第五章 前編 2話『AIバディ・ポチの事件簿 〜エリートを捨てた男と柴犬ポチ、AIキャロルのドブ板正義〜』
まえがき
これは、黄金の座布団を蹴り飛ばした男と、電子の姿で蘇った柴犬が、下町の小さな「消えた幸せ」を取り戻す物語です。怪我をする人はいません。安心して、練乳より甘い午後のひとときにどうぞ。
第五章 第二話(前編:調査段階):『厨房調査と、ジェリタン軍団の影』
1. 異様な静寂と、微かな波長
桃福の厨房に足を踏み入れたあちねたちは、思わず足を止めた。
そこには、不気味なほどの静寂が広がっていた。中華鍋も、コンロも、親父さんが磨き上げた通りにピカピカと光っている。ネズミのフン一つ落ちていない。
「……おかしいですね」
ポチのドット絵が、液晶画面の中でピコピコと赤く点滅するレーダー画面に切り替わった。
「空間に微弱な歪み(ひずみ)を検出。これは地球の野良ネズミの仕業ではありません。ミケタン星のデータベースにある宿敵、ジェリタン星人のステルス波長に極めて酷似しています。ですが、姿が全く捉えられません」
「へっ、幽霊ネズミってか? どんな相手だろうが、この竹箒で一掃きにしてやらぁ!」
あちねは右足の洗車バケツをガタガタと鳴らし、床板を小突いた。高級香水『エゴイスト』の香りが、微かに漂う油の匂いと混ざり合う。
2. ハイテクの敗北
「フン、オカルトまがいの精神論はよせ、あちね」
氷室はスマート端末を不敵に操作し、胸ポケットからピンポン玉サイズの球体を三つ、空中に放り投げた。
「私の最新型『超高解像度・害獣追尾ドローン』だ。肉眼で見えないステルス迷彩だろうと、赤外線と動体センサーで瞬時に座標を割り出し、捕獲ネットを射出する。論理的な解決とはこういうものを言うのだ」
三つのドローンはブーンと電子音を鳴らし、厨房の床下通気口へと吸い込まれるように進んでいった。氷室の端末には、床裏のリアルタイム映像が映し出される。
だが、その直後だった。
――パチン! パチン! パチン!
「ちゅう!?」と一瞬、小さな可愛い鳴き声が聞こえたかと思うと、床裏から火花が散った。
「な、何だと……!? 私のドローンが、一瞬で全機機能停止した……!?」
氷室が眼鏡を揺らして絶叫する。
「氷室殿、お気の毒に」
ポチが淡々とデータを読み上げる。
「ドローンは、敵が仕掛けた『超伝導・電子ネズミ捕り』のバネに物理的に挟まれ、過電流でショートした模様です。最先端のAIドローンが、古典的なバネの力に屈するとは、実におめでたい非論理ですね」
「くっ……! 誰が仕掛けたか知らないが、私のプライドを侮辱しおって!」
3. 空中を浮遊する具材
「おいおい、喧嘩してる場合じゃねえぞ! 前を見な!」
あちねが竹箒で前方を指差す。
コンロの脇に置かれていた仕込み用のバット。そこから、信じられない光景が始まっていた。
細切れにされたチャーシュー、そして黄金色に輝く秘伝のラードの塊が、ふわりと宙に浮き上がったのだ。
まるで透明人間が摘み上げているかのように、具材は不自然な放物線を描き、パカリと開いた床板の隙間へと、次々と吸い込まれていく。
「てやんでえ! 桃福の宝を泥棒すんじゃねえ!」
あちねは身を躍らせ、空間に向けて竹箒を猛烈に振り回した。ブン!と風を切る音が厨房に虚しく響く。しかし、箒の先は何の感触も捉えられない。
いくら掃いても、まるで虚空を突くように手応えが一切ないのだ。
「あちね殿、無駄です! 敵は『超空間迷路』を展開し、別の次元の座標から具材を回収しています。物理攻撃も、現在の私のハッキングプロトコルも、すべて座標の隙間に受け流されています」
「ちゅう〜♥」
どこからか、あちねたちの無様な大苦戦を嘲笑うかのような、知的ながらもどこか愛嬌のある無線音声が、厨房のスピーカーから微かに漏れ聞こえた。
姿は見えない。触れることもできない。
完璧なステルス工作の前に、あちねの現場の勘も、氷室のハイテク科学も、完全に封じ込められてしまった。
「ちくしょう、手も足も出ねえとはこのことか……!」
あちねは悔し涙をポロリとこぼし、練乳コーヒーの缶を握りしめた。
調査は完全に迷宮入り。凸凹コンビは、大敗北のまま一度撤退を余儀なくされるのだった。
(中編・作戦会議へ続く)
【結びの一句】
春の闇 消える肉片の 行方かな
あっちゅ寝太郎




