私が死んだ日
私は、四国の高知県四万十町で生まれた、ごくごく普通の女の子だった。
おじいちゃんとお父さんが二人三脚でやっている、小さな酒屋の一人娘。朝には酒瓶を並べるカランカランという音、夕方には店の前で世間話をする近所のおじさんたちの笑い声。店の奥には、古い木の棚とおじいちゃんの背中がいつもあって、それが私にとっての「世界」だった。
四万十川の匂い、田んぼを渡ってくる風、夏にはアスファルトからむわっと立ち上る熱気。あの土地全部が、まるごと私の大好きな「ふるさと」だった。
その「大好き」は、ある日、突然ひっくり返る。
――西暦二一九七年、夏休み。
世紀に残る大災害、四国南海巨大地震が起きた日。
そのとき、私はまだ九歳だった。
* * *
~13年前~
「ねぇ〜凜ちゃん、もう帰ろうよ〜」
友達のちーちゃんが、ふやけた指をぱたぱたさせながら、しがみつくように訴えてくる。
「も〜うちょっとだけ!」
私はそう答えながら、プールの水面をきゅっと睨みつける。
夏休みの間、私はほぼ毎日、水泳に通っていた。理由は単純で、そして子供らしい。
(あいつに、負けたくなかったからだ)
夏休み前、クラスの男の子に「お前、25メートルも泳げねーの?」と軽口を叩かれた。その子はもう覚えてもいないような、つまらない挑発。でも、私はずっと覚えていて、「見返してやる」という、どうしようもない意地が胸の奥で燃えていた。
学校のプール、市民プール、さらに今日は海水浴場にも寄ってから、また市民プール。朝の十時から泳ぎ続けて、もう十四時を回っている。鍛錬というより、執念だ。
泳ぎきったあと、私たちはいつもの「締め」として、高台にある公園へ向かった。そこには、よく一匹のプルゴンがいる。遊び仲間であり、マスコットであり、夏休みの特別な「友達」だ。
日焼けしたアスファルトの坂道を、汗だくになりながら上る。息が上がるたび、プールの塩素の匂いと、山から吹いてくる湿った風が入り混じって、胸の奥をざらりと撫でていく。
「はぁ〜……つかれたぁ……。凜ちゃん、ジュース買ってくる……」
「わかった〜!」
ちーちゃんが自販機に向かってよろよろ歩いていくのを横目に、私は手を横にピンと伸ばし、全速力で公園の中へ駆け込む。
「プールゴ〜ン!あそぼー!」
いつもプルゴンが座っている、高台のベンチ。そこからは、海と町がいっぺんに見下ろせる。今日は台風一過で、空はやけに澄んで、だけど海はまだ荒れていた。遠くの海岸線には白波が立ち、うねりがずっと途切れない。
風も強くて、ときどき突風が吹くたびに、私の長い髪がふわっと大きくなびいた。湿った熱風は、息苦しいほど熱くて、それでもどこか心地よかった。夏の匂いがした。
けれど、その日は、なにかが違っていた。
ベンチには、いつものプルゴンがいる。
ネズミ色の、二足歩行の小さな体。丸っこい手足。愛嬌のある顔。
だけど――。
「プルゴン?」
いつもなら私を見つけると、両手をぶんぶん振って駆け寄ってくるはずなのに、その日は動かない。海の方をじっと見つめたまま、
ガクガク、ガクガク――
身体を小刻みに震わせていた。
表情はいつもの、のほほんとした顔なのに。
瞳だけが、どこか遠くの、私には見えない何かを見つめているようだった。
「どーしたのー?」
私が声をかけると、ゆっくりこちらを向いて、一言だけ。
「こわーい」
「なにが怖いの?」
「わからなーい。こわーい」
プルゴンは、意味もなくその言葉だけを繰り返す。
私と遊ぼうともしないで、また海の方を見つめ、震え続けていた。
「凜ちゃーん、プルゴンいたー?」
ちーちゃんが、汗を拭きながら戻ってくる。
「いるけど、いつもとちがうの」
「そうなのー?なんで?」
「わかんないけど、こわがってる」
「なにに?」
「わからない」
互いに首をかしげあったあと、ちーちゃんがぽつりと言う。
「……かえろっか」
「え〜!来たばっかなのに〜?」
「だって、つまんないもん。なんか……イヤな感じする」
その一言に、私もなぜか逆らえなくて、二人で公園をあとにした。
* * *
長い階段と坂道をおりていく。途中で何度も寄り道をして、四万十川の河原にも降りて、水切りをしたり、石を拾ったり。
帰りたいわけじゃなかった。ただ、帰らないわけにもいかない。そんな、子供なりの「名残惜しさ」と「現実」のせめぎ合いの中を、私たちはふらふら歩いていた。
空は、いつの間にか、不思議な青紫に染まり始めていた。
台風のあと特有の、少し不気味なほど美しい夕暮れ。
「きれーだねー」
「めっちゃきれーい」
ゆるやかな坂道を降りながら、私たちは海を見下ろす。
そのとき――。
コト、コト。
足元の小石が、小さく跳ねた。
続けて、地面が、上下左右に微かに揺れる。
すぐに収まって、また、コト、コト――。
「……なにこれ。地震かなー?」
「こわい……。早く帰ろ……」
「うん」
少しだけ歩調を早める。
その「少し」が終わる前に。
ドドドドド―――ッ!
世界が、急に本気を出したみたいに、大きく揺れ始めた。
道路が波打ち、電柱がわずかにしなり、遠くの家の屋根がギシギシ鳴る。
体感的には、震度6強か7くらい。子供の足では、立っているだけで精一杯だった。
私たちはとっさに、ガードレール沿いに移動し、
白い鉄の柵にしがみつきながら、揺れがおさまるのを待った。
揺れは二、三十秒ほど続き、ようやく収まったときには、反対側の山肌がざらりと崩れ、軽い土砂崩れが起きていた。
さっきまで普通に通っていた道が、片側通行どころか、完全に塞がれている。
「急いで帰らなきゃ! ちーちゃん、はしろう!」
「こわいよ〜!」
泣きながら、それでもちーちゃんは私と一緒に坂を駆け下りる。
そのとき、不気味な電子音が、あちこちの拡声器から一斉に鳴り響いた。
『直ちに走って高台へ避難してください。繰り返します――』
津波警報。
学校で何度も聞かされた「訓練」の言葉が、現実として降ってくる。
「高いところに逃げてって……」
頭ではわかっている。
高台へ。とにかく高いところへ。
でも――。
「でも、じーちゃんと、とーちゃんが!」
九歳の私には、「命を守るための正解」よりも、「家族が心配」「一人がイヤ」という感情の方が、圧倒的に強かった。
私は、迷った末に、家のある方角へ走り出す。
ちーちゃんも、それに合わせてついてくる。
さっきまでは綺麗だと感じた青紫の空も、今は不吉な色にしか見えない。その空が、町全体を、じわじわと不安の色で染めていく。
坂の途中から下の街を見ると、遠くで火が上がっていた。
煙がゆらゆら、建物の間から立ち上る。
どこかで家が崩れ、どこかで道路が割れているのが見えた。
幸い、私たちの住む一角はまだ大きな崩壊はないように見えた。
私たちは、坂道から塀に続く細い階段へと抜けて、下町に降りようとする。
そのときだった。
二度目の揺れが来た。
さっきとは比べ物にならない、底の深い揺れ。
縦にも横にも、地面そのものが踊り狂っているみたいだった。
山の上から、砂ではなく「山そのもの」が滑り落ちてくる。
さっきまで私たちが走っていた坂道ごと、高台が雪崩のように崩れ、轟音とともにこちらへ迫ってくる。
車も、ガードレールも、電柱も、家も。
全部まとめて、茶色い波に飲み込まれて鉄くずになり、巨大な岩と一緒になって転がり落ちてくる。
私たちが下っていた階段の頭上には、すでに、山から落ちてきた岩石がいくつも見えていた。
顔を上げた瞬間、その「巨体」が、目の前に迫っていた。
(――あ)
時間が、ゆっくりになった。
音が遠くなる。
喉がひりつくのに、声が出ない。
その瞬間、突風みたいな勢いで、私たちの身体が後ろへ引きはがされた。
服の襟を、左右から小さな手が掴んでいる。
あの、見慣れた灰色の手。
「――!」
プルゴンだった。
さっきまで高台のベンチにいた、あのプルゴンが、私とちーちゃんを片手ずつで掴み、階段の脇から飛び降りる。
信じられない速度で、瓦礫の上、建物の屋根、停まっている車のボンネットを、次々と踏み台にして跳躍していく。
土砂の流れを避けるように、何度も方向を変えながら、私たちを安全な場所へと運ぶ。
何が起こっているのか、頭ではまったく整理できない。
でも、ただ一つだけわかる。
(助けようとしてくれている)
数秒後、私たちは、とある建設会社の広い敷地の真ん中あたりに降ろされた。
重機やクレーン車が並んでいて、あたりはまだ比較的ひらけている。
ここが「安全」だと言い切ることはできない。でも、さっきまでの土砂の直撃を考えれば、まだましな場所だった。
「けがしてなーい? だいじょーびー?」
プルゴンが、息一つ乱さず、いつもの調子で問いかけてくる。
表情は、相変わらずのぽかんとした顔。ただ、体の震えだけがまだ止まっていない。
「プルゴーン!」
私も、ちーちゃんも、半分パニックのまま、その小さな身体にしがみついた。
さっきまで冷たくなりかけていた手足が、プルゴンの体温に触れて、どっと熱くなる。
そして――。
泣いた。
子供らしく、どうしようもないほど声をあげて。
プルゴンは何も言わず、ただじっと抱きつかれながら、海の方角を見つめ続けている。
私も、その視線を追って、顔を上げた。
その瞬間、世界が変わった。
海が――立っていた。
遥か遠く、水平線の向こう側から、あり得ない高さの壁が迫ってきていた。
まだ距離はあるはずなのに、もう目線と同じ高さまで盛り上がっている。
黒く濁った水が、うねりながら空を削り取っていく。
あとで知ったことだけれど、この震災はマグニチュード9.9を記録していた。
観測史上最大級の地震。
そして、押し寄せる津波の高さは推定100メートルを超えていたという。
人類の歴史上、最悪・最大の津波。
けれど、そのときの私には、数字なんてどうでもよかった。
(あ、もう……ダメなんだ)
九歳の私でも、その光景を見た瞬間に悟ってしまった。
「逃げる」という選択肢が、すべて意味を失っていく。
足から力が抜けて、膝が勝手に折れる。
「たすけないとー、みんなを守らないとー」
そのとき、プルゴンが小さな声でそうつぶやいた。
ふらりと、私たちから離れて立ち上がる。
小さな背中が、一度だけ震え、そして――津波の方へ走り出した。
私たちには、その背中を見ることしかできなかった。
波はさらに大きくなり、完全に頭上を越え、空を奪い去る。
町全体に巨大な黒い影が落ち、昼間なのに夜になったみたいに暗くなる。
大地はうねり、遠くで建物が崩れる音が連続して響く。
それにかぶさるようにして、また強い揺れが始まる。
建設会社の敷地の奥には、巨大なクレーン車やショベルカーが並んでいた。
揺れに合わせて、クレーンの長いアームがぎしぎしとしなり、ワイヤーが大きく左右に振れる。
次の瞬間、建設会社の裏手の斜面が、丸ごと崩れ落ちてきた。
土砂が建物の壁を押しつぶし、その反動で重機たちがよろめき、傾き、倒れ始める。
そのうちの一台――巨大なクレーン車の鉄骨が、ゆっくりと、けれど確実に、こちら側へ倒れてくる。
倒れてくる先は、ちーちゃんの頭上。
「――!」
考えるより先に、身体が動いた。
私はちーちゃんに飛び込んで、その身体を押し倒す。
金属が軋む轟音。
空気が押しつぶされるみたいな風圧。
次の瞬間には、私は地面にうつ伏せに倒れていた。
すぐに、足元に異様な違和感を覚えた。
痛みというより、「そこにあるはずのものがない」という恐怖。
ゆっくりと視線を足元へ落とす。
そこにあるべき右足は、太ももの付け根あたりから先が――なくなっていた。
「あ、ああああああ――」
声にならない叫びが、喉の奥から漏れる。
焼けつくような痛みが、足だけじゃなく全身を駆け巡る。
意識が白く飛びかけた、そのとき。
「り、凜ちゃん……」
少し離れた場所で、ちーちゃんが、ふらふらしながら立ち上がっていた。
彼女の視線が、私の足元に落ちる。
そして、顔色が一瞬で真っ白になる。
「いやだ……いやだよ……!」
涙をぼろぼろこぼしながら、私のところへよろよろ近づいてくる。
(来るな――)
私は必死に、声にならない声で叫ぶ。
口から漏れるのは「うー……う゛うー……」という濁った音だけ。
そのとき、ちーちゃんの表情がふっと変わった。
本能的な危機感に突き動かされたみたいに、彼女は右側を振り向く。
そこには、さらに巨大な岩石が、まるで落ちてきた星のような勢いで迫ってきていた。
轟音とともに、岩がちーちゃんのすぐ横に落ちる。
視界が赤と茶色に弾け飛ぶ。
ちーちゃんの上半身が、私の視界から消えた。
かわりに、彼女の下半身だけが、私の目の前にドサリと横たわる。
あたたかいものが、シャワーみたいに私の顔に降りかかった。
それは不思議なくらい、やさしい温度だった。
まるで、血そのものが私を抱きしめてくれているみたいに。
さらに、倒れてきたクレーンのワイヤーが、土砂と一緒に引っ張られ、私の背中側に食い込んでくる。
重機の重みと土砂の力がワイヤーを引き絞り、鉄の縄が私の身体を締めつける。
背骨のあたりで、なにかが「ブツッ」と嫌な音を立てる感覚。
次の瞬間には、身体の上半分と下半分が、別々の方向に引きちぎられていた。
驚くほどあっさりと。
あっけないほど簡単に。
横隔膜がひきちぎられ、肺が空気を吸うことをやめる。
心臓だけが、まだ必死に血を送り出そうとしているのがわかる。
全身から血が流れ出ていくたび、身体の芯が焼けるように熱くなって、すぐに冷えていく。
痛みは、とっくに限界を超えていた。
「痛い」という言葉では追いつかないなにか。
それを通り越して、感覚そのものが徐々に薄れていく。
(あ……これ、死ぬんだ)
不思議なくらい、冷静な実感が胸に浮かんだ。
目の前の光景は、地獄そのものなのに。
「たすけて――」
最後にそう言おうとした。
自分では叫んだつもりだったけれど、声になっていたのかどうかすらわからない。
視界が暗くなっていく。
音が遠のく。
自分の体温が、自分の外に出ていくような感覚だけが、ぼんやりと残った。
そのとき。
「必ず君を助けるから」
誰かの声が、遠くで、確かに聞こえた気がした。
そして私は、完全に、死んだ。
自分はお風呂場でボイパしながら洗顔してて、きめ細かい泡が気管支に入り死にかけた




