起伏
「うわ!」
事務所の外からそんな声が聞こえてきて驚いた。
思わず私は声の方へ振り返ろうとしたけれど、膝がフロアマネージャーの足に当たってしまって、しかも手を引き留められていたから、結局どうすることも出来なかった。
視線が再びフロアマネージャーのもとへと戻ると、向こうからも合って、瞬きしても交わって、はっとしたように手を放されて、私は何だか恥ずかしくなった。だから私は目を泳がせながら手を引っ込め、膝をぶつけてしまったことを謝った。
フロアマネージャーは短く「いえ」と答えてくれた。
「ま、まじで申し訳ない……」
事務所に入ってきて早々、気まずそうな顔で私たちに謝るのは、POPのコピーをとってくれた男性職員だった。奥のデスクの引き出しから取り出したお財布を見せ、これを取りに来ただけだと言う。
び、びっくりした……。足音に気付かないくらい、私ってフロアマネージャーのことだけしか見えてなかったんだ……。
「いやぁ~すごく静かだったから、逢川マネージャーたちってまだ居ないのかなと思いましぃ……あ」
話している途中で咳払いをしたフロアマネージャーに、男性職員は真顔になると「じゃ、じゃあ俺行くんで!」と、慌てて逃げるように事務所を去って行った。
「あ、あははは……」
取りあえず笑ってみるけれど、フロアマネージャーは黙ったまま。何だろう、この既視感。
私は小首を傾げながらも、不意に自分の手元へ視線が落ちた。フロアマネージャーに触れられた手の指に結ばれたコードが、キラキラと輝いて見えた気がした。
そうだ。この雰囲気、桃胡さんを彷彿とさせていたんだ。
それじゃあもしかして……フロアマネージャーって今、怒ってる……?
「な、仲が良いんですね。さっき、初めてここへ来た時にも思ったのですが、先輩を慕う後輩みたいな感じに見えました」
「……そんな風に見えましたか?」
フロアマネージャーの視線が戻ってくると、先ほどまで触れていた手にも再び熱が甦ってくる。そんなこと悟られるはずもないのに、私はまるで膝の上にあるその手を隠すかのようにもう片方の手を重ねた。
「はい……。そ、そう言えば、私に気を付けて欲しいこととは何でしょうか?」
私が訊くと、フロアマネージャーは控えめながらも表情を和らげた。
「では、食べながら話しましょうか」
「はい……っ」
「いただきます」と、私たちはお弁当とお惣菜の前で手を合わせる。
フロアマネージャーがポテトサラダに箸を伸ばしたので、私は水筒のお茶を飲みながらこっそり口に運ぶのを待った。
「美味しいです……」
「良かった……」
表情は硬いし、フロアマネージャーが零した気持ちはたった一言なのに、胸へ広がっていくように響いた。
「あ。そのお惣菜は、サラダをメインにしたお店のラウルで……って、ご存じですよね」
「ええ。でも、パッケージのマークを見て判断出来た程度です」
「あぁっ、フロアマネージャーは来られたばかりですもんね。特集記事の制作もしていらっしゃいますし、他にもたくさんのお仕事があるでしょうし、私たち販売員とは違う形でお客様に尽くしていらっしゃるんですから、いっぱいいっぱい大変です。なんならプライベートでもお仕事のことを考えていらっしゃっていて、本当……すごいなぁって思っていました。それではっ、私もお昼失礼します。いただきます」
「ど、どうぞ……」
ん~っっ、カツサンド美味しい!
お肉の密度もさることながら、このカツのフルーティーなソースが染み込んだ、モチッとしたパン生地がウマー!!
私、タレたっぷりのおかずをバウンドした、炊き立てのご飯を食べるのも大好きなんだよね。はぁぁ~、食べながらお腹空いてきたよ~っ。
――あ。でも私って、今から怒られるんだよね……?
恐る恐るフロアマネージャーを盗み見ると、私の不安を察してくれたのか困ったようにため息を吐いた。けれど、どこか表情が柔らかく、責められている感じがしなかった。
「先ほども申しましたが、謝罪をしてもらうために呼んだわけではありません。それに……」
フロアマネージャーは私から視線を逸らすと、咳払いをした。
「その……昨日も絡まれていましたよね? 私はそれが心配で……」
「あ……あぁ~お優しいですね、フロアマネージャーは……。でもまたご迷惑になりたくないので、今度声を掛けられたらビシッと断りますよっ。……ま、まぁ、自信がない時は迂回して避ければいいですし……だから、気にされないでくださいね」
「しかし、二度あることは三度あると言いますし……」
「う。わっ、私だって、さすがに学習しましたから大丈夫ですっ。それに販売員と言いますか、従業員は私以外にもたくさん居ますし、私はこれ以上、フロアマネージャーの負担になりたくないですからご心配――」
「いえ、それはあり得ません」
「え」
いつも通りと言えばいつも通りなのだけれど、冷ややかな声にドキッとして、私が思わず振り向くと、フロアマネージャーの真っ直ぐな視線とぶつかった。それこそフロアマネージャーは、いつも通り私から視線を外すと、再び咳払いをした。
「その……あ、貴女のように抜けている人は、そうそう居ませんのでお気遣いなく」
「えっ」
ひ、酷っ! 急に辛辣なんですけれど!?
私は眉根を寄せつつ、櫛形のトマトをぱくっと食べたフロアマネージャーの横顔を見つめた。むぅぅ。
「な、何ですか? 言いたいことがあるならどうぞ遠慮なく」
「い、いえ別に……」
まぁ言われても仕方ないか。今ここに呼ばれているのだって、私がしっかりしていない所為なんだし。
そう一人撃沈していると、フロアマネージャーの咳払いが聞こえてきた。
「よ、要はですね……貴女のことは特別……気にかけています……っ」
「……え?」
「そう言えば先ほどの店員は貴女に対する態度だけでなくこの商品に対しても価値を下げて言っていましたね」
「へ。そ、そういえば、えっと……そうでしたね。確か、量が少ないみたいなことを言っていましたっけ」
び、びっくりした。突然早口になるんだもん。
私はフロアマネージャーのペースに呑まれそうになりつつも、何とか返事をした。
「いえ、量についてはマイナスではありません。むしろ通常サイズでは多いと感じる場合や、時間の無いお客様にはうってつけの商品です。それにこうして貴女がしてくれたように、好きな総菜をカスタマイズすることも出来ます」
「確かに」
「ええ」
「……」
「……」
ん?
何か大事なことを見落としてしまったような気もしたけれど、何だっ……
「あ! そう言えば、お伝えし忘れていました」
一瞬私が大きな声を出してしまったからか、フロアマネージャーは身構えるように目を白黒させた。ちょっと申し訳ない。
私は椅子を回転させて、出来る限りフロアマネージャーと向かい合う。
「先ほどは困っているところを助けて頂けて、とても嬉しかったです。ありがとうございますっ、フロアマネージャー」
フロアマネージャーのデスクの上。コピーを取りに来た時よりも整理されている。
きっと、私のために片付けてくれたんだ。
何だか私の印象は落としているかもしれないけれど、フロアマネージャーに対しての印象は、私の中でいい意味で更新されていた。
そんなことを胸に秘めながら、私はフロアマネージャーへと笑顔を向けたのだった。




