダー格の面々は、それぞれの武器を握り締めたまま甲板に踏みとどまっている。
風の唸り声が一段と大きくなった。
頭上でマストが悲鳴を上げるように軋む。
膨らんだ帆が激しくたわみ、船体全体が大きく、そして荒々しく揺さぶられる。
その、息が詰まるような静寂と喧騒の狭間で、ハナの声が響いた。
「何か来るよ!」
ハナの声には、普段とは明らかに違う緊張感があった。
鋭く、迷いのないその声は、迫り来る危機を確実に捉えた者だけが発する警告そのものだった。
その一瞬で、甲板に緊張して張り詰めていた全員の動きがぴたりと止まった。
次の瞬間、危機を察知した船員の一人が、吊るされた鐘へと狂ったように走り出す。
カンカンカンカンカンカン——
甲高い金属音が、荒れ狂う波の音と風の唸りを容赦なく切り裂いていく。
シップス・ベル。
それはこの船に暮らす者全てに向けられた、最悪の緊急警告だった。
甲板に残っていた全員が一斉に身を固くし、反射的に愛用の武器へと手をかける。
船員たちが怒号を飛ばし合いながら激しく走り回り、閉ざされていた船室の扉が次々と音を立てて開き、残りのメンバーたちが険しい顔で次々と甲板へと飛び出してきた。
「どこだ」
イラブーが低く唸るような声で、ハナへと視線を飛ばす。
ハナは目を閉じたまま、震えることはなく、ただ真っ直ぐに船の左舷後方を指差した。
全員の視線が、一斉に彼女の指し示す方向へと釘付けになる。
波が高い。
夕暮れの薄暗さと荒れ狂う波飛沫によって、水平線と空の境界線はすでにぐにゃぐにゃに溶け合って見分けがつかなくなっていた。
リュウジィは目を凝らし、暗澹たる海面を凝視する。
何もない。
見えるのは、牙をむくような黒い波のうねりだけだ。
だが——
ハナの指先は、恐怖に揺らぐことなく、一点を指し示し続けていた。
波の向こう、闇に飲み込まれかけた水平線の端に、確かに「それ」はあった。
最初は、ただの大きな波のうねりだと思った。
だが、違った。
それは意思を持って動いていた。
波の潮流とは明らかに違う軌道と動き方で、船へと、確実な殺意を持って近づいてきていた。
「あれは——」
ジャスパーが、喉の奥から絞り出すように小さく息を呑んだ。
それは、船だった。
帆があり、マストがあり、船体のシルエットはまぎれもなく船のそれだった。
だが、根本的な何かが決定的なまでに狂っている。
船体が悍ましいほどの黒に染まっていた。
人工的な塗料の黒などではない。
それは、おぞましい深海の底で長い年月をかけて腐敗し、朽ち果てた木材が、周囲の光の全てを吸い込むかのように変色した、生気を奪う種類の黒だった。
三本立っているはずのマストは痛々しく折れかけたまま傾き、ボロボロに裂けた帆が、冷たい風の中で死者の衣のように痛々しくたなびいている。
裂けた布の端が、まるでこちらを引きずり込もうとする無数の手招きのように揺れていた。
それは、波の勢いに乗って進んでいるのではなかった。
波の法則を完全に無視して、我が物顔で突き進んでいた。
荒れ狂ううねりの中を、物理法則をあざ笑うかのようなあり得ない角度で船体を傾けながら、それなのに速度を一切落とさずに、船へと真っ直ぐに滑り込んできている。
不気味なことに、荒波がその漆黒の船体に衝突しても、水しぶきが上がるような音は一切しない。
本来なら激しく水が跳ね返るはずの場所で、波そのものがまるで存在を拒絶されるように、すり抜けるように消えていくのだった。
「あれは……魔族の幽霊船だ。間違いない」
船長が、恐怖を押し殺すような低い声で吐き捨てるように言った。
声は震えていなかった。
だが、その顔からは完全に血の気が引いて真っ白になっていた。
幾度となく修羅場をくぐり抜け、長年荒れ狂う海と向き合ってきた海の男だけが持つ、それはまぎれもない本物の恐怖の表情だった。
「この海域に出るのか」
クラウスが、一歩も引かない足取りで船長へと詰め寄りながら問い質す。
「滅多にない。だが出る時は決まって夕方だ。夜になる前に人間の船を見つけて——」
船長はそこまで言いかけて、ぐっと言葉を飲み込んだ。
その先の言葉なんて、わざわざ口に出さなくとも全員の胸に重く沈み込んでいた。
距離が、容赦なく縮まっていく。
200メートル、150メートル、100メートル。
距離が縮まるにつれて、その悍ましい船体の詳細が嫌でも視界に焼き付いてくる。
甲板の上に、何かがうごめいていた。
それは人の形をしていた。
だが、四肢の関節の曲がり方や、這いずるような動き方は、どう見ても人間のものではなかった。
甲板の床を四つ足で狂ったように這い回るものがいる。
折れ曲がったマストの上に不気味に張り付いているものがいる。
そして、最前方の船首にぽつんと立ち尽くし、こちらをじっと見据えているものがいた。
船首に立つそれは、かろうじて人間の形を保っていた。
ボロボロのローブのような布を纏い、両腕を大きく不自然に広げたまま、顔だけが船へと不気味に向けられている。
その顔に、目らしきものはなかった。
目があるはずの場所には、底の見えない真っ黒な穴がただぽっかりと開いていただけだった。
吹き荒れていた風の音が、ぴたりと一瞬だけ止んだ。
狂おしく逆巻いていた波の音さえもがかき消される。
その得体の知れない怪物がこちらを直視した瞬間、甲板に立ちすくんでいた全員の背筋を、ひとすじの凍てつく感覚が同時に駆け抜けた。
周囲の温度が、一気に数度も下がった。
それは肌寒さなどではない。
肉体の芯から冷え固まるような、得体の知れない寒気だった。
恐怖というよりももっと根源的な、この世の生けるもの全てを拒絶し、引き裂こうとする冷徹な悪意の気配だった。
ハナが、固く閉じていたまぶたをゆっくりと開いた。
ふう、と小さく吐き出した彼女の声が、わずかに掠れている。
「数は——」
「甲板だけで三十以上。船倉の中にもいる。全部で五十は超えてる」
誰も、声を荒らげる者はいなかった。
距離はすでに、50メートルにまで迫っていた。
腐り果てた古い木材と、決して嗅いではならない澱んだ悪臭が、冷たい風に乗って鼻腔を突いてくる。
潮の香りではない。
それはもっと古く、太陽の光が届かない深い地面の下から染み出してきたような、死の匂いだった。
魔物船の異様な船体が、耐えきれないとばかりに軋んだ。
初めて、耳障りな音が響いた。
冷たい金属が激しく擦れ合うような、硬い骨が無理やり折られるような、聞いているだけで正気を失いそうな不快な音が混ざり合って響き渡る。
その音を合図にするかのように、甲板を這いずり回っていたおびただしい数の異形たちが、一斉に動きをぴたりと止め、ガリガリと首を鳴らしながらこちらを凝視した。
マストのてっぺんに張り付いていたそれが、突如として空中に跳んだ。
背中には翼などなかった。
ただ自らの脚力だけで跳躍し、30メートルという圧倒的な距離を、放物線の軌道すら描かずに、重力の法則を完全に無視した直線的な軌道で、船の甲板めがけて真っ直ぐに飛んできた。
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