瞳に潜む言葉
電車に乗って水族館に着いた頃には、午前中に来ていた人たちがどっと帰っていくところだった。ベビーカーを押している女性に、ぬいぐるみを抱きかかえて笑う子や肩車をしてもらっている子。私たちは、そんな幸せを絵に描いたような家族連れともすれ違った。それでも今から入館する人も多く居て、発券機の前にはそこそこ列が出来ていた。
海風は強く、大人っぽいワンピースに似合うように結ったハーフアップが乱れてしまわないか気になって、私は片手で髪を押さえながらフロアマネージャーの後に続いて入口へと繋がる、長い長いエスカレーターを降りていく。
「わぁ……」
次第に高まる気持ちを胸に、入口を跨げばすぐ。壁一面に広がる大きな水槽に、私は圧倒される。
色とりどりの魚が泳ぐこの眺めは、たとえ何度目であっても心躍るものだった。
「あ。すみません、1人ではしゃいでしまって……」
「いえ。せっかく来たんです、もっと近くで観ましょうか」
「……っはい」
フロアマネージャーの厚意に、私の緊張の糸が少しだけ解れる。
「わっ」
「莉羅ちゃん……デートの相手は、この俺」
とっ、桃胡さん。コードじゃなくて手を引いてくださいってば。うっかり声が出ちゃったじゃないですか。
「どうかしましたか?」
「い、いいえ別に。ちょっと、ええっと……靴。いつもと違う靴で来たので、よろめいてしまって」
「……。…………」
偶然だろうけれど、桃胡さんと反対側。こちらへと近づいて隣に並んできたフロアマネージャーに、私は困惑する。
「あ、あの?」
下ろしていた腕を少し脇から離して、前を向いたまま動かないけれど、まさか掴まれってこと……?
「人も多いですし、どうぞ。上司の私が居ながら怪我をされては申し訳ないので」
「え」
上司上司って、本当に責任感の塊なんだな、この人は。
けれど私は、そんなフロアマネージャーへ首を縦に振ることが出来なかった。
よろめいちゃったのは誤魔化すための嘘だし、上司というそのワードで、何だかんだ私はアイスティーも水族館のチケットも払ってもらっちゃっている。
これから事あるごとに、私が部下な所為で迷惑をかけられないよ。
「ありがとうございます。でも大丈夫です。ちゃんと気を付けます」
私の言葉に反応してフロアマネージャーは振り返る。その拍子に桃胡さんの香りがして、私はひやっとした。何も言ってこないし、相変わらず表情を崩さないフロアマネージャーだけれど、それでも僅かに違って見える。驚いている様子だった。
「な、生意気な口を利いてすみません……そのっ、行きましょう?」
私はそう言って桃胡さんの手を放すと、フロアマネージャーの後に回り背中を押したまま歩いた。触れることが嫌ではないというのが、これで伝わっただろうか。でないと、上司としての厚意と言えど、部下の私に面目を潰されたことになっちゃうから。
「莉羅ちゃん、くっ付きすぎ……当たってるんじゃないの?」
当たってるって何のことで……あたっ、当たってませんっ。手でっ、腕で塞がっていますっ。変なこと言わないでくださいっ。
「ふぎゃ」
「あっ、莉羅ちゃん何してんの!」
突然フロアマネージャーが立ち止まった。故に私は、フロアマネージャーの背中にしがみ付きながら顔を埋めてしまった。
やばい、今日リキッドファンデだ……。
桃胡さんは白いYシャツを着ているけれど、フロアマネージャーは黒いシャツだ。それはそれでメイクが付着してはいないか心配になって確認してみたけれど、良かった。大丈夫そうだ。
「あっと、す、すみません……変なことをして」
「……すぐ戻りますので」
「え?」
フロアマネージャーはそう短く言うと、スタスタと早足で行ってしまった。
御手洗いかな?
小首を傾げていると、桃胡さんが話し掛けてきた。
「莉羅ちゃん。今の内に先に行こう?」
何言ってるんですか、駄目ですって。でも……先に楽しむくらいはいいですよね桃胡さん?
「う、うん……まぁ莉羅ちゃんがそう言うならいいけど……」
私から手を取ると、桃胡さんは視線を逸らしながらも頷いてくれた。
手を繋いで水槽の前まで行くと、魚たちの可愛い顔やヒレの細かな動きまでよく観察することが出来る。面白い。
案内板を見ると、主に色んな種類のチョウチョウウオが泳いでいるようだ。鮮やかな黄色や青のボディーが目を惹くこの魚たちは、グレートバリアリーフと呼ばれるオーストラリアのサンゴ礁地帯で生息しているらしい。
「君1人? 良かったら僕らと回らない?」
「!?」
魚たちに目を奪われているところに突然声を掛けられて、私は心臓が飛び出そうになった。振り返ると、ロンTにハーフパンツ×3の男性が片足重心で立っていた。
男性3人衆は、私と合った目を一度大きくしてからニタニタと微笑みを浮かべる。
どんなに美人を以てしても、水族館内でナンパなんてシチュエーション的に想像が出来なかったけれど、偏差値が顔にもろ出ている私と、春の陽気に中てられたお頭を持った人たちが出くわした場合においては例外だったようだ。
「は? 何こいつら?」
まぁまぁ。体育館裏とか路地裏じゃないんです。断れば何事も無く済みますよ。
そう桃胡さんをなだめ、私は男性3人衆の目を見ながら言った。
「すみません。1人じゃないので、他をあたってみてください」
「いやいや、どう見たってぼっちでしょ。そんな寂しい嘘吐かないでさぁ、僕らと一緒に回れば楽しいよ?」
う~ん。それを決めるのは私なんだけれどなぁ。
男性3人衆は案外しつこさを見せてくる。そうなってくると、むしろ人目を利用して私を追い込んでいるようにも感じ取れた。そんな相手に桃胡さんは顔いっぱいに嫌悪感を浮かべつつも、私に向き直って申し訳なさそうに言った。
「ごめん莉羅ちゃん……俺、こいつらに何かしたりとか出来ないから、早くここから離れよう?」
そうしたいんですけれど、フロアマネージャーが……。
「今っ、あんなやつのことなんて――」
「俺の連れに何か御用ですか?」
び、びっくりした。どこからともなく現れたフロアマネージャーが、私を庇うように立った。
そんな状況に、今まで私を冷笑していた男性たちの表情は固まる。そして何かもごもごと言い捨てながら、あっという間にこの場所から離れていったのだった。
「……だから言ったでしょう。そのような格好で、貴女のようなひとが1人で居ると危険だって。私が居なかったらどうなっていたことか」
「すっ……すみません……」
責任感の塊にそう言われると、返す言葉も無い…………いや、実際はある。だって1人で来ていたら、即行逃げて男性たちを撒くという方法を取るし。足には自信があるから。
でも言えないよね、さすがに……。
部下のために怒る真面目なフロアマネージャーを眺めながら、私はしみじみと思った。
「なんか……私を笑い者にしただけかもしれません。最初は単に使い捨て出来る、成功率の高そうな私を選んだだけだって思ったんですけど、それすらも無……い……」
自分に苦笑しながら話していた時。顔を上げたフロアマネージャーの視線とぶつかった。
その何か言いたげな力強い瞳に、私は思わず声を失い息を呑んだ。
「俺は違いますから」
「……え?」
真っ直ぐな瞳に吸い込まれていた私は、フロアマネージャーの言葉を理解するのに、少し時間が掛かった。
「あぁ……そうですよね。フロアマネージャーは、とっても強い責任感をお持ちでいらっしゃいますもんね」
「…………」
あ、あれ? 私、何か失礼なことを言ったかな?
僅かに顎を上げて黙るフロアマネージャーに、私は内心冷や汗を掻いた。
「と、とにかくですね……!」
「え? は、はい。あっ、手……」
フロアマネージャーは私の手を取ると、自分の顔へと引き寄せる。その拍子に私は1歩前進し、思いがけずフロアマネージャーのパーソナルスペースに入った。
「私から離れないでください」
まるで子どもへと言い聞かせるように真剣だった。でもフロアマネージャーが握った私の手は、桃胡さんとも繋いでいる方の手。コードが繋がった左手だった。
目を見開く桃胡さんと私の間では、コードが不規則に揺れていた。




