10話-A 楽に生きるということ
A-5
晴天の空の下、僕は重い足を動かして例のネカフェへと戻る。
午前の10時半、街はすっかりと活気に満ち溢れており、大通りを走るバスが後を絶たない。
昨晩はこの喧騒に胸を躍らせていたのに、今は気に障るだけだ。真新しさが無くなってしまえばただの音だが、それは別に環境側の問題ではなく、自分の感受性に難点があるのだから特段悪いという話ではない。
だが、どちらかと言うと自分は周囲に流されないと自負していた節があったので、少しばかり気抜けしてしまった。
新鮮さで着飾っていたただの騒音の海を通り抜けて、こじんまりとしたネカフェに入ると、受付の店員は青年ではなく、顎鬚を生やした中年の男に変わっていた。
どっぷりと出た腹の贅肉は、スーツのボタンを圧迫しており、細い目はこちらに鋭い目線をメガネ越しに飛ばしている。
悪く表現をすると、接客に向いていない、という印象だ。
「すみません…あの、延長でお願いします」
「…これ記入お願いします」
どこか圧を感じさせるような言い草が引っかかったが、今はそんな事に感情を揺さぶられる程の労力すら残されていなかった。
顔を上げないまま諸々の手続きを済ませ、逃げるようにそそくさと奥へと向かう。まだ後ろを振り向けば、あの店員が自分を見ているような気がした。
道中の仕切られただけの個室からは、いびきが合唱の様に聞こえてくる度に、この場所にいる人間がどういう類の人間かの理解がより濃くなる。
穴蔵のような自分の部屋に辿り着き、扉を開けようとしたとき、ふとある事を思い出した。
「なんで隣にいるの?」
脳裏を過ぎるその言葉。
隣は玲奈の部屋だったことを忘れていた。
もしかしたら先に帰っているかもしれない。
帰っていてくれたら、謝ろう。
自分が盲目で、一方方向の懺悔を口に出してしまったことを取り消そう。
淡い期待を胸に隣の部屋を覗く。
分かりきっていた事実を察知した瞬間、押さえ付けていた自分への嫌悪感がヘドロの様に心の隙間から溢れる。
「は…」
情けない嘆息が口から零れる。
伽藍堂になった部屋には、乱雑に放り出されたタオルケットや飲みかけのお茶のコップなどいた形跡は見られた。
ただ、そこに玲奈の姿は無い。
遅過ぎる後悔は執拗に自分を咎め溜め息と共に持ち合わせていた期待が口から流れ出ていった。
自発的に更生する事を放棄した人間に対しての報いがこれならば、これ以上ない的確な方法だ。
大切だと思っていた人間が、一番共にいてほしい時に消える。
自分が最も生きていくことに折れない様にする為の大切な軸が消えた時、重い重い絶望を得るということを知った。
拒絶されることへの苦しみが、いつか教訓として活かせる日が来ることを祈ろう。
玲奈がいた部屋を後にしようとしたその時だった。
ppp…
背後から音が聞こえた。
それは聞き覚えのある通知音だった。
つい先程、無理やり捨てた未練を拾い上げて、部屋を一巡する様に探索する。
PPP…
まるで探している僕に呼応する様に、独特な通知音が再び音を立てて鳴く。
這い蹲りながらその音の行方を探している最中、長机の下にスマホが落ちているのを発見した。
すぐさま拾い上げて見る。
そのスマホが黒色で所々が色褪せていたという事もあり、玲奈がファミレスで使っていたものと瓜二つだということを理解した。
画面を見ようかどうか、揺らいだ。勝手に見てもいいものなのか。あれほど苦痛に満ちた玲奈のプライバシーに関わるものに、づかづかと入り込んで良いのか、そもそも僕にそんな権利があるのか。
あれこれ後ろ向きな言い訳を考えて決断を後回しにしようとした。
ppp…
が、そんな事を決断をするよりも早く、3度目の通知音とバイブレーションが手を通して振動を与えた。
ここで変に躊躇うのも、自分自身との折り合いをつけれないので意を決して画面を見る。
ロックを開く前のホーム画面には、もう既にいくつかのメールが表示されていた。
『西口セントリングビル 正午 了解です。』
『× 4 キャンセル不可なんで気を付けて下さい』
『午前にも伝えた値段ですが、料金の方手数料5000円上乗せなので確認の方忘れないでください』
そのメールの内容は何かの取引のようだった。
聞いた事の無い単語塗れの文を僕が理解できたのは、このメールの送り主の名がその取引の内容を示唆してからだ。
吸い込まれるように、惹かれるように僕は、徐々に横にスクロールしていく名前を一語漏らさずに見る。
例えるとするなら、夏休みにやるホラー番組のようなものだろうか。
その"惹かれる"というのは、怖いもの見たさに意思に反して見てしまう様なものだった。
この取引が何なのか。
その全容の全てが分かった訳ではない。
それでも、十分だった。
僕は玲奈のスマホと最低限の荷物だけを持ち、ネカフェを飛び出す。
そしてビルに挟まれた道を通り抜け、取引先の場所へと急いだ。
楽に生きることなど思いの外、単純だという事を僕は知っている。
現実に苛まれているなら、その現実ごと忘れてしまえばいい。
その苦しみを感じる感性を心ごと砕けばいい。
そうすれば自分が直面している苦痛を無理やり引き剥がすことができ、もうそれ以上は苦しむことは無い。
手軽にその現実と自分は寸断できる、実に楽な生き方だ。
だがそんなことは、もがく為の手を剥がれ、進む為の脚を潰された人間がする事だというのを、僕は古井木から教えてもらった。教えられた。
いや、身体に叩き込まれた。
それは屈服するのと同義であり、諦めることと何も違わないという事を僕は知っている。
数分ほど走った末に辿り着いた風景は、見窄らしい看板が立ち並ぶ露店街から様変わりしていた。
辺りは近未来的なデザインやオブジェ、手入れされた草花が立ち並ぶ歩道など、如何にも都会らしさを全面に出している。
目の前に聳え立つ巨大な双塔の生えた名古屋駅に辿り着き、地図からメールの指定された場所へと再び走る。
西口前の広場からその取引の待ち合わせの場所に近づくにつれて、劈くほどうるさく騒いでいた人集りは瞬く間に減っていた。
まるで昼夜の切り替わりの様に周囲の外観も、暗闇が増えて陰鬱な雰囲気が建物にも纏わりついていた。
日影を踏みしめながら、至る所をしらみ潰しに見て玲奈を探す。
時計の時間はあと数分で12時を回る。
約束の時間はすぐそこまで来ていた。
急がなければならないことなど百も承知だが、体の節々がそれを拒むように僕を痛めつけて足取りを辿々しいものへと変える。
こんなことなら部活にでも入るべきだった。
局所的かもしれないがどこかで役に立つ、とは教師から幾度も聞いていたが、まさかこんな場面に出くわすとは誰が想像できるだろうか?
痛みを堪えながら、首を振り街中の細かな場所を見渡すが、やはり玲奈の姿は視界にはない。
あんな事など人前でそうそうやれた事ではない事など、玲奈自身もメールの送り主も分かっているはずだ。
だとすればいる場所が大通りから外れるのは必然だろう。
手がかりを求めて玲奈のスマホを開く。僅かな情報でもいいので今はとにかく欲しかった。
画面を見るとネットカフェで見た時からメールは届いてはいなかったが、短時間で4回もの着信が来ている。
早く来い、と遠回しに催促しているように見えるのは、僕が無意識にネガティブなフィルターをかけているからなのかもしれない。
今回はそれほど焦る事なのだ。
犯罪をみすみす逃して縮こまるほど僕は大人しい訳ではない、と信じている。
突如身体のバランスが急激にブレた。何かと肩がぶつかり、全身が地面へと叩き付けられる。腕がコンクリートの地面にやすりがけの様に擦り、痛みを生んだ。
手に持っていたスマホは過労時で転倒の瞬間に腕を上げたのもあり、なんとか大丈夫だった。
こびり付いた粉を払い落とし、腕の外傷を確認してすぐさま走ろうとした。その時、手首に力強い握力が掛かった。
「…にいちゃんさぁ、どうしてくれんのよ」
振り向けばそこには、金髪にピアスといった"如何にも"な青年が不適な笑みを浮かべながら、こちらを見つめていた。
「すみません…その、ちょっと急いでいるので…」
「ふーん、で?」
振り解こうとするが男は話すどころかさらに力をかけた。
「こーこ、腕の骨ヒビ入っちゃってさぁ。治療費いるよねぇ」
右手で左手の肩あたりを叩きながら強調した。腕も振り回しいるのもあり、確実に嘘だ。
「あの、本当に急いでいるんで…」
「あーそなの。じゃ、はよ金出せや」
男の顔から偽りの優しさすら消え失せ、怒りを押し殺したような口調に変わった。
「歩きスマホしながら走る。危ないよねぇ?それで謝りもしない。ちょっと躾なってないよ?」
「すみません、その…前の方見てませんでした」
「あーいやいや、謝罪はいらないから。これで俺の肩が治るかも。もし出さないってなら……こうな?」
男は指を3本たてた後、中指だけ残して他を握った。
古井木と違い、周囲に人はいない。
時間が無い。それに今更軽い罪を犯してももう既に大罪人なのだ。
「早く金出せって言っ…」
「ごめんなさい」
掴んでいる男の腕目掛けて、拳を斧の様に勢いよく振り下ろす。
鈍い感触と共に男の手が離れた。
「がっ…このっ…クソガキァっ!」
「ほんとごめんなさい!」
怒鳴り声に背中を無理やり押されて、その場から急いで立ち去った。
金髪男がいた通りを出て、さらに細く閑散な道へと入る。
剥がれかけた選挙のポスター、ひび割れた地面、薄汚れたシャッターの閉まった店
それらが通り過ぎていく。
どうしても会わなければならない。
その一心で、ただひたすら探す。
探して、走って、探し続ける。
会って玲奈を止める。
口を開きながら機会という名の餌を待っている去なされた人間にはこれぐらいの事しか出来ない。
その先が地獄だという事を伝えなければならない。
その先にいってしまえばもう玲奈は帰ってこられない。
だから、助けたい。
「助けて」
耳に、微かな声が入る。
その声を僕は忘れない。
通り過ぎた路地裏に戻りもう一度見渡すと、奥に2人の人影が見えた。
1人は壁に寄りかかり、もう1人のパーカーを来た人間がその人間の胸ぐらを掴んでいる。
昨晩の様に追い詰められているのは明白な状況だった。
「玲奈!」
そこに玲奈がいるのかどうかは定かではない。ただの勘だ。
路地裏に向かってそう叫ぶと、2人ともこちらを見た。
その風貌からして、一方は男。
そしてもう一方は見覚えのある外観だった。
昨晩の様な迷いはもうなかった。
リングに踏み入り、全力で2人の元へ駆け寄る。
「○○○○○○」
男は何かを言っていたが、自分自身の鼓動と呼吸で何も聞こえなかった。
全速力で僕はその男に触れることができる位置まで走る。
身体が動くままに。
そして、その手の届くところまで辿り着いた僕は、掌に指先が食い込むほど力強く拳を握る。
父との争いとは違い、怒りが原動力にはなっている訳ではなかった。だが、今この場で加減をする必要は一歳ないという事ははっきりと分かっていた。
手の甲に男の頬がめり込んでゆく。
その拳を押し付け、地面へと叩き伏せる様にまたさらに一歩踏み込む。
男は数歩よろけながら、近くにあるゴミ箱へと倒れ込んだ。
「……あがっ…」
「お巡りさん早く!あ…こっちに!」
場当たりな言葉をぶつけて、間髪入れずに隙を作ろうとした。兎に角、こいつをどうにかしなければならない。
だが、予想に反して男はそのまま背を向けると、顔を抑えながら通りへと逃げていってしまった。思いの他逃げ腰だったようだ。
残されたその少女は小刻みに震えており、目にも潤いが見えて弱々しい様子だった。
「…大丈夫?」
その安否の問いに少女は何も言わなかったが、恐る恐る顔を縦に振った。
「…警察、は…」
「芝居だよ。それよりも…」
「……なんで、ここに?」
少女は1つ問いをした。
「これ、忘れてたでしょ」
スマホを差し出すと、少女はそれを大切そうに握りしめてポケットへしまった。
「こんなの、放っておけばいいのに…」
「放っておけない理由があるから、どうしても」
その場でへたり込んでいる少女に目を向けと、予想通りそれを持っていた。学校で偶に強制的に見させられる講習でしか見たことが無かったので、画像より禍々しく見えた。
「それだけはダメだよ」
近くに幾つか散らばったものを拾い上げようとすると、少女が拒むように僕の手を掴んだ。
先程出会った金髪の男より力は無いが、離せなかった。
「……やめて」
少女は拒絶した。
二度目の拒絶だった。
「戻れなくなるよ」
「……戻りたくない」
「それでも、いつかは戻れる日が来るから」
「私に、戻れる場所なんか無い!」
当たり障りの無い慰めを拒み、少女は憤った。
そして僕の胸ぐらをぐいと掴む。
午前の時の様に。
「…戻れる場所なんか……無いなら、楽に、なりたい…」
少女は首を垂れた。段々と掴まれた所が緩んでいき、手が下にずれていく。
「…ならそういう場所を作るから」
綺麗事、ということは分かっていた。
僕は兎に角安心させたかった。
目の前にいる、か弱くなってしまった玲奈を。
「……う…ぐ……」
玲奈の顔から、堪えていたであろう涙が流れ出る。
手でいくら拭ってもそれは顔から溢れてポタポタと落ちて、地面に散らばった蛍光色の錠剤を湿らしていった。
「…ごめん」
そう言い、僕はただひたすら玲奈の背中をさすりながら宥めた。
都合の良い、懺悔だ。
玲奈の涙は、より一層多く流れてゆく。
澱み、澄んだように光が通る瞳から、止まる気配は無さそうだった。
のちに編集




