104話「出航、そして夜」
そこへ桟橋の入口から、緊張した空気をまとった三人の男が現れた。
全員が濃紺の外套を静かに羽織り、その胸元には気高い金の紋章が煌めいている。一目でそれとわかる、王国の外交官としての装いだった。
先頭に立つ男は五十がらみで、銀混じりの髪を綺麗に撫でつけている。丸眼鏡の奥にある瞳は、一瞬にしてこの桟橋の惨状をすべて見抜いていた。転がっている男の苦悶、張り詰めた面々の表情、そして空間を満たす剣呑な空気。それらを目の当たりにしながらも、男は小さく息をついただけで、動揺の色すら見せない。
「皆さん、お揃いのようで何よりです」
驚くほど穏やかな声音だった。まるでこれから授業を始める教師のような、そんな落ち着いた響きを含んでいる。
「キングスフォーン王国外交使節団、代表のエドガー・ハウゼンと申します。サウザンアイランドまで、どうかよろしくお願いします」
男は深々と、美しい礼を捧げた。
その背中を見つめながら、タツヨがぼそりと呟く。
「学校の先生みたいな人だな」
リュウジィは小さく頷き、その言葉を受け止めた。
ついに乗船の合図が響き渡る。
各パーティーがぞろぞろとタラップを渡り始めた。足の下で木が重そうにきしむ。鼻腔をくすぐる潮の匂いが、一層濃さを増していった。
甲板へと足を踏み上げると、この船の大きさが改めて実感できた。
三本マストの中型商船は、船体全体が黒く塗られた頑丈な木造船だった。
全長は三十メートルほどだろうか。
中央には荷物を固定するための太い柱がそびえ立ち、その周囲には無数の荷箱が積み上げられている。
船員たちは慌ただしく動き回りながらも、手際よく出航の準備を進めていた。
「これは馬車とは勝手が違うな」
タツヨが甲板全体を見渡しながら、感心したように息を吐く。
やがて船員に案内され、各パーティーごとに割り当てられた船室へと通された。
リュウジィとタツヨの部屋は船の中程、甲板から階段を降りた薄暗い場所にあった。重い扉を開けると、そこには二段ベッドが二つ並んだだけの狭い空間が広がっている。小さな丸窓から、頼りない光が差し込んでいた。
「狭いな」
タツヨが天井を見上げながら、どこか面白そうに言った。
「3日間我慢しろよ」
「まあな」
タツヨはひょいと上のベッドに飛び乗り、天井に向かって勢いよく拳を突き上げた。
「しかしあのクラウスって野郎むかついたな。今度上から目線で何か言ったら、ボコボコにするからさ」
「お前ヤンキー漫画の観すぎだろ?」
「よく言ってるよ、いきなり劈拳かまして、相手ぶっ飛んでたじゃん」
「いいんだよ、悪い奴に使うために武術があるんだよ」
リュウジィは上のベッドを見あげながら、真っ直ぐに言った。
「悪い奴の定義ってなんだよ?」
「この世界で俺がムカつく奴は全て悪い奴なんだよ」
「リュウジィ、お前無茶苦茶だよ」
タツヨが笑い、リュウジィもつられて笑った。
しばらくして、頭上の甲板から重々しい号令の声が響く。
船体がゆっくりと、しかし確実に揺れ始めた。
リュウジィは小さな丸窓へと歩み寄り、そっと外を覗き見る。少しずつ、桟橋が離れていく。荷運びの男たちの姿が米粒のように小さくなり、やがて港の全景がひとつの絵画のように視界の端へと収まっていった。
「出たな」
タツヨが上のベッドから体を乗り出して言う。
リュウジィは言葉を飲み込み、ただ静かに水平線を見つめた。灰色がかった空の下、どこまでも果てしない海が広がっている。規則正しいリズムで、波が船体を打ちつけていた。
故郷のキングスフォーンが、音もなく遠ざかっていく。その脳裏にミライの顔が一瞬だけ浮かび上がり、すぐに霧のように消えていった。
「3日か」
「ああ」
タツヨが上のベッドからだらりと腕を垂らす。
「飯はうまいといいな」
「期待するな」
「だよな。ペヤングとかどん兵衛ねえしな」
二人は笑った。
しばらくして、波の音だけが狭い部屋を満たしていった。
やがて夜が訪れ、船は深い闇の中を進んでいた。
甲板に出ると、昼間よりも冷たく強い風が頬を打つ。波の音は一層大きくなり、見上げた夜空には満天の星が冷たく輝いていた。
リュウジィは木の手すりに腕を預け、ただ暗い海面を見つめていた。
「夜の海も悪くないですね」
不意に背後から声がかけられた。振り返ると、そこにはイラブーラフテイが立っていた。昼間にまとっていたあの剣呑な空気は嘘のように消え失せ、どこにでもいそうな等身大の青年の顔に戻っている。
「眠れないのか」
「船が揺れると目が覚めるんですよ。リュウジィさんは?」
「船なんて乗るのは久しぶりだからな」
(現世じゃフェリーと屋形船しか乗った事ないしな)
イラブーはふっと笑うと、隣の手すりに並んで立った。しばらくの間、二人は言葉もなく静かな海を眺め続けた。
「聞いていいですか」
静寂を破るように、イラブーが呟く。
「何を」
「リュウジィさんの武術は何て名前なんですか?」
「うーん説明しづらいね」
(形意拳なんて言っても通じないし、他の世界の武術とか言ったら面倒くさそうだし)
「やはり秘密裏の武術なんですね。それじゃ話せないですよね。失礼しました」
「まあそんな感じかなぁ~どうなんだろ」
(現世で月謝8000円で月4回誰でも習えたけどね)
気まずさをごまかすように視線をそらしながら、リュウジィは逆に問いを投げた。
「お前の武術はなんだ」
「リュウキュウ島に伝わる古い武術です。手だけじゃなくて足も使います。元々大昔リュキュウ島はアズマリア本土からは迫害された、奴隷の島だったんです。武器を取り上げられた奴隷が素手で闘うために作られたそうです」
その言葉は、リュウジィの胸にずしりと響いた。
「奴隷が素手で闘うために作られた武術か」
リュウジィは自分の掌を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「そうです。だから武器を持った相手に簡単に負ける訳に行かないんですよ」
「なるほどな」
その言葉の余韻を断ち切るように、冷徹な声が夜風に乗って割り込んできた。
「呑気なもんだな」
振り返ると、クラウス・バルトハイムが腰に大剣を提げたまま、甲板の端に佇んでいた。
腕を組んだ姿勢のまま、彼は冷たい海をじっと見つめている。こちらを一瞥することすらない。
「起きてたのか」
リュウジィが声をかける。
「俺は毎晩見張りをする」
クラウスは淡々とそれだけを告げ、ほんのわずかな沈黙のあとで言葉を続けた。
「お前たちはわかってるのか。普通の護衛依頼にこれだけの人数は使わない」
「何故だ」
その問いに、クラウスは初めてゆっくりとリュウジィの方へ視線を向けた。
「わかってると思うが、外交官が持ってるのは、魔族の派閥を詳細に記した極秘文書だ。人間側をよしとしない魔族がいつ襲ってきてもおかしくない。それを知ってて、呑気に夜風に当たってるのか」
張り詰めた警告に対し、イラブーは臆することなく不敵な笑みを浮かべた。
「その時はちゃんと仕事するよ。クラウスさん」
イラブーの声にはどこか底知れない余裕があった。
クラウスはわずかに眉をひそめ、一瞬だけ言葉を飲み込む。
リュウジィは冷たい海面から目を離さず、鼻で笑った。
「いちいち上から言ってくんなよ」
クラウスは一瞬だけリュウジィを睨んだが、何も言い返さなかった。ただ無言で踵を返す。甲板の板を踏み鳴らす足音が、遠ざかるように消えていく。
その背中を見送りながら、イラブーは小さく息をついてぼそりと言った。
「あの人、悪い人じゃないと思うんですけどね」
「俺、ああいう上から目線の奴、嫌いだな」
(でもタツヨは根に持つタイプだから、いつかぶっ飛ばされると思うけどね。まあ、止めないけど)
暗闇の中、ただ規則正しい波の音だけが、どこまでも続いていた。
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