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第52話「少し........いや、かなり昔の話を始めるとしようか」

 男の指先がセレフィーナの首筋へ触れた瞬間、世界から音が消えた。


 正確には、音は存在していたはずだった。鏡の大地が軋む音も、頭上で揺れ続ける無数の門が空気を震わせる音も、確かにそこにあったはずだ。

 

 だが俺の耳には何も届いていなかった。


 心臓の鼓動すら遠く、呼吸の感覚すら曖昧で、ただ一つだけ鮮明に認識できたのは、男の手に捕らえられたセレフィーナの姿と、その紅い瞳に浮かんだ微かな動揺だけだった。


 それを見た瞬間、頭の奥で何かが断ち切れる音がした。


 理性だったのかもしれない。


 冷静さだったのかもしれない。


 あるいは、自分でも気づかないまま張り続けていた最後の歯止めだったのかもしれない。


 とにかくその瞬間、俺の身体は考えるより先に動き出していた。


 鏡の大地を砕きながら地面を蹴ると、足元に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、その反動だけで数百メートルの距離を一瞬で消し飛ばす。


 視界には男しか映っていなかった。

 

 セレフィーナしか見えていなかった。


 どれほど危険だろうと関係なかった。たとえ、これが自分を誘い出すための誘導や罠だろうと関係なかった。


 ただあの手を離させる、それだけしか考えていなかった。


 「その手を離せぇぇぇぇぇッ!!」


 咆哮と共に剣を振り抜く。死神紋章が限界まで解放され、黒銀色の魔力が嵐のように吹き荒れた。


 空間が裂け、鏡の大地が割れ、俺自身ですら制御し切れないほどの力が剣へ収束して、巨大な斬撃となって男へ襲い掛かる。


 だが――男は避けなかった。


 防ごうともしなかった。ただ、少しだけ視線をこちらへ向けただけ..........


 されど、その瞬間に世界が止まった。


 いや、止まったように感じた。


 斬撃は男へ届く直前で静止し、吹き荒れていた魔力の奔流さえも空中で凍り付いたかのように動きを失っている。


 ーーーあり得ない


 そんな言葉すら俺の頭には浮かばなかった。理解の外側にあったからだ。


 男はただ静かに俺を見つめている。暴れる子供を見守る大人のように、穏やかに、そして少しだけ悲しそうな顔をして.........


 「やはり、そうなるか」


 怒りも嘲笑もない声だった。何度も同じ光景を見てきた者だけが持つ、静かな諦めの色が滲んでいる。


 その刹那、男が軽く指を鳴らした。


 本当に、それだけだった。


 だが俺の身体は砲弾のように吹き飛ぶ。自分の身に何が起きたのかすら分からなかった。攻撃された感覚すらなかったのだ。


 気づいた時には視界が反転し、銀色の鏡面を何度も跳ねながら数百メートル先まで叩きつけられていた。


 全身に激痛が走りだし、肋骨が何本か折れた感触が染み渡る。腕は痺れて思うように動かない.........


 だがそれ以上に恐ろしかったのは、男が何もしていないように見えたことだった。


 「レイン.........!!!」


 セレフィーナの悲鳴が遠くで聞こえる。俺は血を吐きながら立ち上がった。立ち上がらなければならなかった。ここで倒れるわけにはいかないのだ。

 

 ーーーようやく見つけたんだ


 ようやく守りたいと思える相手ができたんだ。失いたくない、絶対に——


 そんな感情だけで半ば壊れかけた身体を動かしていると、不意に横を銀色の閃光が駆け抜けた。


 クロードだった。


 王国最強の騎士。竜種を単独討伐した英雄。その男が全力で剣を振るっていた。空間そのものを切断するような神速の一撃が、常人なら視認すら不可能な速度で男の首元へと到達する。


 だがそれでも届かない。


 「っ.......!? 冗談もここまで来ると怖いものだな」


 男の周囲で空間が僅かに歪んだ、ただそれだけで、クロードの剣は届くことなく弾き飛ばされた。


 いや、弾かれたのは剣だけではなかった。クロード本人が轟音と共に吹き飛ばされ、数百メートル先の巨大な門へ激突する。


 門が崩れ、星々が砕け散るほどの衝撃がクロード自身の全身を支配する。


 それでもクロードは立ち上がった。


 口元から血を流しながら、折れた剣を握り締めながら、それでもなお男を睨み続けている。


 その姿を見た瞬間、俺は理解してしまった。


 勝てない。


 今のままでは絶対に。実力差という言葉で表現することすら馬鹿らしいほど、男は俺たちとは別の次元に存在していた。


 それでも男は戦おうとしていない、本気を出していない、殺そうともしていない——


 だからこそ恐ろしかった。もし本当に敵意を向けられたのなら、自分たちは一体何秒ほど持つのだろうか。


 そんな考えが脳裏を掠めた時、男が小さく溜息を吐いた。


 「……懐かしいな」


 その言葉に俺は眉をひそめた。


 男はセレフィーナを捕らえたまま、ゆっくりとこちらへ視線を向ける。銀色の瞳が細められる。


 その視線には、敵を見る色がなかった。遠い昔の友人を見るような、あるいは何度も別れを繰り返してきた相手を見るような、言葉にできない複雑な感情が滲んでいた。


 「お前はいつもそうだった..........」


 静かな声だったが、その一言だけで空気が変わった。


 「失うことを恐れながら、それでも手を伸ばし続けた」


 男が続ける。


 頭上の巨大な門が共鳴するように震え始め、鏡の大地の亀裂から銀色の光が噴き上がった。


 冥境の門印が激しく脈打つ。


 熱い...........今までで一番熱い。まるで何かを思い出せと叫んでいるかのように、紋章が主張し続けている。


 「何度傷付こうと........何度絶望しようと.......」


 男はそこで一度言葉を切った。


 その瞳の奥へ、初めて感情が宿る。


 哀れみでも憎しみでもない、もっと深い何か


 ——長い長い時間を生きた者だけが抱えることのできる後悔の色が、その銀色の奥に静かに揺れていた。


 「そして何度も――俺の前で敗れたよな」


 その瞬間だった。


 頭の奥で何かが弾る。


 視界が揺れ、頭が痛くなるほどの耳鳴りが留まることを知らずに響く。


 冥境の門印が今までにないほど激しく脈動し、全身の血液が逆流するような感覚が一気に駆け抜けていく。


 見たこともないはずの景色が網膜へ焼き付いてくる。知らないはずの空、崩壊する世界、燃え落ちる門、銀髪の少女、そして血だらけになりながら、それでも剣を離さない自分自身の姿.......


 断片だった何かが、巨大な流れとなって意識の奥底から溢れ出そうとしていた。


 「お前は――」と俺は言いかけてから、言葉がなかなか続かないことに気がつく。それでも俺は目の前にいる男に問い掛けなければいけない。


 その執着心だけで、何とか口を開いて、言葉を紡ぐ。


 「お前は、俺のことを知っているのか.......?」


 男は答えなかった。


 ただ、どこか寂しそうに微笑んだ。


 その笑い方を、俺は知っていた気がした。記憶にはない、名前も知らない、だがこの笑い方を、かつて何度も見たことがあると、魂の深い場所が告げていた。


 「ようやく、その時が来たらしいな」


 男が静かに言う。


 「何を――」


 「お前は見ているだけでいいんだ」


 それだけだった。


 次の瞬間、男の瞳が銀色から深い深い闇色へと変わった。頭上で残っていた最後の門が開き、中から光ではなく、無数の記憶の奔流が溢れ出してくる。


 それは俺の記憶ではなかった。


 ーーー男の記憶


 崩壊する前の世界、燃え尽きる前の門、そしてあの日、この男が何を見て、何を選んだのか


 ——その全てが、光の奔流となって俺へ流れ込もうとしていた。


 「お前が何者なのかを.........」と男は続ける。「俺が何者なのかを、そして俺たちの間に、何があったのかを.........」


 男の姿が光へ溶け始める。


 「思い出すんだよ、レイン。少し........いや、かなり昔の話を始めるとしようか」


 それが聞こえた最後だった。


 俺の視界は眩い光に呑み込まれ——世界が、白くなった。

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