長い長い夢の話。
次に「意識」があると気づいたとき、私はどこかに倒れていた。
そこは、図書館みたいな場所だった。
でも、私が知っているどんな図書館よりも、ずっと暗くて、ずっと広かった。
天井は見えない。
そのずっと上の方から、オレンジ色の豆電球がいくつも垂れ下がっている。
シャンデリアのようでいて、どこか古びた、頼りない光。
床には、深い赤色のカーペットが一面に敷かれていて、足を踏みしめるたび、沈み込むような感触がする。
視界の先には、背の高い本棚がずーっと果てしなく並んでいた。
途中で十字路やT字路みたいに分かれていて、上へ続く階段、下へ降りる階段が迷路のように幾つも入り組んでいる。
木の匂いと、少し湿った紙の匂い。
どこを見回しても、本、本、本、本ばかりだった。
「ここは……どこ?」
私は、声に出してそう呟いた。
声はちゃんと出る。呼吸もできる。
さっきの痛みも、身体のバラバラな感覚も、どこにもない。
(……夢、なのかな)
九歳の私には、そのくらいの言葉でしか説明できなかった。
だけど、この場所は「夢」にしては妙にリアルだった。
疲れたりしない。
お腹も空かない。
トイレに行きたくならない。
時間を示すものも、窓も空もないのに、私は「ずっとここにいる」感覚だけは、なぜかはっきりしている。
現状の状況をまだ把握できないながら途方に暮れながら、私はゆっくりと本棚の間を歩き始めた。
* * *
どれくらい歩いたころだっただろう。
どこに何があるのか分からないこの場所をひたすら歩き、少し開けた広間のような場所に出た。
そこには、小さな丸テーブルがいくつか置いてあり、ふわふわのクッション付きの椅子が並んでいる。
まるで、本屋さんの中にある喫茶スペースのようだった。
そこに、一人の女性が座っていた。
白いワンピース。
細かい刺繍が裾や袖に入っていて、柔らかい光を受けてほのかにきらめいている。
白い肌に、少しだけ血色のさした頬。
青く澄んだ瞳は、どこかガラスみたいに透き通っていて、でも冷たくは感じない。
黒髪のロングヘアー。日本人のようでいて、どこか異国の血が混じったような、完璧に整った顔立ち。
その府とを見て私は美しいと思った。
その人は、奇麗な美貌と相応に優雅に紅茶を飲みながら、本を読んでいた。
私は、その横顔にしばらく見とれてしまっていた。
すると、ふいに彼女が顔を上げ、私と目が合った。
その人は驚いたように目を丸くしたあと、彼女は微笑む。
「お嬢ちゃん。ここに、迷い込んできちゃったみたいだね」
「おねえさん……ここは、どこなの?」
私がそう尋ねると、彼女は少しだけ考えるみたいに首をかしげた。
「うーん。ここかぁ……そうねぇ……なんだろうねぇ。
お姉さんも、よくわかっていないんだ。ごめんね」
「おねえさんは、ここにずっといるの?」
「うーん。なが〜い間、ここにいると思うなぁ。
時間が流れているようで、流れていないようで……そんな感じなんだけど。
でも、あなたよりは、ずっと長くいると思うな」
奇麗なお姉さんは椅子から立ち上がり、私の目線に合わせてしゃがみこんだ。
青い瞳が、まっすぐに私を眼前に映る
「お嬢ちゃん。あなたのお名前を聞いてもいい?」
私はこくりとうなずき、口を開く。
「りん。二神凜」
その瞬間、彼女はびっくりしたような顔をした。
驚きと、何かを確信したような表情と、少し寂しそうが混ざったような目で、私を見つめる。
「……あなたが、二神凛ちゃんなのね」
ぽつりとそう言って、彼女の目に、一筋の涙を流していた。
「あなたは、ここにいてはいけない子。
だから、お姉さんが、無事に帰れるように手伝ってあげる」
「ここから、どうしたら帰れるの?」
「本を読むのよ」
「……本?」
私は周りを見回す。本棚の山。本の海。
「この中にね、『あなた』について書かれた本がどこかにあるの。
その本の中に、ここから出られるヒントが隠れているの」
「どの本を読めばいいの?」
「たくさん読んでみるの」
彼女はくすっと笑ってから、私の手を握りながら立ち上がる、それにつられて私も立ち上がった。
「さぁ、本を探しに行こうか。本は、待っていてはくれないからね」
「お姉さんの名前は聞いてなかった、お名前なあに?」
私が尋ねると、彼女は少しだけ笑顔を柔らかくして、自分の名前を教えてくれた。
……はずだった。
けれど、その瞬間から、私は彼女の名前を「覚えていられなかった」。
口にした瞬間に、するりと記憶から滑り落ちていく。
何度聞いても、そのたびに忘れてしまう。
「お姉さんの名前、わからない」
「そうねぇ。じゃあ……本屋のお姉さんって呼んで」
「わかった。本のお姉ちゃん!」
そうして、私と「本のお姉ちゃん」の、長い長い読書の日々が始まった。
* * *
本棚には、ありとあらゆる種類の本があった。
恐竜図鑑、世界地図、難しい言葉の辞典、プルゴンのお話の本。
誰かの日記、誰かの物語。犬の目線で描かれた絵本、宇宙の星の本。
私の知らない世界が、ぎっしり詰め込まれていた。
最初は、長くて難しい文章を読むのが大変だった。
でも、本のお姉ちゃんが隣で読み聞かせてくれたり、わからない言葉をひとつひとつ教えてくれたりして、私はみるみるうちに本を読むことができるようになっていった。
眠くならない。
お腹も空かない。
時間の感覚もない。
不思議に思いながらも私はひたすら本を読めた。
どれくらい読んだのか、途中からもう数えられなくなった。
全部を覚えているわけじゃない。ただ、頭の奥のどこかに、たくさんの物語が折りたたまれて積み重なっているような感覚だけが残る。小学校でみんなで作った沢山の千羽鶴を重ねていくように。
「へぇ〜、凜ちゃん、プルゴンといっぱい遊んでいたんだねぇ」
本のお姉ちゃんは、私が話す「現実の世界」での思い出を、いつも楽しそうに聞いてくれた。
「本のお姉ちゃんは、プルゴン知らないの?」
「知ってるよ。私にとってプルゴンは、家族みたいな存在なの。
でもね、ずーっと会っていないんだ。
今知っているプルゴンは、この本たちの中のプルゴンだけ」
「そうなんだ。プルゴンね、可愛くて楽しいよ。本のお姉ちゃんも、一緒に遊ぼうよ。一緒に帰ろうよ」
「そうね……帰りたいね。帰れるなら、帰りたいな~」
「お姉ちゃんは帰れないの?」
「うーん、どうだろう。私はね、この場所に“住んで”いるようなものだから。
ここから出られないのかもしれない」
「そうなんだ」
なんだかかわいそうだと思った。友達と遊んだり、お父さんやお母さんとお出かけしたりできないのはすごく寂しいことだと私は思った。
少しの沈黙のあと、彼女は微笑んだ。
「でも、あなたは帰らなきゃダメよ。
あなたには、これからやらなきゃいけないことが、きっとあるから」
* * *
ある日。本のお姉ちゃんが、何気ない感じで問いかけてきた。
「凜ちゃんは、ここへどうやって来たの?」
「えっとね……」
私は、その質問に答えようとして――。
思い出してしまった。
土砂崩れ。
クレーン車。
ちぎれた脚。
ちーちゃんの下半身。
締め上げるワイヤー。
ちぎれた身体。
最後の「たすけて」。
忘れていた記憶が、一気に押し寄せてくる。
胸の奥がぐちゃぐちゃにかき回されるような感覚。
世界が暗くなって、呼吸がうまくできない。
「う、うぅ……っ……!!」
私はその場にうずくまり、身体を丸めて震えた。
頭の中で、何度も何度も、あの瞬間が再生される。
私が苦しんでいる様子を見て、本のお姉ちゃんはすぐに私の隣にしゃがみ込んだ。
そして、優しく両手で私の顔を包み、おでことおでこをそっとくっつけた。
彼女の額の温度が、じんわりと伝わってくる。
何かを「読み取る」ように、静かに目を閉じる本のお姉ちゃん。
しばらくそうしてから、小さく息を吐いた。
「……大丈夫だよ。あなたは何も悪くない」
その言葉が、直接胸の奥に入ってくるように感じた。
さっきまで全身を支配していた恐怖が、少しずつ薄れていく。
嵐の波打っていた心が、凪いでいく。
「凜ちゃんの帰るための本が見つかったら、ちゃんと生きて帰れる。
だから、怖くても、もう少しだけ頑張ろうね」
「……本のお姉ちゃん。私は、死んじゃったの?」
「違うよ。死んでなんかいない」
彼女は、はっきりと首を振った。
「ただね、今はこの“本の世界”に迷い込んでいるだけ。
ちゃんと“向こう側”に戻れるように、帰り道を見つけるの」
「……うん。じゃあ、もう少し本読むの、頑張る」
* * *
どれくらい時間が経ったのか、本当にわからない。
時計も、窓も、太陽も、月もない。
豆電球の明かりは、ずっと同じ明るさで、外の世界の時間を何一つ教えてくれない。
ある本を読んでいた時に本屋のお姉さんに聞いた
「女王アリってなぁに?普通のアリと違うの?」
私は、ある本を読みながら、首をかしげる。
「そうねぇ。女王アリさんは、アリさんの“王様”みたいな存在かな。
たくさんのアリを産んで、みんなを支えるの。
お外にはあまり出られないけれど、その代わりに家族を増やしていくのが役目なのよ」
「女王アリさんって偉いの?」
「王様のアリさんだから偉いよ!家族たちはみんな言うことを素直に聞いてくれるの」
「王様だから偉くて支配してるのかな?」
「どうかしらね。でも、きっとみんな、女王アリさんのことが大好きなんじゃないかな。
女王アリさんは外に出られないかわりに、家族たちに色んなことをお願いして、色んな話を聞いているのかもしれないね」
「なんか可哀想だね。お外に出れないなんて」
「そうね。でも、女王アリさんは、それを望んだのかもしれない。
アリさんたちにも、アリさんたちなりの“夢”があるのよ、きっと」
少し考えてから、私は本のお姉ちゃんに訊く。
「本のお姉ちゃんは、ここから出たら、何かしたいことあるの?」
「そうね……私は、会いたい人がいるかな」
「どういう人なの?」
「私を愛してくれた人。 私も、その人を愛している……と思うわ」
彼女は、少し照れくさそうに笑う。
「彼がね、約束してくれたの。
『必ず君をここから連れ出す。そのあと、一緒にいろんなところに旅に出よう』って」
「そっかぁ。じゃあお姉ちゃんも、ここから出られるね!」
「どうかしらねぇ」
「その人が迎えに来てくれるんでしょ?」
「そうね。もう少し、待ってみようかしら」
「私も、お姉ちゃんの本を探してあげるよ!」
「ありがとう。でもね、私の本はここにはないの」
「え?」
「この本の世界から、別の場所に“貸し出し”ちゃったの」
「じゃあ、お姉ちゃんは返してもらわないと出られないんだ」
「そうなの。だから、私はここで『待つ』しかできないの」
「じゃあ、私が見つけてくるよ!お姉ちゃんの本!どこにあるの?」
彼女は少しだけ目を伏せてから、ゆっくり微笑む。
「ありがとう。どこだろうね……。
でも、たぶん、凜ちゃんは知っていると思うの」
「私が?」
「ええ。あなたの本を見つけてくれた“誰か”が、その場所を教えてくれているから」
そう言って、本のお姉ちゃんは一冊の本を私に差し出した。
その表紙には――はっきりと、私の名前「二神凛」と書かれていた。
「この本にね、私のことも、あなたのことも、いくつか書かれていたの。
だから、私はあなたを待っていたのよ」
「じゃあ、お姉ちゃんも帰れるかもしれないね。
私が持って行ってあげる。そしたら、一緒にプルゴンに会いに行こう?約束だよ?」
私がそう言うと、本のお姉ちゃんは目に涙を浮かべて、少しの間、言葉を失った。
「……約束ね。私も、あなたを信じて待っているわ。
次に会うときは、とっても綺麗な素敵なお嬢さんになっているのかもしれないね」
それから、彼女は少し真剣な表情に変わる。
「その前にね、私からもあなたにプレゼントをしなきゃ」
「なに?」
本のお姉ちゃんは、私を優しく抱きしめた。
そして、私の胸と右足の付け根あたりに手をあてて、トントン、と二回ずつ叩く。
すると――。
鎖のような光が、私の胸と右足をぐるりと一周するように走った。
光の鎖がぎゅっと締まり、すぐに消える。
その瞬間、身体の内側から、あたたかさがぶわっと広がった。
「さぁ、その本を読んでごらん」
「これを読むの……?」
「そう...さあ読んでみて」
言われた通り、私は、自分の名前が書かれた本を開く。
一行目を読んだ瞬間、世界がぐらりと揺れた。
視界がぐん、と暗くなり、頭の中がぐるぐる回る。
眠くなるはずのない場所で、急に強烈な眠気が襲ってくる。
本を抱えたまま、私は前のめりに倒れた。
本のお姉ちゃんの腕が、私の身体をしっかりと受け止めてくれるのがわかる。
「待っているわ、二神凜」
遠くで、でもはっきりと彼女の声が聞こえた。
「この回廊の果てでね。
契りは、あなたに紡がれた。
幸せになるのよ。そして、私と“みんな”を救ってね。
ずっとここで待っているわ」
その言葉を最後に、私は完全に意識を手放した。
* * *
目を覚ましたとき、最初に飛び込んできたのは、白い天井だった。
窓から差し込む眩しい昼の光。
鼻をくすぐる消毒液の匂い。
シーツの感触、柔らかなマットレスの沈み込み。
私は、病院のベッドの上に寝ていた。
隣のテーブルには、果物の盛り合わせが置いてあった。
リンゴ、オレンジ、キウイがカットされてラップの下で少し乾きかけている。
その隣には、枯れかけた花束。花瓶の水は濁りかけていた。
右足の付け根と、胸の辺りが、じんわりと痛む。
恐る恐る布団をめくると、その場所には大きな傷跡が残っていた。
でも、足はちゃんとそこにあった。
胸も、ちゃんと呼吸をすると上下していた。
(……生きてる)
涙が、自然とこぼれた。
壁にかかったカレンダーに目をやる。
そこには「2199年9月」と書いてある。
私が死んだあの夏から、二年以上が過ぎていた。
視線を横に移すと、隣のベッドで、ちーちゃんが眠っていた。
静かに。
まるで、時間そのものから取り残されたみたいに。
※ ※ ※
彼女が目を覚ますことは、とうとうなかった。
その冬――彼女は、眠ったまま亡くなった。




