第1話 おクソお世話になりましたわ!
「セラフィーナ・エルヴェルト! 貴様の、ユリアに対する数々の非道な振る舞いは、もはや看過できるものではない!」
王立迎賓館の大広間に、婚約者の声が響き渡った。楽団は演奏をやめ、給仕たちは銀盆を手に立ち止まっている。居並ぶ紳士淑女の視線を一身に受けながら、私は顎を引き、背筋を伸ばして立っていた。どのような場にあっても取り乱さず、王家の隣にふさわしい振る舞いをすること。十一年に及ぶ王太子妃教育は、婚約者から衆目の前で罵られている最中にも、律儀に仕事をしていた。
その婚約者、アルベルト殿下の腕には、一人の少女がしがみついていた。淡い金色の髪を結い上げ、薄桃色のドレスをまとった男爵令嬢、ユリアである。私と目が合うと、彼女は何か言いたげに唇を動かしたが、殿下はそれを遮るように一歩前へ出た。
「教本を隠し、階段から突き落とそうとし、あまつさえ私の名を使って彼女を脅迫した。証人も揃っている。もはや言い逃れなど――」
殿下の身振りにつられ、ユリアの胸元で青い石が揺れた。
七枚の花弁をかたどった、小さな首飾りだった。中央の石だけがわずかに色濃く、周囲を縁取る銀の葉には、よく見なければ分からないほど細かな模様が彫られている。
あれ、と私は思った。
あの装備、魔力は上がるけれど、状態異常への耐性がないのよね。瘴気の湿原へ入る前に外して、そのまま道具袋に――。
そこまで考えた瞬間、あるはずのない道具袋が、目の前に開いた気がした。
整然と並んだ小さな絵柄。画面の端に表示された所持金。何度も聞いた操作音と、机の隅で冷めていく飲み物。眠る前にもう一度だけと思いながら、窓の外が明るくなるまで遊んでいた、あの部屋。
私は、その部屋で暮らしていた。
満員電車に揺られて会社へ行き、帰りにコンビニへ寄って、休日には剣と魔法の世界へ潜り込んでいた。そういうゲームなら、だいたい手を出した。地図を埋め、武器を集め、強敵に負けては装備を見直し、物語の続きを忘れて脇道を探索した。滝があれば裏へ回ったし、意味ありげな行き止まりには何度でも通った。使い道の分からない鍵を売るなど、考えたこともなかった。
最後に遊んでいたのが、たまたま『七花の冠と深き迷宮』だったのだ。
恋愛も、宮廷での出世も、商売も楽しめるという、ずいぶん欲張りなゲームだった。私はその中で、ひたすらユリアのレベルを上げていた。
そうだ。あの子は主人公だ。正確には、私にとっての主人公だった。
殿下の腕に隠れかけている顔を、改めて見つめる。毒沼を渡らせ、雪山を登らせ、どうしても倒せなかった竜に何度も挑ませた女の子が、そこにいた。勝利すると片手を上げて笑う、あの仕草が好きだった。最初は小さな杖しか持てなかったのに、最後には私の背丈ほどもある大剣を担いでいた。
そんな子が目の前で、華奢な指を王太子の袖に掛けている。
大剣は、と尋ねそうになって、さすがに呑み込んだ。
まだ序盤なのだ。この首飾りも、大広間も、延々と続く殿下の台詞も、覚えている。王太子との親密度を上げると発生する、婚約者との対決イベント。そして、そこで断罪される侯爵令嬢の名前は、セラフィーナ・エルヴェルト。
私だったのか、あなた。
驚きはした。したけれど、それよりもずっと大きなものが、胸の内側からせり上がってきた。
この世界には、鐘底迷宮がある。潮の引いた日にだけ道が現れる沈没都市も、空を泳ぐ竜の背に建てられた神殿もある。長い時間をかけて地図を埋め、何度も立ち止まって画面を眺めた、あの場所が。
そこへ、自分の足で行けるのだ。
「――よって、貴様との婚約を破棄し――」
「おクソお世話になりましたわー!」
殿下の口が、開いたまま止まった。
私の声は、大広間の高い天井まで実によく響いた。あまりの晴れやかさに、前世で親しんだ漫画の台詞まで飛び出してしまった。私は両手でドレスの裾を持ち、十一年の教育の集大成というべき、見事な礼を披露した。
「承りました! 正式な書面は、父にお送りくださいませ!」
「待て。まだ話は終わって――」
「教本は図書室にございますし、階段の件でしたら、その時間は王妃陛下と刺繍をしておりましたわ。それでは、ごきげんよう!」
顔を上げると、ユリアと目が合った。彼女はもう殿下の袖を掴んでいなかった。目を丸くして、ただ私を見ている。
その顔を見たら、少しだけ胸がくすぐったくなった。
あなたには、本当にいろいろな場所へ連れていってもらった。今度は私も、自分で歩いてみようと思う。
私はユリアに笑いかけ、出口へ向かった。背後では殿下が何か言っていたが、頭の中にはすでに王都の地図が広がっていた。北区の井戸へ行くには、中央広場を抜けるのが早かったはずだ。ただ、先に冒険者登録を済ませなければ、入口の番人に止められる。
そこで、扉の脇に立っている女の子が目に入った。
栗色の髪をひとつに束ね、革鎧を着て、短い槍を持っている。首元には、鈍い灰色の金属板が下がっていた。縁に打たれた剣と灯火の印を見て、私は彼女へ駆け寄った。
「あなた、冒険者?」
「はい。今夜は――」
「冒険者ギルドへ行きたいんですの! 案内してくださいませ!」
返事を待ちきれず、槍を持っていないほうの手を掴んだ。そのまま歩き出すと、女の子はぎょっとして踏みとどまった。
「えっ、ちょっと、私、会場の警備が……」
「では、私を警備してくださいませ。担当の者には、婚約破棄されて自棄になった令嬢を警備していたとおっしゃっていただければいいですわ」
片目をつむってみせると、彼女はますます困った顔になった。
「自棄になった人は、そんな顔しませんって!」
「こちらでよろしくて?」
「そっちは庭です!」
引かれた手に足を止め、私は向きを変えた。彼女は近くにいたもう一人の警備へ顔を向け、「この方についていきます、隊長に言っておいて!」と慌ただしく声を掛けた。相手が大広間と私たちを見比べている間にも、私は出口の階段へ向かっていた。
「待ってください、裾! 踏みますよ!」
「持ちますわ!」
「両手で持って! 案内しますから、手は離して!」
私はようやく彼女の手を放し、ドレスの裾をたくし上げた。夜風が頬に触れる。通りには馬車が並び、その向こうには灯りのともった王都が広がっていた。
立ち止まって眺めていたいのに、早く行きたくて仕方がない。
「私、セラフィーナと申します。セラと呼んでくださいな!」
「ニナです。お願いだから、前を見て歩いてください!」
*
冒険者ギルドには、夜になっても人がいた。
正面の扉を開くと、革と油と食べ物の匂いが、一度に押し寄せてきた。泥のついた長靴で食堂へ向かう人もいれば、窓口へ大きな袋を載せる人もいる。壁一面の依頼板には、魔物の討伐や街道の護衛に混じって、薬草の採集、井戸の調査、荷運びといった札も掛かっていた。
私は立ち止まりかけたが、ニナに袖を引かれた。
「登録は、こっち」
夜間窓口の女性は、晩餐会の装いのまま現れた私を見て、それから隣のニナを見た。
「……警備に行ったのよね?」
「行きました」
「冒険者登録をお願いいたしますわ!」
差し出された用紙へ、私は名前と住所を書き込んだ。途中で特技の欄があったので少し考え、古代語と、使える魔法を記す。ニナは隣で息を整えながら、私が書き終えるのを待っていた。
女性は用紙を受け取ると、名前のところで一度目を止めた。けれど何も言わず、机の下から木札を取り出した。
「まずは仮登録です。講習を受けて、簡単な依頼をいくつか。報告まできちんとできれば、銅板をお渡しします」
「こちらからですのね」
木札を受け取りながら、私は窓口の奥を見上げた。壁に、認識票の見本が順番に並んでいる。
銅、鉄、銀、金、ミスリル、アダマンタイト。
ゲームでも見た並びだった。ただ、こちらのアダマンタイトは思っていたより黒く、磨かれた縁だけが深い青に光っていた。
「あれ、本物ですの?」
「触りたいんですか?」
ニナに尋ねられ、私は頷いた。
「とても」
「気持ちは分かりますけど」
「上がったときのお楽しみにしてください」
受付の女性は笑い、木札へ紐を通してくれた。
「倒した魔物の数だけで上がるものではありませんからね。依頼を果たすことと、戻って報告すること。最初はそこからです」
私は木札を首へ掛けた。胸元で揺れるそれを掌に載せると、角を丸く削った木の手触りがした。
冒険者になった。
仮登録だけれど、なったのだ。
登録料を払う段になって、私は財布を持っていないことに気づいた。お金を自分で持ち歩かずに済んでいた暮らしが、ここへ来て足を引っ張るとは。
耳飾りを外しかけると、ニナがその手を押さえた。
「待って。いくらするんですか、それ」
「いただきものですので、分かりませんわ」
「出します。あとで返してくれればいいですから」
彼女は財布の中身を数え、受付へ硬貨を渡した。私はお礼を言ってから、彼女の胸元へ目を向けた。
「ニナは、鉄なのですわね」
「先月、上がったばかりです」
言いながら、彼女は金属板の縁を親指で撫でた。少し照れたような顔を見て、私は自分の木札を握り直した。
次は銅。その次が、あれ。
窓口の女性が、新人向けの薄い冊子を差し出した。
「今夜のうちに、読んでおいてください。迷宮に入るなら、明朝の講習も受けてから」
表紙に描かれた迷宮の入口を見て、私は両手で受け取った。
*
借金は、ギルドを出てすぐに返せた。受付で教えてもらった質屋が、まだ店を開けていたのである。指輪をひとつ買い取ってもらうと、借りた分を除いても当面の支度には十分な金額になった。
「その格好で冒険者かい」
店主の老婆は、私を頭の先から足元まで眺めた。
「まず靴だね。足が痛くなったろう」
言われて初めて、踵がひりひりしていることに気づいた。
店の奥には古着や旅道具もあって、丈夫な服と革靴、外套、背負い袋を揃えることができた。短剣を腰へ当てて鏡を見ていると、ニナも隣から覗き込んだ。
「その位置、歩くと脚に当たりますよ」
帯の留め方を直してもらうと、ぐっと収まりがよくなった。私は嬉しくなって、もう一度鏡を見た。
ドレスは預かってもらうことにした。ところが着替えようとすると、背中のボタンに手が届かない。ついたての向こうからニナを呼ぶと、彼女は細かく並んだボタンを見て、気の毒そうな声を出した。
「うわ。これ、全部?」
「お願いしますわ」
ボタンが一つずつ外れて、背中が軽くなっていく。私は待っている間にも、ついたての端に掛けた外套を眺めていた。あれを着て、袋を背負って、明日は井戸の階段を降りるのだ。
「ニナは、鐘底迷宮へよくいらっしゃるの?」
「このところは。まだ第一層ばっかりですけど」
「青い苔が光っておりますのよね」
「ええ。……ちょっと、動かないで。あと三つ」
振り返りかけた肩を、軽く押して戻された。私はおとなしく前を向き、今度は鏡越しに彼女を見る。
「私、明日の講習が済んだら行ってみますわ」
「……ひとりで?」
「ええ」
背中の手が止まった。
「私も行きます」
「まあ。お仕事はよろしいの?」
「採集を受ければいいですし。どうせ、一人で行くつもりだったので」
「お仲間はいらっしゃらないの?」
「王都に来て、まだひと月なんです。たまに組ませてもらいますけど、いつも一緒って人は、まだ」
最後のボタンが外れた。私は緩んだドレスを胸元で押さえ、彼女へ向き直った。
「では、ぜひ。心強いですわ」
「今日みたいに走って、どこかへ入っていかないでくださいね」
「気をつけます」
「いま、ちょっと間がありました」
私は笑ってごまかし、着替えるために再びついたての奥へ引っ込んだ。
宿への帰り道、ニナが角を曲がる前に、通りの名前を確かめた。まだ王都の道に慣れていないらしい。
「どちらからいらしたの?」
「ベルカっていう、東の街です。知ってます?」
「ああ、あそこですの!」
思わず声が弾んだ。
赤い瓦屋根と、大きな水車のある街だ。ゲームの中盤で何度も通った。武器屋に並ぶ品が急に高くなって、門の外で延々と魔物を倒した覚えがある。
「でも、あのあたりは危険な魔物が多いのではなくて? 鎧熊ですとか、牙の長い狼ですとか」
「街の周りは、そうでもないですよ。畑もあるし、子どもも外へ出るし」
「そうなんですの?」
「鎧熊なんか、森の奥まで行かなきゃ見ません。山も危ないし、ダンジョンはもっと。あっちは、とてもじゃないけど入れなかったなあ」
私は少し首を傾げた。
門を出て、少し歩けば出会ったはずなのだけれど。荷車の轍が残る道で、何度も戦った覚えがある。
「街道には、出ませんのね」
「絶対出ないとは言えませんけど。熊が出たら、うちじゃ店まで話が回ってきましたよ。今日は荷を出すな、とか」
「お店?」
「父が粉屋なんです。水車のところの」
「まあ、あの水車!」
ニナがこちらを見た。
「来たことあるんですか?」
私は慌てて、足元の石畳へ目を落とした。
「……絵で見たことが。大きな水車でしょう?」
「大きいです。音もうるさいし。こっちに来たばっかりのころ、静かで変な感じがしました」
彼女が笑ったので、私も笑った。水車の音で眠れないのではなく、音がしないことを気にする人がいる。画面の中では、近づいたときしか聞こえなかった音だった。
知らないことが、いくつもある。
魔物の棲む場所も、そうなのだろうか。私は門のすぐ外をうろつく鎧熊を思い浮かべ、それから、粉を積んだ荷車が通る道を想像してみた。
ニナの話す故郷のほうが、ずっと広かった。
*
その晩は、ギルドに併設された宿へ泊まった。空いていた二人部屋を、ニナと使うことになった。
寝台は硬く、水は自分で汲まなければならず、廊下の向こうからは盛大ないびきが聞こえていた。それでも私は、借りた迷宮案内を広げたまま、なかなか寝つけなかった。
第一層の地図には、見覚えのある曲がり角や階段が載っていた。一方で、通れたはずの道が塞がれ、知らない部屋が書き足されてもいる。余白の注意書きを読むと、鐘底迷宮では、ときおり通路のつながりが変わるらしかった。
「ニナ、ここをご覧になって」
「……明日。明日見ます」
隣の寝台から、くぐもった声が返ってきた。
申し訳なくなって灯火を小さくしたものの、地図を閉じることは、もうしばらくできなかった。
*
翌朝の講習では、地図の写し方と、迷ったときの対処、それから救難の合図を教わった。
壁を四回叩き、間を置いて、また四回。音の聞こえる範囲に誰かがいれば、返してもらえるかもしれない。ただし、助けが来るとは限らない。
教官はそう言って、自分の木の杖で机を叩いた。
私はその音を聞き、昨夜の地図を思い出した。知らない道があることは嬉しかったが、戻る道までなくなってしまうのは、困る。
講習を終えたあと、ニナと採集の依頼を受けた。青燐苔は灯りの材料になるため、いつも買い取りがあるという。掲示板の前にはほかにも何人かいて、籠を背負った老人が「今日は橋の手前がいいよ」と教えてくれた。
ニナはお礼を言い、地図を開いて場所を確かめていた。
鐘底迷宮の入口は、北区の古い井戸にあった。
小さな石造りの建物も、その脇に根を張る傾いた木も、画面で見た覚えがある。けれど井戸の縁に触れてみると、石は思いのほかざらついていたし、地下から吹き上げてくる風には、湿った土の匂いが混じっていた。
「本当にありますのね……」
「何がです?」
「これ、全部」
うまく説明できずに笑うと、ニナもつられたように口元を緩めた。それから私の背負い袋を引き寄せ、少し緩んでいた紐を締め直してくれた。
「そんなに嬉しいんだ」
「ええ。昨夜も、ほとんど眠れませんでしたわ」
「知ってます。何回も起こされたので」
「……ごめんなさい」
謝ると、ニナは声を出して笑った。
「今日は私のそばにいてくださいね。気になるものがあっても、触る前に言って。扉も」
私は頷いた。彼女は腰の角灯を外しかけ、それから私の顔を見た。
「昨日の灯り、お願いしてもいいですか。これ、持って歩くと腕がだるくて」
灯火を浮かべると、ニナは「楽だあ」と言って、角灯を腰へ戻した。
宮廷では地味だと評されていた魔法である。洗浄や乾燥も、侍女の仕事を取るものではないと、控えさせられていたのだけれど。
「服を乾かすのも、使ってよろしいのかしら」
「え、してほしいです。濡れると寒いし、重いし。靴の中なんか、ずっと気持ち悪いんですよ」
「では、濡れたらおっしゃってね」
私は少し胸を張って、階段の先へ灯火を進めた。
最後の段を降りると、巡礼回廊が広がっていた。石柱が幾列も奥へ続き、その上を渡る天井は、灯りを高く上げても輪郭がぼんやりとしか見えない。壁際には青燐苔が淡く光り、どこかで落ちた水滴の音が、思いがけない遠さから返ってきた。
素材集めのために、何度も走り抜けた場所だった。
こんなに天井が高かったのかと、私は首を反らした。画面では模様のようにしか見えなかった石柱にも、細かい彫り跡や、小さな欠けがある。一本ずつ調べていたら、それだけで一日が終わりそうだった。
「わあ……」
それしか出てこなかった。もっと近くで見ようと踏み出し、浅い溝につま先を引っかける。ニナに肘を支えられ、私は慌てて足元を見た。
「危ないなあ、もう」
「見たいものが、多くて」
「逃げませんから。立ち止まって見ましょう」
苔を採る作業には、案外こつが要った。根まで削らないようにへらを当て、端から浮かせていく。私が一枚をぼろぼろにしている間に、ニナはきれいな苔を三枚採っていた。
「どうしてですの……」
「力、入れすぎかな。もうちょっと寝かせてみて」
言われたとおりへらを傾けると、今度は大きく剥がれた。嬉しくなって見せたら、ニナが頷いてくれたので、次はもっときれいに採ってみたくなった。
ときどき、石の隙間から拳ほどの甲虫が出てきた。ニナが槍の石突で仕留めた一匹を見て、私は思わず膝をついた。
「石殻虫! これ、持って帰ってもよろしくて?」
「いいですけど……虫、平気なんですね」
「殻を使いますの。錬金の材料に」
「あ、そっちはまだ動いてる」
伸ばした手を引っ込め、私は死んだほうを拾った。ニナが隣へしゃがみ、裏側に残った脚の外し方を教えてくれる。画面では一度選べば袋へ入っていた素材にも、手間が掛かる。外した脚をどこへ置こうか迷っているうちに、一本が指へ引っかかった。
「取れませんわ」
「ちょっと貸して」
ニナは笑いながら外してくれた。なんだか、ずっと笑われている気がする。けれど袋の中には青い苔と石殻虫の殻が増えていて、私はそれを見るたびに嬉しくなった。
やがて、回廊の壁に見覚えのある浮彫を見つけた。絡んだ蔓の上に鳥がとまり、その嘴の先に杯が置かれている。
隠し扉だ、と気づいた途端、手が伸びた。指先が石に触れる前に、入口で交わした約束を思い出す。
「ニナ、ここ! たぶん、開きますわ!」
彼女がこちらへ来ようとしたとき、壁の向こうから硬い音がした。
四回叩いて、少し待ち、また四回。
今朝、聞いた音だった。
私とニナは顔を見合わせた。彼女はすぐに壁へ近づき、槍の石突で四回、叩き返した。向こうから、今度は先ほどより大きな音が返ってくる。
「……よかった、聞こえてる」
ニナが壁に手を当てたまま、私を振り返った。
「セラ、開けられます?」
ゲームでは杯、鳥、蔓の順に押していたはずだ。だが、杯へ目を寄せると、その縁に細かな文字が刻まれていることに気づいた。
古代語だった。王太子妃教育で、朝から泣くほど読まされた文字である。
「『根より生まれ、翼を得て、杯へ還る』……あら、逆ですの?」
私はもう一度読み直し、蔓の根元を指さした。
「ここからですわ。蔓、鳥、それから杯」
ニナがひとつずつ押すと、壁の内側から鎖の擦れる音がした。石の一部がゆっくりと持ち上がり、足元へ冷たい風が流れてきた。
*
向こうの部屋には、三人の冒険者がいた。ひとりは足を怪我して床に座り、その脇の男が、驚いた顔でこちらを振り向いた。奥ではもうひとりが、丸い石扉を肩で押さえている。扉の向こうからは、石を引っ掻くような音が絶えず聞こえていた。
「開いた……! おい、出られるぞ!」
怪我をした男が、仲間の肩へ腕を回した。立ち上がった途端に顔を歪めたので、私は慌ててその背から袋を下ろした。ニナは持ち上がった壁の下へ鉄のくさびを打ち込み、奥の男へ声を掛けている。
「こっちです! 早く!」
「離したら、こいつが――」
男の言葉を、大きな衝撃音が遮った。石扉の隙間から白い脚が突き出し、肩で押さえていた身体が弾き飛ばされる。
這い出してきたのは、棺ほどもある胴体を八本の脚で支えた蜘蛛だった。関節に生えた青白い水晶が、私の灯火を受けて光っている。
硝子蜘蛛。第二層で何度も倒した魔物だ。火に弱く、遠くから魔法を当てれば、それほど苦労する相手ではなかった。
火を、と思った。
けれど、私は火球を使えない。
「セラ、その人を引っ張って!」
ニナの声に我に返り、這ってきた男へ手を伸ばした。肩から流れた血で袖が濡れている。腕を掴んで引くと、生身の人間の重さが、容赦なく腰に掛かった。
男が壁の下を抜けるのを見届けてから振り返ると、ニナが横へ踏み込み、蜘蛛の脚を槍で払っていた。穂先が水晶に弾かれる。彼女は突き直さず、槍を引きつけて出口へ下がった。
もっとよく見えるようにと灯火を増やした、その瞬間、蜘蛛の胴体がこちらへ向いた。
「消して!」
考えるより先に魔法を解いた。暗闇の中でニナに腕を引かれ、よろめいた私のすぐ横へ、硬いものが突き刺さった。頬に細かな石の破片が当たった。
「灯りに来るんです、こいつ……! こっち、手を離さないで」
握られた手へしがみつくようにして、足を動かした。膝がうまく曲がらない。あの魔物が灯りへ反応するなんて、知らなかった。知っている名前を見つけて、戦い方まで分かったつもりになっていた。
暗闇では、脚の長さも身体の向きも分からない。石を擦る音がするたび、次は自分に触れるのではないかと息が詰まった。
「おい、こっちだ! 早く!」
隠し扉の向こうで男が呼んでいる。そちらへ向かおうとした途端、目の前に蜘蛛の脚が下りた。ニナが私を引き戻し、短く息を呑んだ。槍の柄が何かにぶつかり、その震えが、触れ合った腕から伝わってきた。
「私が押さえるから、向こうへ――」
「灯り」
声が掠れた。私は唾を呑み、ニナの腕を掴んだ。
「奥へ、灯りを出しますわ。そちらへ行ってくれたら」
「……できます?」
頷いてから、暗くて見えないと気づいた。
「やってみます」
「お願い」
灯火を離れた場所に浮かべることはできる。ただし、手元を照らすときより集中が要った。震える息を細く吐き、私は石扉の近くに光をひとつ灯した。
蜘蛛が振り向いた。もうひとつ、その奥へ浮かべると、白い脚が大きく動いた。私は最初の光を消し、残した光をゆっくり遠ざけた。宴席では六十個の灯りを楽団の演奏に合わせて動かせたのに、いまはたったひとつを保つだけで、喉がからからになった。
「いま、走って!」
ニナと一緒に走った。持ち上がった壁の下へ身を滑り込ませ、這うようにして通路へ出る。すぐ後ろでニナがくさびを蹴り抜いたが、閉まりかけた隙間へ、水晶に覆われた脚が差し込まれた。
私は向こうに残した灯火を、さらに奥へ動かした。手元から遠ざかる感覚だけを頼りに、もう少し、あと少しと押し出していく。石を削っていた脚が引かれ、壁が重い音を立てて閉じたところで、魔法が途切れた。
私は床へ座り込んだ。呼吸の仕方を忘れたように息が浅く、膝に置いた手が、いつまでも震えていた。ニナもすぐ隣へ腰を落とし、閉じた壁を睨むように見つめている。
「……閉まりました?」
「うん」
「もう、来ません?」
「……たぶん」
ふたりでしばらく壁を見ていた。向こうで何度か硬い音がしたが、石は動かなかった。やがて音もしなくなると、ニナが大きく息を吐いた。
「怖かったあ……」
その声を聞いた途端、私も肩から力が抜けた。
「私も、怖かったですわ」
「怪我は? さっき、顔に」
言われて頬に触れると、少しひりひりした。指に血はつかなかったので首を横に振り、私も彼女の腕や肩を見た。革鎧には白い擦り傷があったが、破れてはいない。
「あなたは?」
「平気。……灯り、ありがとう」
「間に合って、よかった……」
それ以上はうまく言葉にならなかった。ニナが差し出してくれた水を少し飲むと、ようやく、膝の震えが収まり始めた。
*
地上へ出ると、露店で肉を焼いていた。
脂の落ちる音と香ばしい匂いに、私は思わず足を緩めた。さっきまで何も口に入らない気がしていたのに、もうお腹が空いている。隣を見ると、ニナも露店を見ていた。
「……食べたいですわ」
「私も」
けれど怪我人を連れている。私たちは未練がましく一度だけ振り返り、ギルドへ向かった。
救助した三人が治療室へ運ばれると、今度は私たちが職員に囲まれた。通った道、扉を見つけた場所、魔物の姿。地図を挟んで答えるうちに、食堂からの匂いが気になって仕方なくなった。
職員は私たちの報告を書き込み、壁の大きな地図へ赤い印をつけた。あの周辺は、調査が済むまで立ち入りを止めるらしい。別の窓口では、次に潜る一行へ、さっそくその話が伝えられていた。
私が戻って話したことを、これから出かける人が聞いている。
私は首元の木札に触れ、それから、浮彫の文字についても思い出せるだけ書き添えた。
採ってきた苔は、無事に買い取ってもらえた。石殻虫の殻にも少しだけ値段がついた。救助の報酬については、三人の話も聞いてから決まるという。
昨夜の受付の女性は、私の木札と汚れた服を見比べ、深いため息をついた。
「帰ってこられてよかったわ。ニナも」
ニナは小さく頷き、受け取った硬貨を財布へしまった。
ようやく食堂へ座れたころには、煮込みの湯気を見るだけで嬉しくなっていた。黒パンを浸すと、肉と豆の味がよく染みる。熱くて一度は口から離したものの、待てずにまた齧ってしまう。
「おいしい……」
「ですねえ」
しばらく、食器の音ばかりが続いた。半分ほど食べたところで、ニナが自分の皿から肉をひとつ移してくれた。
「はい。初仕事のお祝い」
「よろしいの?」
「どうぞ」
「ありがとう。次は私がご馳走しますわ」
「お肉、多いのにしてください」
私は頷き、もらった肉を大事に食べた。ニナはパンで皿の底を拭ってから、こちらをちらりと見た。
「……明日は、どうします?」
「苔の依頼は、まだございますかしら」
「また行くんだ」
「ええ。今日のぶんは、ほとんどあなたが採ってくださいましたもの。せっかく少し、こつが分かってきましたのに」
ニナは何か言いかけて、それから笑った。
「じゃあ、また一緒に」
「ぜひ!」
声が大きくなって、近くの卓から視線が向いた。私は匙を持ったまま姿勢を正したが、ニナは気にせず笑っていた。
「そんなに喜んでくれるなら、よかった」
私は足元で靴を少し緩めた。夢中で歩いている間には分からなかった疲れが、座るとじわじわ出てくる。
「お風呂に入りたいですわね」
「ああ、入りたい」
「大きな浴槽に、お湯をいっぱい張って」
「やめて。入りたくなる」
「もうなっておりましてよ」
ふたりで笑った。稼げたら、そういう宿へ泊まるのもいい。迷宮の近くなら朝もゆっくりできると話すと、ニナは「まだ近づくんだ」と呆れていた。
食事を終えても、しばらく席を立つ気になれなかった。果実水を飲みながら、私は今日の浮彫を卓上に指で描いてみた。蔓と鳥と杯。押す順番は覚えていたものと違ったし、向こうに硝子蜘蛛がいるとも思わなかった。
ニナが、私の指先を見ていた。
「あの文字、私には模様にしか見えませんでした」
「小さかったですものね」
「大きくても、読めないです」
彼女は少し迷うように杯を回し、それから身を乗り出した。
「あの、第三層にも、文字がたくさん書いてある扉があるんですけど」
「扉?」
「うん。この前、荷運びで一緒に連れていってもらったときに見て。開かないって、みんな通り過ぎちゃったんですけど」
私は背筋を伸ばした。
「どちらにございますの?」
ニナの目が丸くなった。すぐに笑いがこぼれ、彼女は卓上へ指を置いた。
「ええと、ここが階段で。水路が、こう通ってて……」
聞き終えても、思い当たる扉はなかった。ゲームで見落としていたのか、この世界にしかないものなのか。私は描かれた道を目で辿り、最後の扉の位置で止まった。
「見たいですわ」
「私も、中が気になって。何もないかもしれないですけど」
「開いてみなければ、分かりませんものね」
「でも、三層はまだ怖いなあ。あのときも、後ろをついていくので精いっぱいだったし」
ニナは描きかけた指を止め、少し口を尖らせた。私も、今日の蜘蛛の脚を思い出した。
すぐには行けそうにない。
けれど、行ってみたい場所が、またひとつ増えた。
*
夕方、私は父に手紙を書いた。
無事でいること、婚約破棄の書面について確認をお願いしたいこと、しばらく冒険者として暮らしてみたいこと。心配は掛けるだろうから、滞在先も忘れずに記した。最後に、今日初めて自分で働いたお金で食事をしたことを書き足したら、思っていたより長い手紙になった。
封をしてから、ギルドで借りた古代語辞典を開いた。向かいの寝台では、ニナが靴の手入れをしていた。私の靴も見てもらったところ、濡れたまま放っておかないほうがいいと言われたので、乾燥の魔法を掛けて並べてある。
灯火をひとつ、ふたりの間へ浮かべる。ニナが靴を傾けたので、少し高さを変えた。
「見えまして?」
「うん、ありがとう」
しばらく頁をめくっていると、ふと、彼女がこちらを見ていることに気づいた。
「なあに?」
「いや。疲れてないのかなって」
「疲れておりますわ。いま立つと、きっと脚が痛いです」
「なのに、勉強するんだ」
「これだけ、気になってしまって」
今日の浮彫にあった言葉を指で押さえる。礼拝文で習ったときには、翼を得るという表現は、死者の魂について使われていた。あの鳥も、そういう意味だったのだろうか。
話し始めると、ニナは靴を脇へ置いてくれた。私は辞典を持って卓へ移り、浮彫の形を紙に描いてみせた。すると彼女は、私が見ていなかった床の模様や、部屋の奥の段差を思い出してくれた。
「あそこ、台みたいになってました。丸い扉の手前」
「このあたり?」
「もう少し右かな」
書き足していくと、さっきまでなかった部屋の姿が、紙の上に少しずつ出来上がっていった。私はそれが嬉しくて、つい顔を上げた。
「あなたと行けてよかったですわ。私、壁しか見ておりませんでしたもの」
ニナは口を開き、いったん閉じた。それから紙へ目を戻し、小さく笑った。
「……私も。一人だったら、あの壁、通り過ぎてたと思う」
卓へ身を寄せた拍子に、彼女の鉄板が胸元から滑り出た。私の木札と並ぶと、ずいぶん頼もしく見える。
私はその二枚を眺めてから、紙の余白へ、思い出した石柱の位置を描き足した。
「明日も楽しみですわね」
「明日は、もうちょっと普通の日がいいです」
それには私も賛成だった。あの蜘蛛は、できればしばらく遠慮したい。
ニナが地図を開き、私は明日歩く道を教えてもらった。採集場所の近くに小さな橋があり、その先に四角い印がある。気になって指を置くと、ニナは私が尋ねる前から笑い始めた。
「倉庫です。古い、空っぽの」
「空っぽでしたの?」
「私が見たときは」
「では、少しだけ――」
「言うと思った」
笑われながらも、地図は畳まれなかった。私は橋の位置を紙へ写し、明日はもっと上手に苔を採ろうと心に決めた。




