第102 話序列を塗り替えるEランク
朝の空気はまだ冷たかった。肺の奥まで凍てつくような外気が、残っていた眠気を強制的に引き剥がしていく。
港は思ったより近かった。
王都の外れ、古びた石畳が途切れたあたりから、潮の匂いが鼻腔を突くように漂いはじめた。さらにしばらく足を進めると、突然、視界が開けた。
灰色の厚い雲が垂れ込める空の下、巨木を組んだような桟橋が幾本も冷たい海へ向かって伸びている。
帆をきっちりと畳んだ巨大な帆船が何艘も並び、甲板では荷運びの男たちが荒々しい声を掛け合いながら、麻袋や木箱を次々と積み込んでいた。
鉄の箍を巻いた荷車が石畳の上をがらがらと不快な音を立てて転がり、鋭い鳴き声のウミネコが鉛色の空を旋回する。
どこからか香ばしい魚を焼く煙が立ち上っていた。
生臭い潮の匂いに混じって、焦げた脂の濃厚な香りが胃袋を刺激する。
「うわ……海だ」
タツヨが思わず呟いた。
「海、久しぶりに見たな」
「最後に見たのは現世か?」
「そうだな。ジムが横浜にあったから、たまに走りに行ってた。でもジムの名前も会長も思いだせないんだよ」
タツヨは細めた目で、どこまでも続く水平線を眺めた。
「横浜じゃ、こんなに水平線が続いてるのは見なかったな」
「東京湾とは全然違うな」
リュウジィも同じように、鉛色の水平線を見つめた。
東京湾のそれとも違う。
もっと底知れず暗くて、途方もなく広い。
世界の果てがどこにあるのか、見当すらつかなかった。
待ち合わせの桟橋を探しながら石畳を踏み締めていると、見覚えのある三人組が視界の端に飛び込んできた。
「あっ!」
ジャスパーがこちらに気づき、軽やかに片手を上げた。その人懐っこい笑みは相変わらずだ。
オリオンがその隣で重々しく軽く頷き、アミリは深いフードをさらに深く被ったまま、小さく会釈した。
ジャスパーが靴音を響かせて歩み寄ってくる。
「久しぶりですね、ウロボロスの皆さん。あの時はお世話になりました。アイテムボックス大事に使わせて貰ってます。今回もよろしくお願いします」
「お前らが推薦したのか」
タツヨが言った。
「はい。アメヨコの時に一緒に仕事させてもらった時の印象が強烈だったので……迷惑でしたか?」
「迷惑なもんか」
タツヨが笑った。
「船旅だって言うし面白そうだから来たよ」
「よかった」
ジャスパーは胸を撫で下ろすように、ほんの少し表情を緩めた。
「ふろむ・えーのオルソンさんに強いパーティーを推薦してくれと言われて、真っ先にウロボロスさんが浮んだので」
リュウジィはふと、人数に違和感を覚えて周囲を見回した。
五人いるはずの姿が、三人しかない。
「そういえば、5人いるって言ってなかったっけ」
ジャスパーの整った顔立ちが、ほんのわずかに曇った。
「……結局、二人は辞めちまいまして」
「そうか」
「色々ありましたよ」
ジャスパーは自嘲気味に苦笑して頭を掻いた。
「今は三人です。三人で気紛れな旅団です」
それ以上は、誰も突っ込まなかった。
ジャスパーも、それ以上は深く語らなかった。
荒事の世界では、そういうことはどこにでも転がっている。
リュウジィには、その痛みが何となくわかった。
タツヨがアミリに向かって、
「今回も支援頼むぞ」
と言うと、アミリは分厚いフードの奥で微かに頷いた。
乾いた口元が少しだけ動いたが、声は出なかった。
タツヨはそれで十分だというように、再び前を向いた。
桟橋の先端には、もう二組の一行が重々しく固まっていた。
一組は隙のない最高級の重装備で固めた精鋭然とした面々。
もう一組は、それとは対照的な、静かで不気味な落ち着きを放つ一団だった。
どちらも人数は綺麗に五人ずつ。
研ぎ澄まされた立ち居振る舞いに一片の隙もなく、纏う装備の質だけで格の違いが嫌でも理解できた。
「Aランクパーティーか」
タツヨが低く言った。
「みたいだな」
リュウジィが冷ややかに視線を向けた。
その瞬間、あちら側からも鋭い視線が飛んできた。
こちらを一瞥し、値踏みするかのような嫌らしい目つきに変わる。
しばらくして、重装備の一団から一人が、ずしり、ずしりと足音を鳴らして歩いてきた。
筋骨隆々のガッシリとした体格の男だった。
左頬には、浅黒い皮膚を断つ横一文字の生々しい傷がある。
腕を組んだまま、こちらを見下ろすようにふんぞりかえって立った。
「おい」
「なんだ」
タツヨは空を覆う灰色の雲を見上げたまま答えた。
「お前ら、ランクいくつだ」
「Eだ」
男が鼻で酷くせせら笑った。
「Eと、Cと。護衛依頼ってのはな、実力で組む相手を選ぶんだよ。依頼人の命がかかってんだ。なんで俺たちがこんな低レベルと同じ船に乗らなきゃいけないだよ。邪魔すんなよ雑魚ども」
あっ!この人死んだ……
ジャスパーが、文字通り血の気が引いたような顔をした。
タツヨは、すっと立ち上がった。
その動きには、力んだ様子もなければ、怒りを露わにする様子もない。
ただ、まるで重力など存在しないかのように自然だった。
「なるほどな」
タツヨが、魔弾の如き神速の一歩で踏み込んだ。
右腕が、予備動作など皆無のまま鞭のようにしなる。
石畳を蹴り砕いた瞬間に体が宙へ浮き、重力を置き去りにしたまま、右の拳が男の無防備な顔面を正確に捉えた。
炸裂するスーパーマンパンチ。
ゴキッィィィィン!
周囲の空気を震わせる凄まじい衝撃音が響き渡った。
男の巨体は桟橋の分厚い板をメキメキと砕きながら三メートル近く吹き飛び、うつ伏せのままピクリとも動かなくなった。
波の音だけが響いた。
周囲の誰もが息を呑み、声を上げなかった。
タツヨは、凍りついた重装備の一団の中にいた青いローブをまとった女に向かって言った。
「おい!姉ちゃん魔法使いだろ?ほら、死にかけてるぞ回復させろよ」
一団の奥から、顔面を真っ青に染めた女が小走りで駆け寄った。
震える両手で杖を構える。
詠唱とともに眩い治癒の光が男に降り注いだ。
男がうめき声を上げ、泥人形のようにゆっくりと身を起こしはじめる。
噛み合わない顎の骨が元に戻る、嫌な鈍い音が響いた。
「うっうううっ!」
濁ったうめき声を上げつつ、男が這うように立ち上がる。
その刹那、タツヨは再び消えた。
今度は容赦なく、右の拳をフルプレートメイルの胸元、心臓の真上へ文字通り叩き込んだ。
ガキィッッッッン!
分厚い鋼鉄の鎧などまるで存在しないかのように、衝撃が男の肉体の芯を容赦なく貫く。
男の巨体は今度は五メートルほども宙を舞うように弾き飛ばされ、地面に叩きつけられると、そのまま動かなくなった。
冷たい石の床に転がる男を一瞥し、タツヨは、まるで道端に落ちたゴミを指摘するような、体温の一切感じられない冷たい目を向けた。
そして、青ざめた魔術士の女に向かって言った。
『早く回復させないと、死んじゃうよ?』
女は噴き出す冷汗を拭うこともせず、唇を恐怖でブルブルと震わせながら、もう一度震える杖を向けた。
再び眩い光が降り注ぐ。
男がどうにか息を吹き返し、ひしゃげた膝を持ち上げて、這いつくばるように立とうとする。
タツヨは、逃げも隠れもせず、それをじっと待った。
男がやっとの思いで立ち上がった、その瞬間。
タツヨは一気に間合いを詰め、跳躍の勢いを乗せたジャンピングアッパーを放つ。
握りしめた拳が、男の下顎を下から真上に跳ね上げた。
バゴォォォッン!
男の巨体が垂直に宙へ浮き上がる。
首があり得ない角度へと曲がったまま後方へ吹き飛び、最後は盛大な音を立てて白目を剥きながら仰向けに転がった。
そしてタツヨがまた、何食わぬ顔で女に向かって言う。
「回復はよう!死にかけてるよ」
魔術士の女は目に大粒の涙を浮かべながら、恐怖に引きつった顔で、また死にかけてるその男に必死の回復魔法を浴びせた。
タツヨが再び殺気と共に動こうとしたその瞬間、重装備一団の残党から二人の男が割って入った。
一人は規格外にデカい大盾を地面に突き立て、一人はやや幅広い実戦用の剣を青ざめながら構えている。
二人とも、恐怖で膝が微かに震えていた。
「もう勘弁してくれませんかね?」
タツヨは、そんな二人の背後、少し離れた位置に静かに佇む一人の男にふと目を奪われた。
重装備一団の仲間であろうその男は、日に焼けた浅黒い肌にどこか中性的な美しい顔立ちをしていた。
そして何より、戦いにおける動きやすさを極限まで重視した薄手の軽量な鎧をまとっている。
その両手には――武器らしきものは、何一つ持っていなかった。
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