第3話 「令嬢」
彼女と出会った日の雨の冷たさは、今でも鮮明に覚えている。
長きに渡って続いた、帝国による侵略戦争。それがついに集結し、人々はようやく訪れた平和に喜んでいた。
街では毎日のように、終戦を祝う祭りが催され、それまでの鬱屈した想いを晴らそうと、誰もが飲めや歌えやと盛り上がっていた。
連日晴天が続いたが、その日だけは生憎の雨だった。
ハミルは賑わいを見せる通りから離れ、人気のない裏道を1人歩いていた。
長い銀髪は千々に乱れ、元より感情の薄かった瞳には、生気がない。雨に長く打たれ、ずぶ濡れになったその姿は、やせ細った狼のようだ。
戦争が終わり、平和になった。しかし、剣しか知らぬ自分に、人々と共に喜ぶことはできなかった。ハミルは行くあてもなく、ただ人気を避けて街から街へ、目的もなく彷徨っていた。
路銀などとうになく、最後に食事をしたのも、果たしていつだったか。
とうとう、ハミルは力尽き、その身を地面に重ねるように倒れてしまった。
戦いは終わり、倒すべき敵はなく、剣を振る意味も失った。
もう、彼には何も残っていなかった。
「...ですか?」
ふと声が聞こえ、ハミルは閉じていた目をうっすらと開けた。
「大丈夫ですか!? すぐに人を呼びますね!」
女性の声だ。その時のハミルにはそれしか分からなかった。ただ不思議と耳に残る、美しく澄んだ優しい声であった。
「そこの方!人が倒れています!手を貸していただけませんか!?」
なぜそんな必死な声を上げているのか。そんな疑問を頭に浮かべながら、ハミルの意識は闇に沈んでいった。
目を覚ますと、見知らぬ天井が見えた。
反射的に身体を起こそうとして、頭に鈍く強い痛みが走る。全身が鉛のように重い。
痛みに顔をしかめながら、ハミルは周囲に視線を走らせた。
どこかの屋敷の一室だろうか。質素ながら、装飾が施された壁が見える。
時刻は夜か。部屋の隅にある燭台の灯りが、室内全体を朧気に照らしていた。
そこでハミルはようやく、自分が今まで見たこともないくらい大きなベッドに寝かされていたことに気づいた。
あまりに場違い。ハミルは眉をしかめた。なぜ自分がこんな場所で寝ているのか、理解できなかった。
「良かった、目が覚めたのですね」
ビクッ!
ハミルの身体が跳ねる。
よく見れば、ベッドのすぐ脇の椅子に、人が座っている。こんなに近くにいたのに、気がつけなかった自分にも驚いた。
警戒した目を、声の主に向ける。
艶やか、という言葉がよく似合う、長い長い黒髪が目に入った。
自分より少し年下に見える。その髪と同じような、黒のドレスに身を包んだ女性が、そこにいた。彼女は眉尻を下げ、小さく微笑みを向けてきた。
「貴方は道に倒れていたのですよ」
耳を抜けていく、透き通った声。なるほど、意識を失う前に聞いたのは、彼女の声だったか。どうやら、自分は彼女に助けられたらしいと、ハミルは察した。
「...なぜ?」
「え?」
ただ一言だけ発せられたその言葉の意味を分かりかね、女性は少し間の抜けた声を上げる。そんな言葉が来るとは、全く予想していなかったから。
「なぜ...自分を、助けた?」
あまり人と話したこともない。ハミルは言葉をゆっくりと選んでいた。
しかし、その疑問は彼女の目を丸くさせるばかりだった。
「なぜって...人が倒れていたら、助けるのが当然ではありませんか?」
今度はハミルの目に疑問の色がつく。この女性とは初対面で、お互い何も知らない。剣を振るしかできない流れ者を助ける必要など、どこにあるというのか。
ハミルの困惑をよそに、女性は少しハッとして、ゆっくり掛けていた椅子から立ち上がった。
「申し遅れました、私はエイミィと申します。この、アローテ家の娘です」
豊かな黒髪を揺らしながら、その女性──エイミィは笑顔を浮かべた。どこか、人を安心させるような、そんな笑顔だった。
なぜか、ハミルはその笑顔から目を離すことができなかった。




