異常
「おかえり、莉羅ちゃん」
帰宅すると、今日も桃胡さんは当然の顔で私を迎えた。整った容姿に不釣り合いなエイのぬいぐるみを脇に抱え、敵意を感じるわけではないから眼光を飛ばしてとまでは言わないけれど、じっと黙ってこちらを見つめている。
その顔が真面目な分、ちょっとだけフロアマネージャーに似ているなって思った。
「た、ただいま帰りましたー……」
それにしても、う~ん……このぬいぐるみって、本当は宙に浮いているってことなのかな?
「……そうかもね」と桃胡さんはため息混じりに答えた。
怒ってるか、やっぱり。
「そりゃあだって俺っ、莉羅ちゃんが必死に頭下げるから、ここでちゃんと大人しく待ってたのに……なのに莉羅ちゃんは俺の気も知らないで結局あいつと……」
「理由があったことは知っていますよね?」
私のことは全部、このコードを通して桃胡さんに筒抜けなんですから。
「……ずるいよ莉羅ちゃん。そう言えば俺が黙ると思って……」
「むしろ今まで振りかざしていたのは、桃胡さんの方ではありませんか」
「り……莉羅ちゃんだってっ。そうやってコードで言いくるめて、俺が付いて行くのを止めた」
「言いくるめてって……人聞きの悪いこと言わないでくださいっ。ずっとなりふり構わず傍に居られると接客に支障が出るんですから、本当……困るんです……わかってください」
「う。き、気を付けるから、支障出さないようにするから、明日は連れてってよ。ね?」
私は言葉で返さず、首を横に振りながら玄関を上がった。
「莉羅ちゃん……。ごめん莉羅ちゃん。ねぇ、今日は何を買ってきたの?」
「知ってるくせに、訊かないでください……」
「くせにって……詳しくはわからないよ。莉羅ちゃんが考えていたこと、感じてたこと、心の声は俺に流れて来ても、コードだけで全ての状況が見えるわけじゃないんだから」
「十分じゃないですかっ。それがどれだけ恥ずかしいことか、ストレスになるのか、桃胡さんにはわからないです……っ」
「莉羅ちゃん……」
桃胡さんに、棘のある口調で吐き出しておきながら、私は動揺してしまう。
どうして私は、桃胡さんをこんなにも責めているんだろう……。
「きょ、今日はまだ早いですし、簡単にご飯作ろうと思ってこれ」
私が取り繕うようにエコバッグの口を広げると、桃胡さんは一度驚いた表情を見せた後、安堵したように微笑んだ。
「今日も大変だったのに、偉いなぁ莉羅ちゃん。カレーかな?」
「肉じゃがです。カレーは鍋を洗うのが大変なので」
「そっか」
つい素っ気なく返してしまう私に対しても、桃胡さんは微笑んだままだった。そうなってくると余計、罪悪感に苛まれてしまう。
「……あ、あの」
「ん?」
「すみません……責めるようなことを言ってしまって……」
「莉羅ちゃん……。ううん、いいんだ。それにきっと……」
「桃胡さん……? わっ。ちょ、ちょっと放してください」
桃胡さんに突然、抱きしめられた。何の脈絡もなく、ふわっと包み込むように抱きしめられた。
私は反射的に腕の中から離れようとしたけれど、桃胡さんから伝わってきた感覚に戸惑った。
いつもはもっと力技っていうか強引な感じだけど、何だか今は……桃胡さんから不安が伝わってくる……。そんなに留守番が嫌だったのかな……。
「俺のこと好きって言ってよ……」
「え? ど、どうしちゃったんですか急に」
「急じゃないでしょ? 俺だよ?」
みょ、妙に説得力がある……。
「ね? お願い。言ってくれたら離れるから」
「わかりました……好きです!」
「――り、莉羅ちゃんっ。そんな眉をキリッと上げて“任されたっ”みたいに男前な態度で言わないでよっ。もっと心を込めてっ」
「い、言えないですよっ、まともになんて……恥ずかしいです……っ」
歯が浮くような台詞である。合点承知之助で言うだけでも、実は勇気が要ったのだ。顔だって熱い。
その恥ずかしさで火が出そうな顔を隠すように、思わず私は桃胡さんにしがみ付いて、生霊らしからぬ厚い胸板へと埋めた。
「り……莉羅ちゃん可愛いぃぃ……」
「へ? はっ、隙あり!」
「あっ、こらっ」
ほんの少しの油断が命取り。そんな言葉があるけれど、さすがに時と場合だ。捕まった状態からの脱出は、不可能に近かった。
「放してくださいっ」
「駄目。何が何でも離さないっ」
「~っっ」
逃げようとした分、桃胡さんにむぎゅーっと抱きしめられてしまい、私は降参せざるを得なかった。ならば、口で抵抗するしかない。
「も、もうっ。こんな喧嘩しているんだか、イチャついているんだかわからないようなバカップルみたいな真似は止してくださいっ。私はお腹が減ってるんです、手ぇ洗ってご飯作ります!」
……、…………。
「そ? いいよ、別に?」
「え?」
「ごめんね」と言って、素直に私を解放した桃胡さんは、ニコッと微笑む。
こ、こやつ、何を考えてるんだぁぁ?
「ごめん。ちょっと俺、出掛けてくるよ。帰るの明日になるけど、我慢して待っててね?」
そんなことを言われたのは、ご飯を食べ終えてから1時間ほど経った頃だった。
急にどうしちゃったんだろうか。
そう思ったのと同時に、私の頭の中で帰宅後のやり取りが甦ってきた。
「まぁいっか。何を企んでいるのかわからないけれど、怯えていてもしょうがないよね。その都度対処するしかないし……それにしてもこの感じ、はぁぁ~久しぶりだなぁ~」
コードのことがあるから完全にではないだろうけれど、部屋に1人残された私は解放的な気分で満ち溢れた。
いやいや、元々一人暮らしだし。と、私は心の中で自分にツッコミを入れつつ、腕を上げて伸びをした。そしてそのまま上半身を覆えるほど大きなクッションに倒れ込むと、私の視界には何の変哲もない、ちょっと古びた天井が広がった。
「静かだなぁ……」
唯一聞こえるのは、冷蔵庫の音くらいだった。気のせいか、疲れているはずの身体さえも軽く感じる。
「そう言えば桃胡さんって、ついこの間までは、よく家から離れるように消えていたっけ。本体に帰る感じ? それにお店ではドッペルゲンガーと間違えるくらい生霊が増えて居たのに、今では桃胡さんの1人だけだ……。うーん、それってやっぱり、コードがきっかけで変わったってことなのかなぁ?」
天井に向かってかざした左手の小指には、相変わらずコードが結ばれている。
「……不思議。桃胡さんと一緒に居ない時は、結び目だけが見える状態なんだよね」
「変なの」と、寝返りを打ちながら呟いた言葉にはっとした。
いざ静かな部屋で1人になってみると、私は見えない相手に喋っていたんだなって思い知らされて、自分が怖くなった。
本当は誰も居ないのに笑ったり怒ったり、宙に浮いているぬいぐるみを受け入れてしまう私って、異常者なんじゃないかって思った。
「駄目だ、気が滅入る。お風呂入ろっと」
私は考えるのをやめて、早速お湯張りボタンを押しに行った。
その後の、お風呂が出来るまでの10分ちょっと。なぜだか私は落ち着かなかった。
水に浸けておいた鍋を率先して洗ったり、黙々と洗濯物を畳んだりして過ごしていて、お風呂が沸きましたというアナウンスが流れた時には、珍しく寝る準備が整っているくらい部屋が片付いていたのであった。
それが功を奏したのか、気分が晴れた私は調子を取り戻していた。鼻歌なんて口ずさみながら服を脱ぎ、お風呂の扉を開け、桃胡さんが入って来るかもという不安を一切感じることなく、伸び伸び髪と身体を洗った。
「はぁぁ~気持ちいい~……あ」
湯船に浸かって脱力していると、浴槽の脇に置いておいた入浴剤に目がとまる。これは桃胡さん対策のもの。
「今日は目隠しの為にじゃなくて、本来の用途で使えるよぉ……。さて、何の入浴剤を使おうかなぁ~?」
「隙あり!」
「え。きゃぁぁ!」
閉まった扉をすり抜けて現れた人物に、私はパニックになりながらも背後に身体を向けて胸を隠した。
「とととっ、桃胡さんっ? なんでここにっ? 明日帰るって言ってたじゃないですかっ?」
「えー? まぁ気分が変わって?」
にこにこ、にこにこ。桃胡さんは、にこにこ、にこにこしている。
「あ! まさか、そもそもこの隙を狙うのが目的で……?」
にこにこ、にこにこ。桃胡さんは、にこにこ、にこにこしている。
「ふ、普通そこまでしますかっ? あ……」
桃胡さんに背中を触れられ、全身に緊張が走った。
「だって莉羅ちゃん……俺が真剣にお願いしてるのに……ふざけるんだもん……」
「やめ……」
「じゃあ言って……?」
耳元で囁かれながら、つーっと指先が腰にまで下がってくる。
「す、好きです……っ」
「違うよ、莉羅ちゃん……あいつじゃなくて、俺が好きだって言って?」
「え……?」
それってまさか、フロアマネージャーのこと?
でも何で今、フロアマネージャーの話が出るの?
「お願い。嘘でもいいから……」
指先がまた上り始めると、くすぐったさに似たその感覚に、ぴくんと背中が反り返る。私の口から自然といやらしい声が短く漏れた。
「ほら、もっとエスカレートしてもいいの?」
「ま、待って……」
私は身体中に鼓動を鳴り響かせながらも、桃胡さんの様子に混乱していた。
大胆さに反して、桃胡さんの情緒が不安定な気がしたからだ。
そんな桃胡さんに、嘘の一つや二つ吐いてもいいのかもしれない。けれど私は、なぜだか言葉に出来なかった。
「どうして」
「え?」
「どうして言ってくれないの……!?」
「きゃっ」
強引に肩を返され、私は桃胡さんに向き直ってしまった。しかも立ち上がった状態なので、隠していた胸も何もかも桃胡さんの前で露になる。
「莉羅ちゃん……っ」
私の自由を奪うには、桃胡さんの片方の手だけで事足りた。
私は両手を押さえ込まれる中、桃胡さんの這わせる舌の感覚から逃げるように身体を捩らせていた。
桃胡さんに裸を見られることも、触れられることも初めてではないけれど、羞恥心は息を吹き返したようにやってくる。
それに何だか、桃胡さんの必死さが今はとても……。
「莉羅ちゃん……?」
私の流した涙が一粒、顔を上げた桃胡さんの頬に落ちた。
「ごめ……、また俺……」
まるで憑き物が取れたような、けれど酷く動揺した桃胡さんの表情に、私は静かに泣きながら安堵した。そして私は、受けた性的快感と両手を解放されたこともあり、いつの間にか桃胡さんへと身体を預けるように倒れ込んでしまっていた。
「ごめん……怖かったよね、ごめん……」
桃胡さんは私を抱き留めながら、そう後悔したように何度も謝ってくる。
だからだろうか。私は気付くと、桃胡さんの言葉に頷いていた。
「うん……じゃあ明日からは、俺も憑いて行くね……?」




