第42話「幕を下ろす準備をしようか」
――俺って、幸せだな
そんな言葉が胸の奥へ静かに沈んでいった、その直後だった。
夜の中庭を吹き抜けた風が、不意に温度を失う。
それまで心地よかったはずの空気は、まるで誰かが見えない扉を開いたみたいに冷たく変質し、花壇へ咲く白い花々を揺らしながら俺たちの間を通り過ぎていった。
理由は説明できない、眉が自然とよるような、そんな嫌な感覚だった。
けれど、どこか.........地下水路であの男と対峙した時に感じた圧迫感と、どこか似ている。
世界のどこかで、本来動いてはいけない何かが動き始めたような、そんな得体の知れない違和感だった。
隣を見る。
セレフィーナも気づいたらしい。
少し前まで羞恥で真っ赤になっていた頬はすっかり落ち着き、代わりに一国の王女として幾度も修羅場を潜り抜けてきた、そんな人間特有の鋭い眼差しが戻っていた。
彼女は俺の袖を掴んだまま、静かに夜空を見上げる。
「……レイン」
「わかってる」
短く返す。
だが、それだけで十分だった。
次の瞬間.......
右手の冥境の門印が強く脈打つ。
ドクン。
胸の鼓動と重なるような振動が腕の奥から広がり、黒銀色の紋様が淡い光を放った。
最近増えている現象だった。
そして、そのほとんどが良い知らせだったことはない。俺は小さく息を吐きながら夜空を見上げる。
満月だった。
雲ひとつない夜空に浮かぶ白銀の月は異様なほど鮮明で、その光が学園の校舎や石畳を青白く染め上げている。
だが、その月を見た瞬間だった。
頭の奥を何かが掻き回し、視界が揺れた。
世界が遠ざかった次の瞬間には、俺は知らない景色の中に立っていた。
崩れた塔、焼け落ちた街、空を埋め尽くす赤黒い光、地平線の向こうまで続く炎.........
それは夢ではなかった。
ーーーー記憶だ。
けれど自分のものではない。そんな、矛盾している事実なはずなのに、心の奥底では妙に納得していた。
そして.......
月の下で立ち尽くす、一人の少女。
長い銀髪が風に揺れている。背中しか見えない、顔も見えない。
なのに.......
胸が締め付けられる。
泣きたくなるほど懐かしい。
会ったことなどないはずなのに、どうしてか俺はその少女を知っている気がした。
『――今度は』
声が聞こえる。どこまでも優しくて、どこまでも悲しい声だった。
『今度は、間違えないで』
その言葉を最後に世界が砕け散る。
気づけば現実へ戻っていた。
「レイン!」
セレフィーナの声が耳へ届く。
肩を掴まれていることに気づき、俺はゆっくり息を吐いた。
「また.......ですか……?」
心配そうな顔だった。
そんなセレフィーナの表情を見て、俺は苦笑する。なんて、優しいやつなのだろうか。自分のことでもないのに、ここまで親身になれるやつっていうのは少ないものだ。
「最近ちょっと多いな」
「今度は何が見えたんですか......?」
少し迷ったあと、俺は正直に答えた。
「銀髪の少女だ」
その刹那........セレフィーナの睫毛が、ほんの僅かに震える。
本当に一瞬だった。
本人ですら意識していないような小さな変化。俺以外の人間なら気にするどころか、気付いたかも怪しいほど動き。
けれど.........俺はなぜか、そのごく僅かの反応が妙に引っ掛かった。
何かを思い出しかけたような。
何かを知っているような。
そんな違和感だった。
だが、セレフィーナはすぐに首を横へ振る。
「そう……ですか」
それ以上は何も言わない。
だから俺も無理に追及しはなかった。
ただ、彼女の横顔を見ているうちに、別の違和感へ気づく。
最近だ、地下水路の男が現れてから......
鍵、番、門守。
そんな意味不明な言葉が出てきてから。
セレフィーナは時々、何かを考え込むような顔をするようになった。
俺に隠し事をしているというより........本人も答えを知らないまま、何かに気づき始めている。
そんな印象だった。
その時.........遠くから足音が聞こえた。
誰かが走っている。それも一人や二人ではない。複数人が慌てて駆けている音だった。
直後........学園の中央付近から轟音が響く。
地面が揺れた。
噴水の水面が大きく波打ち、木々に止まっていた鳥たちが一斉に飛び立つ。確実にその現象を俺たちはきたはずだった........
にも関わらず、次の瞬間にはまるで、普段と何も変わらないかのような、日常の一コマへと戻っていたのだ。
その異様な光景を前に、セレフィーナが俺の袖を強く握った。
「……嫌な予感がしますね」
その声に震えはないが、短い付き合いの仲だとしてもわかることがある。
彼女も恐怖をしている。
俺も同じだった。
嫌な予感しかしないはずなのに、右腕の門印だけは違う。まるで待ち焦がれていた何かが近づいてくることを喜ぶみたいに、黒銀色の光を脈打たせていた。
その感覚が妙に気持ち悪い。
俺の意思とは関係なく、身体の奥深くに眠る何かが目を覚まそうとしているようだった。
「レイン」
セレフィーナが俺を見る。
紅い瞳が月明かりを映して揺れていた。
「何が起きても……無茶だけはしないでください。これは、単にあなたのためだけじゃないんです。“私”のためにも、です」
少し前なら、彼女はこんなことを言わなかっただろう。自分のことより周囲を優先する奴だったから。
けれど........今は違う。
自分のためにも俺に無事に帰ってきて欲しい、その切望とも言える願いをぶつけてくれる。
その事実が妙に嬉しくて、思わず笑ってしまう。
「なんだよ、それ」
「笑い事じゃありません」
「大丈夫だって、安心しろよ」
「大丈夫じゃないから言ってるんです」
真面目な顔だった。
だから俺は少しだけ考えたあと、彼女の頭へ軽く手を置いた。
「ひゃっ」
小さな声が漏れる。
セレフィーナの顔が一気に赤くなった。
さっきまで、あんなに真面目な空気だったのに、あまりにもこいつの反応が可愛すぎる。
「レ、レイン!?」
「安心しろ」
俺は笑う。
「無茶する時はちゃんと一緒だ」
「それ安心材料になってません!」
思わず吹き出しそうになる。
その時だった........夜空の向こうで学園を覆う巨大結界の一部が、音もなく砕け散った。
月光を反射しながら崩れていく光の破片は、まるで空そのものへ亀裂が入ったみたいに見えた。
俺たちは同時に息を呑む。
そして、その崩壊した結界の向こう側から、黒い何かが立ち上っていた。
瘴気ではない、魔力とも違う。
もっと古く、もっと根源的で、世界そのものが拒絶しているような異質な力........
それを見た瞬間、頭の奥で、あの男の声が蘇った。
――見つけた。
――新しい門守。
嫌な汗が背中を伝うと同時に、今まで点だった違和感が、少しずつ線になり始めていた。
なぜ俺は婚約破棄されたのか。
なぜ死神紋章だけが忌み嫌われたのか。
なぜあの男は最初から俺を知っていたのか。
なぜセレフィーナは鍵なのか。
なぜ俺は、まだ見ぬ銀髪の少女の姿にここまで心を揺さぶられるのか。
答えはまだ見えない。
けれど.........確実に近づいている。
そんな予感だけがあった。
そして次の瞬間――。
俺の心の中の“危機感”が悲鳴をあげて叫び出す。
きっと、まだ本番ではない。相手も準備期間なのだろう。それならば、こちらも相応のことをさせてもらうとしようか。
その理由に、俺たち以外の人間は誰一人として違和感.........いや、このおぞましいほどの強さに畏怖の念を抱いてすらいないのだ。
「こっからが俺の実力の見せ所ってわけね........守りたいものを理解している今の俺は強いってのは俺が一番理解してる、こちらも幕を下ろす準備でもしようか」




