第43話「人生を変える分岐点の始まり!」
その夜、俺はなかなか眠ることができなかった。
寮の部屋へ戻ってからも、窓の外に広がる月明かりをぼんやり眺め続けてしまい、気づけば時計の針はとっくに日付を跨いでいたのだが、不思議と疲労感はなく、むしろ胸の奥では得体の知れない高揚感と不安が静かにせめぎ合っていた。
理由はわかっている。
セレフィーナとの時間が、あまりにも幸せだったからだ。あんな顔をする奴だっただろうか、と何度も考えてしまう。
王女として誰よりも気高く振る舞い、周囲からは完璧な存在として見られていた彼女が、最近では俺の前だけで少し拗ねたり、照れたり、意地を張ったりするようになっていて.........その変化を目にするたびに胸の奥が温かくなる一方で、同時にどこか怖くもなっていた。
守りたいと思う相手ができるということは、その相手を失う恐怖も背負うということだ。
昔の俺は失うものなんて何もなかった。
だから無茶もできたし、自分が傷つくことなんて気にしたこともなかった。
けれど今は違う。
もしセレフィーナに何かあったら、もしあの男が再び現れたら.........
もし――。
ただ、その考えは自分の弱さを認めているようなものだ。セレフィーナはたしかに、俺の実力を認めてくれた。
なら、自分の実力を自分が信じなくてどうする。今、俺がやることは自分の力で何をできるのかを考え、“準備”することなのではないか。
そこまで考えた瞬間だった。
右手が熱を帯びる。
ドクン、とまるで心臓がもう一つ増えたみたいな鼓動が、冥境の門印から伝わってきた。
俺は反射的に身を起こす。
そして次の瞬間..........窓の外で、何かが光った。
いや、正確には光ではない。空間そのものが、一瞬だけ歪んだ。まるで夜空へ黒い亀裂が走ったみたいに........
「……なんだ?」
あの男が現れた時と同じ、嫌な予感がした。地下水路で感じた感覚に似ているおぞましい感覚。
世界のどこかに、本来存在してはいけない穴が開いたような違和感。
そして、それは一瞬で消えた。
だが.........消えたはずなのに、俺の胸の奥では警鐘が鳴り続けていた。
まるで何かが始まろうとしていることを、本能だけが理解しているみたいだった。
ーーー
翌朝。
学園の空気は妙にざわついていた。
廊下を歩けば生徒たちがひそひそと何かを話しているし、教員たちもどこか落ち着きがない。
ただの噂話ではない。
もっと切迫した何かだ。
教室へ入った瞬間、アイラが勢いよく駆け寄ってきた。
「レイン! 聞いた!?」
「朝一番から主語がないんだよ、お前は」
「いやいやいや、そんな場合じゃないって!」
珍しく本気で慌てている。
隣ではエリクまで眉を寄せていた。
「王都の北部で結界異常が起きたらしい」
「結界異常?」
俺が聞き返すと、エリクは頷いた。
「しかも一か所じゃない。昨夜から各地で小規模な異常が連続して発生してる。魔物の活性化も確認されてるらしい........」
その瞬間.........嫌な予感がさらに強くなる。
地下水路、あの男、門印........
頭の中で、それぞれが一本の線になりかけていた。すると、教室の扉が開いた。現れたのはセレフィーナだった。
しかし.........いつもと様子が違う。
彼女の表情は落ち着いているように見えて、その実かなり緊張していることがわかった。
そして、彼女の後ろには、一人の男が立っていた。
白銀の髪、鋭い眼光、王国騎士団総長.......
ーーークロード・アルシェリア。
教室中が一瞬で静まり返る。生徒たちが息を呑む音さえ聞こえてきそうだった。
当然だろう。
この国でクロードを知らない人間など存在しない。
数々の戦場を渡り歩き、単独で竜種を討伐したという逸話を持ち、現国王すらその実力を認める最強の騎士。
王都では子供向けの英雄譚にまでなっている存在だ。そんな男が学園へ来ること自体、異常だった。
クロードは教室を見渡したあと、真っ直ぐこちらへ歩いてくる。その圧力だけで周囲の生徒たちが無意識に道を開けていく。
そして.......俺の目の前で止まった。
「レイン・グレイハルト」
低く響く声。
教室中の視線が集中していた次の瞬間、クロードは意外な言葉を口にした。
「少し付き合え」
「……嫌だって言ったら?」
「引きずってでも連れていく」
即答だった。
俺は思わず額を押さえる。
すると横からセレフィーナが小さく笑った。
その表情が少しだけ柔らかかったので、どうやら悪い話ではないらしい。
だが.........クロードの次の言葉で空気が変わる。
「昨夜、北部監視塔が襲撃された」
笑みが消え、教室の空気も一気に張り詰めた。
それでもクロードは続ける。
「襲撃者は不明。ただし、現場に残されていた痕跡は一つだけだ」
そして、彼が懐から取り出した一枚の紙が机の上へ置かれる。
そこに描かれていた紋様を見た瞬間、俺の背筋が凍った。
冥境の門印。
それと酷似した黒銀色の紋章だった。
いや.........酷似ではない。
俺は知っている、見たことがある........
記憶の奥底で、燃える世界の中で、崩れ落ちる巨大な門の前で、
そして――。
静かに笑う、あの男の背後で。
「……っ」
頭痛が走り、視界が揺れたその刹那、脳裏に銀髪の少女が現れた。風に揺れる長い髪はとても美しく、その髪の間から見えた横顔はどこか悲しさを感じさせる。
何より俺が目を引いたのは、今まで言葉で何かいうことはあっても、彼女自身が動くことはなかったのにも関わらず、今はこちらに手を伸ばしている。
必死に何かを伝えようとしているのだ。
だが、声が聞こえない、届かない映像だけが砂嵐みたいに途切れていく。
――お願い。
最後にそう言った。
そんな気がした、気がしただけなのに、胸が締め付けられるほど苦しかった。
「レイン!」
セレフィーナの声で我に返る。
気づけば彼女が心配そうに俺の肩へ手を置いていた。心臓が跳ねるくらいには近い。けれど、今はそんなことがどうでも良くなる程に、俺の心は切羽詰まっていた。
俺は呼吸を整えながら紙を見る。
そして確信した。
ついに始まるのだ。
今まで散りばめられてきた全てが。
あの男、鍵、竜族の番、銀髪の少女、婚約破棄、死神紋章、冥境の門印..........その全てが。
一つの場所へ集まり、繋がり始めている。
クロードは静かに言った。
「王都北方にある旧封印遺跡が反応している」
その声には、珍しく緊張が滲んでいた。
「おそらく敵の目的地はそこだ」
教室の空気が凍り付く。
そして、クロードは真っ直ぐ俺を見る。
「レイン。お前の過去に関わる可能性が高い」
窓の外では、雲がゆっくりと月を隠していた。まるで、長く続いた日常へ幕が下りる合図みたいに.......
そして俺はまだ知らない。
その遺跡で待っている真実が、自分の人生そのものを根底から覆すことになることを.......




