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第51話「《境界回廊アーカディア》」

 王国軍の怒号が、少しずつ背後へ遠ざかっていく。


 リリアーナたちが死力を尽くして押さえ込んでいる魔物の咆哮も、爆発する魔法の閃光も、遺跡の奥深くへ踏み込むにつれて薄れていき——


 やがて俺の耳に届くのは、石畳を叩く自分たちの足音だけになった。


 荒れ果てた石造りの通路はどこまでも続いており、天井に刻まれた古代文字が青白い光を放ちながら壁面を伝っている。


 その光が揺れるたびに、何千年も前の誰かがこちらを覗き込んでいるような、奇妙な感覚が胸の奥を掠めていった。


「妙ですね」


セレフィーナが前を向いたまま、小さく呟く。


彼女も何かを感じ取っているらしかった。


 「何がだ?」と問い返すと、彼女はわずかに眉を寄せた。「遺跡が静かすぎます」


 ——その言葉で、ようやく俺も気づく。


 確かに、そうだ。


 封印が崩れかけている遺跡であれば、もっと不安定なはずだった。


 魔力の暴走、崩落、それとも魔物か..........


 いずれにせよ、何かが起きていておかしくない。


 それなのにこの場所は、まるで誰かが丁寧に整えたかのような、不自然なほど穏やかな沈黙に包まれている。


 ——まるで、俺たちを招き入れているみたいに。


 その考えが脳裏をよぎった瞬間だった。


「止まれ」


 前方で足を止めていたクロードが、低い声でそう告げながら剣の柄へ手を掛ける。その目が、通路の先で何かを捉えていた。


 次の瞬間、遺跡全体が震えだす。


 轟音ではない.........それは、鐘の音に近かった。世界そのものが鳴っているかのような重低音が足元から這い上がり、床に刻まれた無数の紋様が一斉に発光し始める。


 俺は反射的に魔力を練り上げようとした。だが遅かった——

 

 視界が白く塗り潰され、身体が浮き上がり、上下左右の感覚が失われたまま、俺たちの意識は光の奔流に呑み込まれていった。


ーーー


 気づいたとき、俺たちは空の上に立っていた。


 いや、違う..........空ではない。世界そのものがおかしかった。


頭上には満天の夜空が広がっているが、その夜空には無数の巨大な門が浮かんでいた。


 山ほどの高さを持つ門。海ほどの幅を持つ門。それらすべてが、ゆっくりと回転しながら星々の間を漂っている。


 下を見れば大地も存在していたが、普通の大地ではなかった——


 果てしなく続く、銀色の鏡面。


 その鏡に映るのは、現在ではない。


 幼い頃の俺が走っている、死神紋章を刻まれた瞬間の痛みが映し出されている、婚約を破棄された日、セレフィーナと出会った日、無数の記憶が大地へ溢れ出すように広がっていた。


「なんだよ……ここ……」


 思わず息を呑む。セレフィーナも言葉を失い、歴戦のクロードですら警戒を隠せずにいた。


 そんな沈黙を裂くように、拍手が響く。


 ゆっくりと、楽しそうに——まるで待ちわびた劇の幕が上がったことを喜ぶ観客のように..........


「歓迎しよう」


 声と同時に、空間が揺れた。星々が軋む。そして、頭上に浮かぶ巨大な門の一つへ腰掛けるようにして、あの男が現れた。


 黒い外套が夜空へ溶け込んでいて、銀色の瞳だけが異様な存在感を放っている。


「ここは《境界回廊アーカディア》——過去と未来、その狭間に存在する世界だ」


 男が微笑む。


「あなたの仕業ですか」とセレフィーナが剣を抜きながら問い詰めると、男は軽く首を振った。



 「半分正解だ。ただ、正確には.........お前たち自身がここへ来たんだよ」


意味が分からない。だが男は説明する気もないらしく、ただゆっくりと立ち上がった。


 「まあ、わからなくてもいいさ。俺も原理などを聞かれると答えあぐねるからな」


 ——男がそう言った瞬間、世界が震えた。


 頭上に浮かぶ巨大な門が一斉に開き、中から溢れ出したのは闇ではなかった。


 ーーー無数の剣


 数万、いや数十万——星空そのものが刃へと変わったかのような光景が、俺の視界を埋め尽くしていく。


「来るぞ!」とクロードが叫んだ時にはすでに、剣の雨が降り注いでいた。


 それはもはや戦闘ではなく、災害だった。


 一本一本が竜種を貫けるほどの魔力を纏いながら、大気を裂いて落下してくる。俺は即座に死神紋章を解放し、右手を夜空へ向けて突き上げた。


「《終焉回帰門・アストラルゲート》」


 巨大な門が展開され、そこから伸びた漆黒の鎖が空を覆い、落下する剣を次々と絡め取っていく。


 一本、十本、百本、千本——だが足りない。絶対的に数が違いすぎる。


「レイン!」


セレフィーナの声が響き、彼女の周囲へ紅蓮の魔法陣が爆発的に展開された。


 数百もの陣が重なり合い、互いを補強し合いながら輝いている。


 王女としてではなく、天才魔導士、学園での最優秀者としての本気の構えだった。


「《紅蓮聖域》!」


 爆発的な炎が夜空を埋め尽くし、降り注ぐ剣を燃やし尽くしていく。それでも終わらない........


 まるで宇宙そのものが敵意を向けているかのように、剣の雨は降り続けた。


「ちっ……!」とクロードが舌打ちし、一歩で数百メートルを駆け上がると、銀色の閃光が夜空を真っ二つに裂く。数千本の剣がまとめて吹き飛んだ。


それでも、男は笑っていた。


「まだまだだ........もっと楽しんでくれたまえ」


 その言葉と同時に、鏡の大地が割れた。


 そして——中から影が溢れ出してくる。


 いや..........人だ。


 しかも、驚くべきことに全員が“俺”なのだ。


 幼い俺、学生時代の俺、傷だらけの俺、死んだような目をした俺


 ——無数の俺が剣を抜いて立っている。


「……冗談だろ」


 本気で鳥肌が立った。


「可能性だよ」と男は楽しそうに言い、銀色の瞳を細めた。「お前が選ばなかった人生だ」


 次の瞬間、数千人のレインが一斉に襲い掛かってくる。


 地獄だった。


 どの攻撃も知っている。どの動きも読める。なぜなら、全部自分だから。

 

 だがだからこそ、避けられない。未来の可能性、過去の選択肢——存在しなかったはずの自分たちが、容赦なく俺の急所を突いてくる。


 剣が肩を裂き、脇腹が抉られ、血が飛ぶ、それでも戦う..........それでも進む。


 だが、その時だった。


「レイン!!」


 セレフィーナの悲鳴が、夜空に突き刺さった。


 振り返った瞬間——息が、止まる。


 男がいつの間にか、セレフィーナの背後に立っていた。誰も気づけなかった。


 クロードですら.......俺ですら..........


 男は優しく微笑んでいた。まるで昔から知っている誰かを見るように——懐かしそうに、寂しそうに。


 そしてゆっくりと、セレフィーナの首筋へ指先を添えた。


「ようやく見つけた」


 その一言で、俺の全身から血の気が引いた。


 男の瞳に敵意はない。殺意もない。


 だがそれ以上に危険な何かが宿っていた。静かで、深く、揺らぎのない確信のようなものが


 ——見ているだけで魂を圧迫してくる。


「返してもらうぞ」


男の声が響いた瞬間、世界が静まり返った。


鏡の大地の亀裂が広がり、銀色の光が天へ向かって噴き上がる。その光の中心で、セレフィーナの身体が淡い銀光へ包まれ始める


 彼女は抵抗しようとしていた。剣を握り直そうとしていた。だが指先すら動かせないのか、彼女の身体は微動だにしない。


 その光景を見た瞬間、俺はすべてを理解した。

  

 鍵、最後の鍵、セレフィーナ、この遺跡に導かれた理由も、封印が崩れ始めた理由も、男がここへ現れた理由も..........

 

 ——全ては最初から、彼女のためだったのだと。


 だが、そう気づいた時にはすでに男の手は、セレフィーナを完全に捕らえていた。

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