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おクソお世話になりましたわ! ~婚約破棄された悪役令嬢、憧れの迷宮へ参ります~  作者: その他大勢の中で耳だけが大きくなった兎


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第2話 槍使いと、灯り係

 朝、寝台から降りようとして、腿の内側がつった。


 私は片足を床につけたまま、しばらく動けなかった。向かいでは、すでに着替えを終えたニナが、長い棒を斜めに持って布で拭いている。


「……何か、脚の中におりますわ」


「筋肉痛ですね」


「これが」


 そっと立ち上がると、今度は腰が痛んだ。昨日、怪我をした冒険者を引っ張ったあたりだろうか。椅子の背につかまり、どうにか身体を伸ばしたところで、私はニナの手元を見直した。


 棒ではなかった。布の向こうに、細長い穂先が見える。


「まあ。槍が伸びておりますわ」


 ニナが手を止めた。


「別のです」


 部屋の隅には、昨日見た短い槍が立て掛けてあった。いま彼女が持っているものは、それよりずっと長い。まっすぐ立てたら、天井に穂先が届きそうだった。


「いつもは、こっちを使うんです。晩餐会には長すぎるって言われたので、持っていきませんでしたけど」


「昨日も、短いほうでしたわね」


「曲がり角で引っかかるんですよ。狭いところだと、後ろの人にも当たりそうになるし」


 ニナは布を置き、穂先へ革の覆いを被せた。柄を寝台の脇へ収めるまでの動きに、危なっかしいところがひとつもない。私なら、窓か水差しを叩いていたと思う。


「長いほうがお得意なの?」


「うん。慣れてます。近づかれる前に突けるので」


 彼女は短いほうの槍を持ち上げ、柄の傷を指で確かめた。


「でも、迷宮にはこっち。ショートスピアです」


「では、私もそのうち――」


「まず、普通に歩けるか試しましょうか」


 私は椅子から手を離した。


 歩くことは、できた。階段を下りるときには、手すりをたいへんありがたく思った。


     *


 朝食のあと、ギルドの依頼板の前で、ニナは一枚の札を外した。


「苔採り、昨日の場所は混んでそうです。こっちにしませんか」


 差し出された札には、鐘底迷宮第一層、排水路沿いの小型魔物討伐と書かれていた。


 対象は《石噛み鼠》。


 覚えている。顎の大きな、灰色の鼠だ。序盤に戦う魔物で、倒すと前歯が手に入った。錬金の材料にもなったし、数を集めて渡す依頼もあった。


「歯を持ち帰るのですわね」


「そうです。水路の縁を齧って崩しちゃうんで、増えると困るらしくて」


 討伐場所には、採集人たちが使う道も通っている。足元を噛まれた人が出たという追記を読み、私は自分の靴を見た。絹の靴で来なくてよかった。


「私がご一緒して、大丈夫かしら」


 ニナは札から顔を上げた。


「昨日みたいに、灯りをお願いできれば。怖くなったら、ちゃんと言ってください」


「ええ」


「足が痛いのも」


「……ええ」


 依頼を受ける窓口では、行き先と人数を確かめられた。ニナが私の名前も伝えると、職員は二枚の認識票を見て、台帳に書き込んだ。


 横の窓口には、籠を背負った冒険者が三人並んでいた。ひとりずつ別の採集札を持っているのに、出発は一緒らしい。


「採るものが違っても、ご一緒するのね」


 私が言うと、ニナが頷いた。


「途中まででも、一緒に行く人がいると楽ですから。私も、組む人がいない日は入口で声を掛けたりします」


「昨日、私と会わなくても?」


「たぶん。見つからなかったら、街の仕事にしてたかな」


 昨日、彼女は一人で採集に行くつもりだったと言っていた。依頼を一人で受けることと、誰もいない迷宮へ一人で入ることは、違うのだ。


 ニナは腰の小袋を締めながら、顔をしかめた。


「足を挟んだりしたら嫌ですもん。鉄になったって、自分じゃ引っ張り出せないし」


 私は、昨日の石扉を思い出して頷いた。


     *


 迷宮の入口で、私たちは一人の少女に道を譲った。


 細い筒を何本も背負い、腰には巻いた紐と金属の重りを下げている。鎧らしい鎧はなく、膝と肘だけを革で覆っていた。短く切った亜麻色の髪を耳へ掛け、片手に持った紙へ何か書き込みながら、階段を上がってくる。


「おはよう。東へ行くなら、ちょっと待って」


 少女は私たちの荷物を見て声を掛けた。ニナが地図を出すと、その一角を指さす。


「ここの床、沈んでる。水路へ行くなら、一つ手前で曲がったほうがいいよ」


「昨日の騒ぎで?」


「分からない。下から水の音がしたから、崩れたのかも。いまから報告するところ」


 ニナがお礼を言い、地図に印をつけた。私は少女の背中の筒を眺めていた。一本の端から、巻かれた紙が覗いている。


「地図をお作りですの?」


「うん。でも、今日は見回り。ギルドに頼まれて、浅いところをひと巡りしてきたの」


 彼女は手元の紙を軽く振った。通路の線に、小さな書き込みがいくつも添えられている。


「同じ道ばっかりだと飽きるけど、知らないうちに床が抜けてたりするから、油断できなくて」


「毎回、こちらを?」


「何人かで順番にね。普段はもっと奥。そっちで新しい道を見つけたら、地図にして買ってもらうの」


 少女は紙の端が折れないように巻き、筒へ収めた。


「見つからない日もあるから。こういう、歩けばちゃんとお金になる仕事はありがたいわ」


 入口の壁には、ギルドの印を押した地図が掲げられていた。昨日の立ち入り禁止の印に加え、水路の脇にも書き込みがある。こうして歩いて確かめてきた人の報告が、あそこへ足されていくのだろう。


「お一人で調べていらしたの?」


 私が尋ねると、少女は頷いた。


 ニナを見ると、彼女は少し肩をすくめた。


「この人たちは、また別です」


「戦うのは勘弁してほしいけどね」


 少女が指を動かすと、足元の砂が細く舞い上がった。風が彼女の靴の周りをひと巡りし、階段の端へ抜けていく。


「近寄られる前に押し返して、その間に逃げるの。追いかけっこには自信あるわよ」


 軽く笑って、彼女は地上へ歩いていった。足音がほとんどしない。


 私はその背中が見えなくなるまで眺めてから、ニナへ向き直った。


「いまの、風の魔法ですわよね」


「でしょうね。羨ましいなあ。ああやって離れられたら、楽そう」


「ニナは使いませんの?」


「風は全然。私は身体を強くするほうです」


 昨日、蜘蛛の脚を払った腕を思い出した。あの細い腕で、どうやってと思っていたのだ。


「ずっと強くしていらっしゃるの?」


「そんなことしたら、お昼前にへばります。踏み込むときとか、受けるときとか。あとは、逃げるとき」


 ニナは階段を下りながら、空いた手を軽く握った。


「それと別の魔法を一緒に、ってなると駄目なんですよ。気を取られると、こっちが抜けちゃう」


「では、灯りは私が」


「お願いします。昨日、あれは本当に助かったので」


 私は少し高めに灯火を浮かべ、足元まで明るくした。


     *


 排水路へ向かう途中で、セラフィーナが受けていた魔法の授業を思い返した。


 不得手だったのは、火球だった。


 炎を作り、丸くまとめ、狙ったところへ飛ばす。先生は簡単そうにやってみせたけれど、私が真似をすると、火は出ても形が崩れた。飛ばそうとすると消え、消さないようにすると、その場に残る。


 もう一度試す前に、次の授業の時間になった。


 王太子妃になる者には、ほかにも覚えることが多かった。詩歌、歴史、礼法、家々の系譜。実技の時間は減り、いつの間にか、魔法は得意なものだけを磨けばよいことになっていた。


 灯火なら、いくつでも出せた。水を寄せて汚れを落とすことも、温かな空気で布を乾かすこともできた。


 前世の記憶が戻ったいまなら、練習の仕方も少し変えられるだろうか。


 ユリアを育てたときには、何を伸ばすか、毎回迷ったものだった。聖女にして迷宮の瘴気を祓うのもよかったし、ヴァルキリーの槍技は空を飛ぶ敵に便利だった。剣聖まで育てた大剣は気持ちがよかった。別の分岐では、杖を置かせて拳帝まで育てたこともある。


 ただ、あの子は主人公で、私はセラフィーナだ。


 同じことができるかどうかは、やってみなければ分からない。それでも、ゲームの中で一度も育てたことのない自分が、何をできるようになるのかは、とても気になった。


「セラ、足」


 ニナの声で我に返り、私は溝を跨いだ。


 まずは、歩くほうに集中したほうがよさそうだった。


     *


 石噛み鼠は、思っていたより大きかった。


 水路沿いの割れた石の陰から、丸い背中が覗いている。前世で見た鼠の大きさを思い浮かべていたせいで、一瞬、別の生き物かと思った。太った猫ほどもある胴体に、平たい頭。灰色の毛の下で、肩の筋肉が動いていた。


 ニナが立ち止まり、私へ手を向けた。


 私も止まった。


 彼女は水路から少し離れ、両足の位置を直した。右手で柄の後ろを握り、左手を前へ添える。穂先は低く、鼠のいる石へ向いていた。


「灯り、そのままで」


 小さな声に頷く。


 石噛み鼠が顔を出した。黄色がかった前歯が見え、鼻が動く。ニナが石の欠片を靴先で転がすと、そちらへ頭を向けた。


 次の瞬間、鼠が走った。


 私は息を呑んだが、ニナは下がらなかった。踏み出した足が床を捉え、槍がまっすぐ伸びた。


 短い音がした。


 穂先が鼠の身体を止め、ニナはすぐに柄を引いた。鼠が横へ転がる。動きが残っているのを見て、彼女はもう一度、今度は近い位置から突いた。


 それから、しばらく待った。


「……一匹」


 ニナが息を吐いた。


 私はようやく、自分も息を止めていたことに気づいた。


「速いんですのね」


「鼠が?」


「あなたが」


 彼女は少しだけ口元を緩めた。


「今のは、来るところが見えてたから」


 言いながらも、目は石の隙間から離していなかった。私が鼠へ近づこうとすると、片手で止められる。


「待って。まだいるかも」


 水音の向こうで、爪の擦れる音がした。


 私は一歩戻った。


 ニナは鼠をその場に置いたまま、穂先を割れ目へ向け直した。


 二匹目は、なかなか出てこなかった。石の奥で影が動くたび、私は槍が伸びるのを待ったが、ニナは突かなかった。しばらくすると、彼女の肩が少し下がった。


「奥へ入っちゃったかな……」


「追いませんの?」


「ここに槍を入れると、引っかかりそうで。手前へ来てくれればいいんだけど」


 私は割れ目を見た。昨日なら、知っている魔物だからと、すぐに覗き込んだかもしれない。いまは、奥からあの前歯が飛び出してくるところを想像できた。


「風で、押せるかしら」


 ニナがこちらを見た。


「使えます?」


「服を乾かすときには。温かくしなければ、ただの風になると思うのですけれど」


「……ここから?」


 私は掌を開き、割れ目へ向けてみた。


 乾燥の魔法は、いつもなら濡れた布の周りへ空気を巡らせる。今日は温めず、前へ。そう考えて魔力を通すと、足元の砂が少し転がった。


 けれど、風はすぐ散ってしまった。割れ目には届いていない。


 力を込めると、今度は灯火が揺れた。


「あ」


 私は慌てて灯りを戻した。ニナが槍を構え直す。


「灯りは、消さないでほしいです」


「ええ。ごめんなさい」


 ふたつを同時に保とうとすると、頭の中で指が絡まるようだった。灯火を浮かべて動かすことには慣れているのに、違う魔法を加えた途端、途方もなく難しくなる。


 ニナは私を少し後ろへ下がらせ、代わりに長い木片で石の端を叩いた。鼠が顔を出すまで、何度か場所を変えて待った。


 飛び出してきたところを、彼女が止めた。


 私は灯りを保ったまま、最後まで見ていた。


     *


 二匹の鼠から討伐証明の前歯を取る作業は、気持ちのよいものではなかった。


 ニナも好きではないらしく、口元を引き結んでいた。私は教わったとおりに道具を持ち、途中で手が滑って、声を上げた。


「取れませんわ……」


「揺らして。真上に引くより、少しずつ」


 どうにか外れた歯を袋へ入れ、私は大きく息を吐いた。ゲームでは、戦いが終われば道具袋に入っていたのに。


 ニナが布で手を拭い、私の持っている袋を見た。


「嫌になりました?」


「嫌なところは、ございますわね」


「うん」


「でも、できるようにはなりたいです」


 彼女は頷いた。それから自分の手と、私の汚れた指先を見た。


「あの、洗う魔法……お願いしても?」


 私はすぐに水筒を取った。


 少量の水を手の周りへ寄せ、汚れを浮かせる。泥や血の混じった水を足元へ落とすと、ニナは両手を開いたり閉じたりした。


「楽……」


「こちらは得意ですの」


「すごくいいです。水、いつも足りなくなるから」


 私は嬉しくなったが、先ほどの風の失敗も気になっていた。


「灯りと、初めての魔法を一緒にするのは、まだ難しかったですわ」


「私も無理です。身体を強くしながら、ほかのこと考えると、足がもつれるし」


「あなたでも?」


「私でも、っていうほど器用じゃないですよ」


 ニナは笑い、槍の穂先を確かめた。


「だから、灯りがあると助かるんです。そっちは任せていいって、思えるから」


 私は浮かべていた光を見上げた。さっきまで、風を届かせられなかったことばかり気にしていたけれど、この灯りを消してしまったら、ニナは暗い中で鼠を待たなければならなかったのだ。


 もう少し練習してから、また試そう。


 そう思い、私は光を通路の先へ進めた。


     *


 三匹目は、水路の縁を走ってきた。


 ニナの槍が向けられると、急に向きを変え、崩れた石の裏へ消える。続いて、別の穴からもう一匹が出てきた。


「二匹。セラ、下がって」


 私は下がった。ニナも一歩ずつ退き、通路の少し狭くなったところへ移った。水路側へ回り込まれないよう、石柱を右手に置いている。


 先に出てきた鼠が、石の上へ前脚を掛けた。ニナがそちらへ穂先を動かすと、もう一匹が走る。


 槍が戻り、鼻先を掠めた。鼠が甲高く鳴いて引き返す。


 私は背負い袋の紐を握り締めていた。何かしたかったけれど、思いついたことを次々試して、灯りを消すわけにはいかなかった。


「奥の、石の上へ出そうですわ」


「見えてます」


 ニナの返事は短かった。


 彼女の足元で、靴底が石を擦った。左から来た一匹へ穂先を向けたまま、右側の鼠との間にも柄を残している。突けば倒せそうなのに、彼女はすぐには踏み込まなかった。


 右の鼠が飛び降りた瞬間、ニナが動いた。


 槍の柄でそれを横へ払い、左の鼠へ穂先を返す。今度の踏み込みは、さっきより深かった。鼠が止まり、槍を引くと同時に、彼女の足も戻った。


 払われたほうが、私たちの横へ抜けようとした。


 私は思わず靴を引いた。ニナが柄を回し、石突を床へ落とすようにして進路を塞ぐ。鼠が向きを変えたところへ、穂先が追いついた。


 静かになってからも、ニナはすぐには槍を下ろさなかった。穴のほうを見て、周りを見て、それからようやく息を吐く。


「……今の、嫌だった」


 私は大きく頷いた。


「二匹とも、別のところから」


「うん。もう、今日はこれでいいです」


 額に汗が浮いていた。ニナは手の甲で拭い、肩を回した。


「長いほうなら、石の上にいるうちに届いたんだけどなあ」


 彼女はそう呟いてから、背後の柱へ目を向けた。


「でも、こっちだと振り返れないか」


 私は槍と柱の間を見た。長ければ届く。けれど、長ければ動かせない場所もある。


 武器を持ち替えるとは、そういうことなのだ。


「かっこよかったですわ」


 口にすると、ニナがこちらを見た。


「え?」


「いま。二匹目を止めたところです」


「……見てたんですか」


「ずっと」


 彼女は何か言いかけ、口を閉じた。少ししてから、槍の柄を持ち直す。


「じゃあ、歯を取るところも見ててください。手伝って」


 私は頷いて道具を取り出した。ニナは顔を伏せていたが、耳が少し赤いように見えた。身体強化を使うと、熱がこもるのだろうか。


     *


 帰り道では、誰にも追いかけられなかった。


 それだけで、ずいぶん余裕があった。すれ違った採集人へ挨拶をし、怪我をしそうな床の欠けを覚え、階段を上がる前に水を飲む。


 地上へ出ると、昨日と同じ露店から、肉の焼ける匂いがした。


 私とニナは、同時にそちらを見た。


「今日は」


「食べられますわね」


 串を一本ずつ買った。焼けた肉には塩と、少し辛い香草が振られている。立ったまま食べるのは行儀が悪いと、長い間教えられてきたけれど、いまはどうしても冷ましたくなかった。


 ニナが端の肉を齧り、目を細めた。


「おいしい」


「ええ」


 串を持っていないほうの手には、前歯の入った袋があった。思い出すと少し複雑だったが、肉はおいしかった。


 ギルドでは討伐数を確かめてもらい、報酬を受け取った。鼠がいた穴の位置をニナが説明し、私は崩れかけた水路の縁を地図へ書き込んだ。


 窓口を離れてから、私は受け取った硬貨を掌に並べた。


「四匹で、これだけ」


「二人で割ると、そんなに多くはないですけど」


「でも、私が灯りを持って、あなたが戦って、戻ってきて」


 続きをうまく言えず、もう一度硬貨を見た。


 ニナはしばらく私の掌を見て、それから、自分の財布を軽く振った。


「私も、こっちに来てから一番気楽でした」


「気楽?」


「依頼を受ける前に、誰と行こうって探さなくてよかったから」


 そう言ってから、彼女は少し慌てたように付け足した。


「戦ってるときは、気楽じゃなかったですけど」


「ええ。私もですわ」


 私は硬貨をしまい、彼女と一緒に食堂へ向かった。


     *


 夕方、私はギルドの裏庭にいた。


 稽古用の人形と、砂を敷いた空き地がある。そこでニナに場所を空けてもらい、薄い布切れを、低い杭へ結んでいた。


 風を当てる練習だった。


 灯火は使わない。温めもしない。ただ、目の前の布を揺らす。


 最初は自分の前髪が浮いた。次は地面の砂を巻き上げ、ニナが横で咳き込んだ。


「ごめんなさい!」


「大丈夫。……私、もう少し離れますね」


 彼女は長い槍を持って、庭の反対側へ移った。今日はそこで使うつもりらしい。


 私は掌の向きを変え、もう一度試した。


 ふわりと、布の端が持ち上がった。


 それだけだった。けれど私は嬉しくなって、ニナを呼びかけた。


 ちょうど、彼女が踏み込むところだった。


 長い穂先が、稽古人形の胸へ届く。昨日の短い槍よりずっと遠くから、一度突き、引き、足を替える。柄が身体の近くを滑り、次の突きへつながっていった。


 私は口を閉じ、その動きを見た。


 やがてニナが槍を下げ、こちらを向いた。


「できました?」


「少し、揺れましたわ」


「見たかったな。もう一回」


 私は頷き、布へ掌を向けた。気負ったせいか、一度目は何も起こらず、二度目でようやく端が浮いた。


 ニナが、ちゃんと見ていてくれた。


「あ、動いた」


「ええ!」


 喜んだ拍子に風が途切れ、布が杭へ落ちた。私は笑い、もう一度手を伸ばした。


 聖女も、ヴァルキリーも、剣聖も、まだ遠い。そもそも私が、そこへ行けるのかも分からない。


 いまは、この布をもう少し長く揺らしていたかった。


 向こうではニナが、再び槍を構えていた。

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