第十七章 第1話 深海市・昭和仕様書と地下迷宮の謎
これは、黄金の座布団を蹴り飛ばした男と、電子の姿で蘇った柴犬が、下町の小さな「消えた幸せ」を取り戻す物語です。怪我をする人はいません。安心して、練乳より甘い午後のひとときにどうぞ。
第十七章 深海市・昭和仕様書と地下迷宮の謎
第1話
激甘コーヒーと押し入れの住人
宇宙まで出前を届けた大騒ぎから、三日が過ぎた。深海市には、何事もなかったような秋の朝が戻っている。
あちね探偵事務所の窓際で、あちねは湯気の立つマグカップを両手で包んでいた。中身はコーヒーである。ただし、そう呼んでいいかどうかは、見る人による。練乳をたっぷり、角砂糖を七つ。そこへ申し訳程度に黒い液体を垂らしてある。スプーンを挿すと、立つ。
「……うん。今日もいい仕事してる」
一口すすって目を細める。事務所の空気が、甘さでほんの少し粘った。
その甘い平和を、奥の押し入れが破った。
「だからねぇ、あたしらは払う気はあるのよ。気持ちだけは」
襖の隙間から顔を出したのは、居候のお銀である。その下に、ギルガメッシュ一等治安官の頭が縦に並んでいた。二人とも、畳の上に正座させられている。
「気持ちで家賃は払えません」
二人の前に仁王立ちしているのは、弁護士の神楽坂舞だった。手には滞納の明細書がある。
「お銀さんは四か月分、一等治安官は六か月分。治安官、あなたは宇宙の治安を守る前に、この部屋の収支を守ってください」
「……面目ない」
ギルガメッシュが、大きな体をぎゅっと縮めた。宇宙では勇名を馳せた男が、六畳間では足がしびれて小刻みに震えている。
「先生、足が……」
「しびれは債務の軽減事由になりません」
お銀が横目で囁く。「ねえあんた、あの人、一回も瞬きしてないよ」
「聞こえています」
あちねはマグカップを傾けながら、いつもの景色を眺めていた。これが事務所の日常である。
勢いよく扉が開いたのは、そのときだった。
「あちねさーん! 大変、大変なのっ!」
飛び込んできたのは、『白薔薇クリーニング』のみっちゃんだ。エプロン姿で、肩で息をしている。
「福まる食堂の地下でね、変な音がするの! ピーとかガーとか、ハッキングみたいな! そうしたらトメさんの電気毛布の効きが、急に悪くなっちゃって!」
「……電気毛布?」
「そう! 弱モードのままなのに、ぬるいのよ! トメさん、『あたしの足が、昭和から平成に降格された』って嘆いてて!」
あちねの手が止まった。電気毛布の効きが悪い。それだけなら、ただの不調である。だが、地下で響く奇妙な信号と、同じ日に重なっている。偶然にしては、辻褄が合いすぎていた。
「そいつぁ聞き捨てならねえな」
あちねは勢いよく立ち上がった。立ち上がった拍子に、足元の洗車バケツへ、両足をずぼっと突っ込んだ。
「あ」
前のめりに倒れる。床が近づく。ごん、と鈍い音がして、事務所が静まり返った。
「あちねさーん!?」
みっちゃんの悲鳴が、遠くなっていく。
気がつくと、あちねは見知らぬ縁側に座っていた。
隣で、無精ひげの男が茶をすすっている。くたびれた作業着。首にタオル。
「……親父」
亜那薫。あちねの父親である。
「おう、あちね。派手にやったな」
「ここ、どこだよ」
「知らねえよ。夢枕ってのは、そういうもんだ」
薫は湯呑みを置き、空を見上げた。
「いいか。現場で辻褄が合わねえ時はな……だいたい、過去の『仕様変更』の仕業だ」
「仕様変更? なんの」
「さぁな」
薫はにやりと笑った。笑ったきり、それ以上は何も言わない。茶の湯気だけが、ゆらゆらと立ち昇り、縁側ごと薄くなっていった。
「おい親父! 肝心なとこ言えよ!」
「あちねさん! あちねさん、起きてください!」
ポチCの声で、目が覚めた。ダッシュボードが、事務所の中なのに点滅している。赤い光が、規則的に瞬いていた。
「深海市の地下回線に、外部から侵入する不穏なノイズを検知しました。場所は福まる食堂の真下です」
あちねは頭をさすりながら起き上がった。バケツは、まだ両足にはまっている。
「……行くぜ」
「その前に、神楽坂先生への挨拶を」
「ああ、家賃のことは帰ってから聞く! お銀、治安官、留守番頼むぞ!」
「あ、逃げた」
「逃げましたね」
舞が冷静に呟いた。お銀とギルガメッシュは、足がしびれて、立ち上がることもできない。
あちねはバケツを両足にはめたまま、ガポガポと音を立てて外へ飛び出した。秋の朝日が、まぶしい。
結びの一句
「電気毛布 揺れるノイズや 秋の風」
ポチのツッコミ
「あちねさん、風じゃなくてハッキングです! それとバケツ抜いてください!」
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。『AIバディ・ポチの事件簿』、あちねとポチの凸凹コンビを、これからものんびり見守っていただけたら幸いです。




