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第4話 「平穏」

「ハミルさん、ここ、違いますよ」

「あ、あぁ...」


 やんわりと、しかし有無を言わせない圧力を感じる。

 アローテ家に保護されて数ヶ月。ハミルはエイミィから、読み書きを教わっていた。否、読み書きだけではない。言葉遣い、礼儀作法、道徳といった様々なことを、彼女は教えていた。


「そこは「はい」ですよ」

「は、はい...」


 万の兵を前にして、一切臆することのなかった「紅《あか》の剣鬼」が、貴族の娘を前に何も言い返せない。かつての彼を知っている者が見たら、にわかには信じられない光景だろう。


 エイミィに保護されて数日、身体も癒えたハミルは、すぐにこの家から去るつもりであった。しかし、ハミルが傭兵であることを知ったエイミィが、彼を護衛として雇うことを提案したのだ。

 戦争が終わった今こそ、治安は悪化するもの。貴族が私兵を護衛につけるのは至極当然だった。


「私《わたくし》、ハミルさんになら安心して守っていただけると思うんです」


 出会ってわずか数日、自分の何を知っているのか。なぜそこまで、自分のことを信用できるのか。ハミルには全く理解できなかった。しかし、行くあてがないのも、また事実。師のもとへ帰るという選択肢は、最初からなかった。

 少なくとも、この家にいれば衣食住に困ることはない。しばらく厄介になりつつ、自らの《《本来の居場所》》を探す。ハミルはそう考えた。


 しかし、それからというもの、ハミルはエイミィからの「教育」を受けることになってしまった。

 エイミィから生きるために必要なことだと説かれ、何故か逆らうこともできなかった。


「あ、また持ち方、間違えてますよ」

「む...」


 ペンを持つ手に、そっと彼女の手が添えられる。伝わる温もりに、戸惑いを覚えるのはなぜか、ハミルにはまだ分からない。


 家の中には、ハミルに警戒の眼差しを向ける者も少なくなかった。しかしエイミィの父、つまりアローテ家の現当主であるグレン卿は、一人娘の判断を全面的に信頼していた。それは単なる親バカではなく、彼女の人を見る目を信じていたからだ。

 そのため、教育が始まってひと月が経った頃には、ハミルのことを疑う者はほぼいなくなっていた。毎日の教育の中で、彼がエイミィ相手に頭が上がらない様子を見ていれば、不安に思うこともなくなる。


「エイミィ...さん、ここは、こう...ですか?」

「はい、正解です。ハミルさん、ちゃんと覚えてるじゃないですか」


 エイミィが、まるで我がことのように喜び、笑顔を浮かべた。初めて会った時にも見た、安らぎを与える笑顔。


「...ふふっ」


 無意識に、ハミルは口元が緩んでいた。

 エイミィは、信じられないものでも見たかのように、目を大きく見開いた。


「ハミルさん、今...笑いました?」

「む...?」


 その言葉に、ハミルは自分が今何をしたのか、すぐには理解できなかった。ただ、彼女の笑顔を見ていたら、自然と息が漏れた。


 笑う。戦時中、自らの戦功を自慢して声高に笑う者はいた。ハミルにしてみれば、敵の命を奪うのは当然のこと。だから、それを主張することに意味は見いだせなかったが。

 笑うという行為そのものが理解できなかった彼が、生まれて初めて笑った。そのことが、どれほど大きなことか。ハミル本人以上に、エイミィが喜んでいる。


「初めて、笑ってくれましたね」


 先ほど以上に、柔らかく眩しい笑顔。

 いつしかハミルは、もっとその笑顔を見ていたい、そう思うようになっていた。



 それから、さらに半年ほどが経った。

 窓から穏やかな日が差し込める室内。そこでハミルは、1冊の本を読んでいた。

 勇敢な戦士が、人々を苦しめる悪い王を倒すという、ありきたりな英雄譚。しかし彼にとっては、そんな陳腐な物語でさえ、新鮮だと感じられた。


「ハミルさん」


 背後から声が掛かる。美しい黒髪を揺らしながら、エイミィが近づいてきた。


「何を読んでるんです?」

「書庫にあった本を、適当に持ってきたんですよ」


 ごく自然な笑顔を浮かべ、ハミルは手にしていた本の表紙をエイミィに見せた。


「あ、これ、私《わたくし》も昔よく読んでいましたよ」


 懐かしいと言いながら、エイミィが本の表紙を指でなぞった。

 その横顔を見つめ、ハミルは胸が熱くなる。この感覚はいったい何なのか、彼にはまだ理解できない。

 同時に、彼女に悟られないほどに小さく、ハミルの顔に影が差す。


 この1年足らずで、本当に数々のことを彼女から教わった。ハミルの世界は、傭兵だった頃と比べて何倍、何十倍にも広がっていた。

 彼女は「人」というものを教えてくれたのだ。

 感謝、という言葉をいくつ並べても足りないくらいの恩義を、ハミルは感じていた。

 しかし、「人」というものを知るほどに、自分の過去の闇が、いかに深かったかも思い知らされた。


 何の感情もなく、相手の命を奪う。それが如何に愚かで、異常で、狂っていたか。

 毎日、感覚だけは忘れないようにと、剣の修練は怠っていなかった。しかし、最近はそれに虚しささえ感じるようになっていた。


 本当に、自分は「剣」しか知らなかったのだと。


「ハミルさん、どうかしましたか?」

「...何でもないですよ」


 ハミルの様子に違和感を覚えるエイミィ。しかし、彼は自らの心の内を悟らせない。

 美しい「人」の世界にいるエイミィ。対して、自分は血塗られた「剣」の世界の住人。彼女のそばに、そんな自分がいて良いはずがない。

 いつしかハミルは、エイミィのもとを去るべきだと考えるようになっていた。


 程なくして、「その時」は訪れた──。

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