第46話「運命の軋む刻」
男が姿を現した瞬間、王城地下会議室に集まっていた全員が本能的に理解した。
目の前にいる存在は、これまで自分たちが相手にしてきたどの強敵とも違う。
それは単純な強さの問題ではなかった。
剣の技量が優れているとか、膨大な魔力を持っているとか、そういった尺度で測れる領域の話ではなく、その男はまるで最初から世界の外側に立っている存在が、ほんの気まぐれでこちら側へ足を踏み入れてきたかのような、言葉にしがたい異質さを纏っていたのである。
実際、男は何もしていない。
威圧を放ったわけでもなければ、魔力を解放したわけでもない。
それなのに、部屋の空気は重く沈み込み、先ほどまで議論を交わしていた騎士団幹部や宮廷魔導師たちは誰一人として声を発することができなくなっていた。
静寂が落ちる。
しかし、それは落ち着いた静けさではなく、巨大な嵐が訪れる直前にだけ生まれる不気味な無音だった。
そんな中で最初に動いたのはクロードだ。
王国最強と謳われる騎士団総長は迷いなく剣を抜き、その切っ先を男へ向けながら一歩前へ出る。
ただ、その動作は普段のクロードを知る者からすれば異様なほど慎重だった。
まるで少しでも隙を見せれば、その瞬間に命を奪われると理解しているかのように.......
「名を名乗れ」
低く響く声には怒気ではなく警戒が滲んでいる。
しかし男はそんな問いを受けても動じる様子を見せず、むしろ面白いものを見たように小さく笑った。
「名か........そういえば久しく名乗っていないな」
その声音は驚くほど穏やかだった。
まるで旧友との雑談でも楽しんでいるような自然さである。
だからこそ.......不気味だった。
男はゆっくりと視線を巡らせ、最後に俺へ視線を向ける。
その瞬間、右手の冥境の門印が激しく脈打った。
熱い。
焼けるように熱い。
皮膚の下で何かが目覚めようとしているみたいだった。
「久しぶりだな、レイン」
男はそう言った。
その一言だけで室内の空気が変わる。
クロードの目が鋭く細められ、セレフィーナも驚いたようにこちらを見る。
当然だ.......俺はこの男のことを知らない。少なくとも記憶の上では、な。
だが男の口ぶりは違った。まるで昔から俺を知っているみたいな言い方だ。
「俺はお前なんか知らねえよ」
警戒を隠さず答えると、男は少しだけ困ったように肩を竦める。
「それもそうか。今のお前はまだ思い出していない」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で嫌な予感が膨らんだ。
思い出していない。
その表現は、まるで俺が何かを忘れていることを前提にしている。実際、最近の俺の周囲では説明のつかないことばかり起きていた。
夢の中へ現れる銀髪の少女。
記憶に存在しないはずの光景。
そして冥境の門印。
全てが一つの線になりかけている。
だが、その線の先にある答えを知るのが怖い自分もいた。男は俺の表情を見て何かを察したのか、小さく笑みを深めた。
「安心しろ。今日は戦いに来たわけじゃない」
「その割にはずいぶん物騒な登場だったな」
クロードが冷たく返す。
男は苦笑した。
「君たちの結界は少し面倒だったからな。正面から来るより、こっちの方が早かっただけだ」
その発言に周囲の騎士たちが顔を強張らせる。
王城の防衛結界を「少し面倒」で片付ける人間など存在しない。
本来ならの話だ。しかし、男は冗談を言っているようには見えなかった。
だからこそ恐ろしい。
やがて男は再び俺を見る。
その視線には敵意も殺意もなかった。むしろ、どこか期待するような色さえ混じっている。
「レイン。お前はずっと疑問だったはずだ」
男は静かに言った。
「なぜ死神紋章が自分に刻まれているのか」
誰も口を挟まない。
男の声だけが部屋へ響く。
「なぜ婚約者に捨てられたのか」
俺の眉が僅かに動く。
「なぜ能力がないと蔑まれ続けたのか」
胸の奥がざわつく。
その話題は偶然では済まされない。男は確実に俺の過去を知っている。それも俺自身より深く......;
「そして」
男はそこで一度言葉を区切るのではなく、ゆっくりと歩きながら続けた。
「なぜ地下水路でお前と出会った時、私はお前の名前を知っていたのかということもな」
その言葉に会議室全体が息を呑む。
俺は無意識に拳を握った。
聞きたい。だが...........聞くのが怖い。そんな矛盾した感情が胸の中で渦巻いていた。
すると隣から温かい感触が伝わる。
セレフィーナだった。
彼女は何も言わなかったが、そっと俺の手へ触れていた。
大丈夫です。
言葉にはしない。けれど、その温もりだけで伝わってくる。
一人じゃない。
そう言ってくれているようだった。
不思議と心が落ち着く。
男もそれを見ていた。そして初めて、ほんの少しだけ真剣な表情になる。
「やはり似ているな.......」
その呟きにセレフィーナが眉を寄せる。
「何の話ですか」
男はすぐには答えなかった。
代わりに静かに視線を向ける。
その銀色の瞳が、まるで遠い過去を見つめるように細められる。
「お前たちはまだ知らない」
男の声はどこか寂しそうだった。
「自分たちがどれほど長い時間をかけて巡り会ったのかを.......」
その瞬間だった。
俺の脳裏へ再び銀髪の少女の姿が浮かぶ。
燃える世界、崩壊する巨大な門、そして涙を流しながら何かを叫んでいる少女........
その横顔が、一瞬だけセレフィーナと重なった。
ドクン、と心臓が跳ねる。
嫌な予感がした。
いや、予感ではない。
確信に近かった。
あの少女とセレフィーナは繋がっている。それも決して浅い関係ではない。
男はそんな俺の反応を見て満足そうに微笑む。
「どうやら記憶の扉が少しずつ開き始めているらしい」
そして次の瞬間.........男の纏う空気が変わった。
先ほどまで穏やかだった気配が一瞬で消え去り、代わりに底知れない圧力が空間そのものを軋ませ始める。
騎士たちは息を呑み、クロードが剣を構える。セレフィーナの瞳も自然と鋭く細められる。
男はそんな全員を見回しながら静かに笑った。
「だが残念だ。どうやら、ゆっくり説明している時間はなくなったらしい」
その言葉と同時に、王城全体が激しく揺れた。
轟音が響き、天井から砂埃が落ちる。
そして誰もが感じた。
王都の遥か北方。
旧封印遺跡の方向から、とてつもなく巨大な何かが目覚めようとしていることを。
男は窓のない地下空間の天井を見上げながら、どこか楽しそうに呟いた。
「俺は、“戦う”気などさらさらなかったのだよ。ついに、動き始めたんだ。お前らの人生を歪め始める、歯車がな.......」
その笑みを見た瞬間、俺は予想は漠然としたものから確信へと変化する。
この男は全てを知っているのだ。
俺たちがこれから向かう戦場も、セレフィーナが鍵と呼ばれる理由も、銀髪の少女の正体も、
そして——俺が何者なのかも.........
だが、その答えへ辿り着く前に、避けられない戦いが始まろうとしていたのである。
「さあ、楽しんでくれたまえ.........門主と鍵」




