10話-B 旅の始まり
一課との諸々の手続きを済まして、陽がすっかり落ち切りランプのような光が煌めく資料室に、休憩から戻り扉を開ける。
壁際の書斎棚の間のスペースには、コーヒーメーカーが置いてあり、ほろ苦い風味を廊下にまで放っていた。
「お疲れ様です志原さん」
「お、もう届いたのかそれ」
「そのコーヒーメーカーなら、さっき三上警部が凄いブツブツ言いながら置いていってくれました」
加瀬森はティーカップに入れられたコーヒーを飲みながら答えた。
早速役に立っているようだ。
「てっきりブッチするかと思ってたんだがな。意外に義理堅いんだなーアイツ」
「そういえば志原先輩、私たちの立ち位置って結局どうなったんですか?」
席に腰掛けると、加瀬森が俺の分のコーヒーを淹れ、机に置いた。
湧き立つ湯気の中には芳醇な香りが良い塩梅で含まれており、鼻を燻った。
「まぁ一課にはなったって感じだな。だが現状は資料員戻りだ」
「なるほど、一課ではあるんですね。それで晴れて戻ってきた私達の業務内容は何なのでしょうか?」
「業務内容は変わらん。この紙切れの山を片付けるのが引き続きこの先も続く」
加瀬森のコーヒーを啜りながら、俺はぶっきらぼうに答えた。
折角条件付きではあるが資料員に戻ったのに、またコイツが余計な事を勘ぐり回して仕事を持ってこられては、窓際生活に支障が出る。
「それではこの紙の山を片付ければ、私たちは一課の任務に携われるという事でしょうか?」
「…あーそういう訳じゃなくてな、必要な人員が足りなくなった時の補助っていうか…アレだ、ベンチ入りみたいな感じだな」
「おいおい、俺が伝えた内容と全然違うな?」
いつの間にか半開きになっていた扉には、背中合わせで三上が腕を組みながら立っていた。
「あ、三上一課長お疲れ様です」
「折角一課になったんだ、これからは課長でいい。で、志原」
「違うんだよ三上、これはなちょっと分かりづらかったお前の説明を添削しただけで…」
「添削じゃなくて俺に責任転換の間違えだろ」
溜め息を吐きながら、三上は新しくなったソファに腰掛けた。
「え?志原さん嘘ついたんですか?」
「いや嘘じゃないんだ加瀬森、業務内容はたしかに変わらないからな」
ここで変な事を言ってしまうとコイツのやる気を削ぐ事になりかない。
「さーてそんな新入社員に新しいお仕事だ」
が、コイツは勿論そんな事お構いなしだ。
「調査ですか!?」
「ああ、調査だとも加瀬森警部補。お前たちにはちょっとこれを調べて欲しい」
そう言って三上は中央の机に紙の束をバサリと置いた。
「今どき紙かよ…で、これを伝えるために最初から俺の後をつけてたのか?」
「そんな含みのある言い方するもんじゃないサボり魔」
「うるせぇよエセ名探偵」
煽り合いの最中、加瀬森が置かれた紙束を覗き込む。
「何なんですかこれ?」
「志原には既に伝えたんだがな、お前たちには見定めをして欲しいんだ。一課が迅速に向かうための下地固めって感じの業務をな」
「なるほど!」
目を煌めかせながら加瀬森は書類をパラパラと捲った。
「でもなぁ…そんな都合良く他殺かどうか分からない事件なんてあるものか?」
「物流とかと同じで、課に事件が回ってくる時には既に研磨されて分かりやすい状態に加工されてるからな。で、それがこの紙に載ってるやつだ…ちょっと借りるよ加瀬森警部補」
「あ、すみません」
全員がその数枚が、ホチキスに止められた紙束へと視線を向ける。大量に印字された紙が早くも、俺のやる気を削ぎ落としていく。
「隙間時間に増田が、コツコツ頑張って纏めてくれた仮調査資料がついさっき完成したんだ。結構怪しいヤツからボヤくらいの事件、千差万別だ。お前たちには、ここから特に疑わしいものを調べ上げて抜粋して欲しい。そして終わったら、めぼしいものを一課に報告してくれ。そうすれば今後調査の時の無駄な人員をかけずに、現場が早く向かえるからな」
「分かりました!」
「へいへい」
良い塩梅に三上はメリット説明をしたが、要するに使いパシリじゃないか。
まぁそうだろうとは思ってはいたが。
「俺が望んでるのは一課がなるべく手間をかけずに、調査資料が纏まった状態で事件をお前達から引き継ぐことだ。その為に態々三課から引き抜いた」
「一課には人がいないんですか?」
加瀬森の問いに三上は気難しい顔をした。
「…いや、最近の改革派の事件以降、世論やマスコミの煽動で活動家がかなり荒れてるのもあってな、カンパニアとまではいかんが…一連の件でかなり警察が振り回されてるんだ」
「なるほど…だから最近皆さん忙しいそうなんですね」
「で?話は終わりかよ」
話に区切りをつけるべく無理矢理横槍を入れる。
「分かってるならいいんだぞ志原。だがな、一応直属の上司になった以上はお前のサボりを"はいそうですか"と見逃すわけにはいかないんだ」
高圧的な俺の言い草を三上は抜け抜けと往なし、反論した。
「だがまぁ…加瀬森警部補がいるから、欠点を互いに補強してるみたいで今のところは安心だな」
無言で加瀬森の方を向くと任せてください、と言わんばかりの顔をしていた。癪だ。
「じゃあ俺はそろそろ戻るからな。あとは任せたぞ"1.5課"」
「は?なんだ1.5課って」
「…命名だ。一回こういうのやってみたかったんだよ」
三上は照れくさそうに言った。
「人の職場になんでそんなウブな要素詰め込んでんだよ…」
「それくらいの娯楽はいいだろうが…とにかく頼むぞ。結構期待してるんだからな」
「はいはい分かった分かった」
追い払うように、三上との会話と資料室の扉を締めて閉めた。
折角安らかな資料員生活は戻ってきたと思った束の間、1.5課の事が新たな苦痛として付き纏う。
第一アイツが俺の上司か何の冗談だよ。タチの悪い冗談も、ほどほどにして欲しいものだ。
冗談抜きに。
たった今仕事が増えた事に悄気ている中、加瀬森は既に先程の紙束を読み耽っていた。
「…何がお前をそこまでやる気にさせるんだよ」
「読みますか、これ?結構面白いこと書いてありますよ」
「ああそりゃ良かった。じゃあシュレッダーにかけといてくれ」
差し出された書類を突き返す。
こういうのは見るだけで疲労が蓄積してしまうからまず視界から外しておくのに限る。
「そんな事しては、折角これを作ってくれた増田さんが怒ってしまいますよ?」
なら余計捨てても大丈夫だろう。と言いたかったが、これでコイツの職務意欲が削がれて俺に仕事が回ったら厄介だったので堪えた。
「そもそもだな…何度も言うが俺らは一課である前に資料員なんだよ、分かるか?」
「いつもの業務なら既に終わっていますよ、志原先輩。共有フォルダに送っておきました」
どうにかして説教に繋げ、退勤ルートに駒を進めようとしたが、加瀬森は俺の言う言葉を予め分かっていたようだ。
言われた通り、ファイルには新着アイコンが付いており、開くと本日分の委託書は済ませてあった。抜かりない。
「そんな訳なので、私は今からこの増田さんの資料から業務の続きをしますので、先輩も是非一緒にやりましょう」
ウキウキで加瀬森は提案をしてきたが、時計はもう少しで19時を回ろうとしている。俺基準では既にロスタイムだ。
「…明日じゃダメか?」
「ダメです。遅いです」
「いや、でもな加瀬森、こういうのはもうちょい時間がある時にやるのがいいんだよ。ほら、例えばこの1番上の…落下死のやつとかな?」
「…単純にそれ先輩が面倒な事を避ける為の建前では?」
「ああ…あ、いや違う。勿論違う」
勿論違わない。
こいつが一人で勝手に動くと何がどうなるか分かったものではない。大方事件のケリをつけて帰ってくるだろうが、土産にどうせ厄介事を持ち帰って来るのが目に見えて分かる。
それが原因で俺のただでさえ貴重な退勤後のに残業という"穢れ"がついてしまう事など、真っ平御免という訳だ。
「とにかくだ、今日はもう上がれ。色々忙しかった訳だし、これに関しては明日以降に処理しよう」
「"とにかく"を枕詞にして話を終わらせないでください先輩。ここでやらなければ私たちは一課からの信頼を得ることが出来ません」
「いや、加瀬森。経験上こういう立て込んでる時期は見返りは期待しない方がいい。特にピリピリしてる今はな」
"とにかく"が使えないなら"経験上"を使うまでだ。 この言葉は、長年培ってきた年上の積もった叡智はさすがに否定できない、という相手の善意に付け込むという姑息なワードだ。
「…経験、ですか」
「そうだ。俺はこの目ではっきりと見てきた。だからもしお前がまた一課に戻りたいなら、俺らはなるべく自分たちが恩を、最大限に活かせる切り札の様に残しておくべきなんだ」
「なるほど…でもそれと今から捜査に行かないのとは何の関連も無いのでは?報告書を後日出せばいいだけですし」
「いや…まぁそうなんだけどな」
「じゃあ行きましょう、是非行きましょう」
完全に択を間違えた。
どうにか軌道を修正しなければならない。
「あー…でもほら、夜間は捜査対象に含まれてる場所自体が閉まってるかもしれないだろ?」
「それはたしかに…ありえますね」
「折角出向いた挙句、徒労に終わるなんて虚しいだけだろ?なら今日は取り敢えずやめておこう」
「ですが…」
「お前も疲労が取れてないだろ。なら今日はもう帰ってゆっくり休め。な?」
そう帰宅へ促すと、加瀬森は無念の表情を浮かべながら肩をすくめた。
「…分かりました。では今日はこれで私は失礼させて頂きます」
「ああ。おつかれ、また明日な」
「明日こそは協力して下さいよ?約束ですからね?」
「業務が終わったらな」
「絶対ですよ?」
「わかったわかった」
何度も念押しをして、加瀬森は漸く資料室を出ていった。案外自分の関心の中にある事には、情熱が溢れるほどに注げるタイプの様だ。
普段からそうだと楽に意思疎通が取れるので分かりやすくて助かるのだが。
漸く静かになった資料室を見渡しながら、タバコを吹かす。ここ最近は忙しく隙間時間にしか吸えなかったのもあって、五臓六腑に染み込んでいく。
やはり煙草は美味い。
椅子に座り、退出用のファイルに書き込みながら、じっくりゆっくりその一本を吟味する。
身体を煙を満たした所で、今日を振り返る。基本的には過去のことを省みる事は、人生において1位2位を争うレベルで無駄を極めているので滅多にしないのだが、今日はふと後ろ向きに自分見つめ直してみよう、と突拍子もなく思った。
午前は谷原の件で、バカみたいな説教を受けている所を三上に掬い上げてもらい、その後は一課で長ったらしい書類やらを書き続けた。
その間に、加瀬森が資料室の仕事を全て引き受けてくれたのは本当に助かった。
ここの所、アイツに書類整理は頼りっぱなしの節があるので、いつかの機会に呑みにでも誘ってみるのもいいかもしれない。
prrr……
机に備え付きの黄ばんだ電話が鳴り響いた。こんな退勤スレスレの時間に誰だろうか。
「…はいもしもし、こちら資料室の志原…」
「あ、志原パイセンどもどもー」
「なんだ、お前かよ…」
馴れしい口調が頭に響く。電話の相手は増田だった。
「そんな残念そうに言わないでくださいよ。こっちも隙間時間に電話かけてるんですから」
「残念"そう"じゃなくて、残念なんだよ。内線かかってきたから身構えたのに損した」
「そんな事言わずに、もう少し穏便にいきましょ?」
「…で、要件はなんだよ」
「あ、そうでした。アレ見てくれました?」
「アレ?なんだよ、アレって」
増田の問いに首を捻る。
「丸一日使って打ち込んで丹精込めて作ったんですよ?」
「はぁ…そりゃお疲れ様」
「書類ですよ!三上さんに渡されませんでしたか?」
「あぁ、アレか」
机の上にほったらかしにされた紙の束を見る。
「で、どうです?見ました?」
「ああ見たぞ。最初の1枚で紙吹雪にしようかと思ったがな」
「大切にしてくださいよほんとに!ほんとのほんとに大変だったんですから!」
そう懇願する増田が作った調査書類をペラペラと捲る。よく見ると、事件の被害者の細かなところまでよく書かれている。これを1日で作るというのは中々根気がいるだろう。
「まぁ…どうせ志原さんのことですから、もう正直シュレッダーかけてるかと思いましたよ」
「やろうと思ったけど世話焼な後輩に止められた」
「世話焼…ああ、例の婦警さん。どうです?上手くやれてます?」
「あー…まぁそれなりに」
「喧嘩しちゃダメっすよ?志原さん昔から喧嘩っ早いので」
おちょくる様な増田の関西訛りの口調が受話器越しに聞こえてきた。隙さえあれば煽り言葉を会話に差し込んでくる。
「そのくらいは弁えてる。馬鹿にすんな」
「ならいいんですけどねぇ。あーそれで、あの調査書類の話の続きなんですけど…」
「またその話かよ。俺は殆ど見てないぞ」
「だからその一行目に結構面白いの持ってきたんです。どうせ志原さん、こういうの最後まで読む忍耐力無いじゃないですか」
「おまっ…無礼にも程があるだろ」
増田は毒舌を回して、失礼極まりない言葉を並べる。相変わらずコイツは他人に対して遠慮する考えが欠如している。
「で、その1枚目の事故というか事件の資料なんですけど…見れます?」
調査資料の1ページ目を見ると、ある事件が載せられていた。
被害者は戸塚波嶺二、4月26日に愛知県西尾市の自宅マンションの駐車場で、同場所の住人に血を流して倒れているのを発見されたのこと。
死因は落下死であった。
「見てるが…これがどうかしたのか?」
「それなんですけどね、鑑識から聞いたんですが、死んだ被害者の背中には傷跡があったそうなんです。それも状態からしてかなり近い時間につけられたらしいんですよ」
「傷跡か…背後からやられたとかで、事故じゃないってことか」
「問題なのはこの事件が起きた月、同様に妙な事故があったんですよ」
「妙な事故?」
「8月の中旬、東京の杉並区で田辺彰人という人間が自宅の浴槽で死亡しているのを発見されまして。風呂場には酒が置いてあったので、恐らくはヒートショックによる事故かと踏んでます」
すらすらと読み上げていく増田。酒を風呂場で飲むと、血圧の上下運動で死にかけるのは俺も体験した事がある。
「この事件の田辺の遺体にも、戸塚波と同様に背には妙な傷跡があったんです。ただこちらは風呂の底には髭剃りが沈んでいたこともあったので、それが原因かもしれないです」
「なるほどな。2つの事故の被害者の背中に同じ様な傷跡があるから、共通性に目が行くのは分かる。…だが、正直言ってこれだけじゃ違和感はあるが、確信はあまり持てないぞ?」
「ええ、志原さんの言う通りです。田辺の死体も、風呂場で横たわりながら息絶えていたので、倒れた拍子に傷がついた、というのも全く不思議な話ではないです」
そう話す増田の声色には妙に自信があった。
「…お前が言うんだから、どうせそれだけじゃないんだろ」
「察しが良くて助かります。実はその調査資料を作った後、被害者2人に見覚えがあり調べてみたんです。それが引っかかるものでしてね」
「引っかかる?」
「ブログライターAK416…聞いたことありません?」
突然、増田がくぐもった声に変わる。
「AK416…なんかそんな名前の銃みたいなのあったな」
「亡くなった2人のうちの1人、田辺彰人の身辺調査なんですけど、彼はミリタリーの趣味があった様で土日はよくサバゲーに出向いていたみたいですね」
「なるほどな。で、ブログライターってことはIDってところか」
椅子にもたれながら大雑把に見ただけの資料にもう一度目を通した。人身事故の名前は、田辺慎一郎、38歳。2年前に妻とは離婚済み。ブログのIDに使っている3桁の数字は恐らく416は下の語呂合わせだろう。
「…増田、ちょっと田辺のブログメールで送ってくれないか?」
「分かりました、ちょいとお待ちを」
「悪いな」
程なくして、受話器越しにメールの発信を聞こえると同時にスマホが振動した。
増田から送られたリンクを開くと田辺のブログの一覧が表示された。どうやらほぼ毎日と言っていい程に、田辺は更新をしていた様だが、最後の記事の日付は8月19日で止まっている。これでほぼ確実に本人と見て間違いは無いだろう。
「4月と8月…そういえばなんだが、丁度連続殺人も同じ月じゃなかったか?」
1件目、2件目の改革派連続殺人事件は丁度、月の上旬。この事故はどちらもその事件が起きた後の事だ。
「そこなんですよ!自分もその時期にちょっと目を光らせてましてね。世間は2件目の改革派殺人で燃え上がっている中の事故。…まるで、関心を寄せようとしてるみたいじゃないですか?」
「マスコミの助長、警察の錯乱…時期としては好条件だな」
「で、田辺さん。そのブログを見て何を思いました?」
「何をって…」
事を呑込みながら田辺のブログをスクロールする。有象無象の文字が目を焼き付ける様に飛び込んできた。
"活性化地域の建設場の真っ黒義援金"
"現政権保守派と繋がる反社会宗教団体との泥沼関係"
"流れ着いた議員の終着駅、天下り先の行方"
"国進党、保守派に王手か。老害議員一層の策"
それらの記事の大半は胡散臭い思想が色濃く反映されたただの陰謀論に見える物ばかりだ。いや、大半というより、殆どの記事が何の根拠もない様な虚説だ。
感情論を混ぜ込んだ記事もここまで行くと笑えてくる。
「なんていうか、強いな…思想が」
「言い損ねましたが、戸塚波と田辺は2人とも過度な政権批判という点で繋がっているんです。田辺はSNSで幾たびか炎上、離婚もそれが原因だとか。もうひとりの被害者である戸塚波は、都内で改革派として抗議活動をしていたんですが、通行人と揉めて僕たちのお世話になっています」
「僕"たち"、ね」
「あ、失礼しました」
「いや…別にいい」
せせら笑いをしながら増田は謝った。こいつの真面目か、或いはふざけてるのか分からない反復する性格が俺は苦手だ。
だが、それでも持ってくる土産話はいつも捜査を上手く進める、潤滑油の役割を果たしている。
「2人に面識っていうか接点があるわけではないんですが、どちらかと言うと両者共に言動や思想がやや極端に傾いてる、というのが調べて整理した結果ですね。それと…」
「お前、意外と考えてるんだな」
「え?」
突拍子もなく口から出た言葉に、増田が動揺したのが受話器越しで伝わってしまった。
「…なんでもない。続けてくれ」
「飴と鞭の使い方下手過ぎません?」
「電話切るぞ」
「あーすみませんって!えと、それとですね、この人身事故の場所なんですが実はさっき…」
増田がそう言いかけた時、部屋の扉がバタンと勢いよく開いた。
慌てて受話器を耳から外し、顔を向ける。
「先輩、捜査に行きましょう!」
加瀬森が後ろから突然現れた。
「…なんでここにいるんだ?」
「勿論事件が起きたので。だめでしたか?」
「ダメも何も…帰ったんじゃなかったのか?」
「事件が起きたので引き返してきました」
「あ、後輩さん来たんですね。よかったよかった。じゃ僕はこれで〜」
唖然としてる最中、電話越しで増田は別れの言葉を告げた。
「あっ…おい!」
慌てて聞き返したが、受話器からは機械音が繰り返し鳴るだけだった。
「てっきり先輩は帰ったと思ったんですが。何をしていたんですか?」
「あ、いや。何も…」
申し開きをしようとしたが、どういう訳だか目線が徐々に手元の机へと降りてゆく。加瀬森も同調する様にそこに調査書類へと視線を向けた。
「志原先輩、もしかして…」
「違う、断じて違……あ」
予防線を張ったが、最早手遅れだった。その書類にはいつの間に自分自身の手で書き込んだであろう、増田から聞いた情報がつらつらと記されていた。完全に無意識に書き記していた。
「やっぱり先輩も一課と一緒に仕事したかったんですね」
「…ああもう分かったから。で、何が起きた」
「これです」
加瀬森はそう言うと、端末を取り出して画面を見せた。
"要園線が現在遅延により、一部区間で振り返り運行…"
「…人身事故か?おい、なんで俺たちがそれを…」
「詳しい事は車の中で説明しますからまずは出る準備を」
急かされるがまま加瀬森に渡されたコートを着る。
「にしても先輩、ホントは行きたかったんじゃないですか。初めから言えばよかったのに」
「人身事故の現場に行きたい奴がこの世にいる訳ないだろ。今日は帰って晩酌しようと思ったのに…」
「それでもこうして残ってくれたのは、紛れもない先輩の刑事としての魂ですね」
「いや…帰ろうとしてたんだけどな…で場所は?」
「人身事故が起きた場所は朽伽駅です。先に駐車場から車出してきますね」
言葉を残して加瀬森はそのまま先に行った。
頭の中でその名前が渦巻く。
どれほどの時間をかけても恐らく払拭する事も無く、褪せる事もない。
「………クソ」
宛先のわからない不愉快さと怨嗟を言葉に乗せて吐き捨て、加瀬森の跡を追う。




