第39話「本当のお前を見てるのは俺だけだ!!」
——ああ。
もう絶対に、この人を誰にも渡したくない。
そんな感情を、自分の中へここまで強く刻み込まれたのは初めてだった。
大広間の中央で、セレフィーナは俺の袖を掴んだまま俯いている。銀糸のような髪がさらりと肩を流れ落ち、その隙間から覗く耳先は、火が灯ったみたいに赤く染まっていた。
普段の彼女なら、こんなふうに感情を露わにはしない。王族として、常に理性的であろうとする人だからだ。
けれど今だけは違った。
長い時間をかけて積み上げてきた“王女セレフィーナ”という仮面の奥で、一人の少女として心を揺らしている。
その事実が、どうしようもなく愛おしかった。
その言葉が零れ落ちた瞬間、大広間の空気が完全に止まる。
誰も動かない。
いや、動けなかったのだろう。
王族主催の公式な場で、王女自らが、あれほど真っ直ぐに好意を口にした。それも、かつて婚約関係にあった第一王子の目の前で.........
しかも相手は、“死神紋章持ち”と忌避されてきた異端。常識的考えれば、あり得ない話なのだ。
だが——だからこそ、その言葉は恐ろしいほど真実味を帯びていた。
セレフィーナの奥深さを感じさせる紅色の瞳には迷いが一切ない。それこそが、より現実味を増させているのだ。
取り繕った政治的な笑みでもない、王族として浮かべる仮面でもない........
ただ一人の少女として、どうしようもなく想いを募らせた相手を見つめる、あまりにも真っ直ぐな目だった。
その視線を真正面から受けた瞬間、アルヴェインの顔から余裕が消える。
「……は?」
間の抜けた声だった。さっきまでの尊大な態度が嘘みたいに崩れている。
それほど予想外だったのだろう。
自分が捨てたはずの女が、自分以外の男へ本気で惹かれているなど。
しかもその相手が、自分より格下だと見下していた“異端”だなどと........
アルヴェインの眉がひくひくと痙攣する。
「セレフィーナ……お前、正気か?」
低い声だった。
だがその奥には、隠しきれない焦りが滲んでいる。セレフィーナはそんな彼を静かに見つめ返し、それからほんの少しだけ俺の袖を握る力を強める。
まるで、もう離さないとでも言うみたいに.......
「正気ですよ」
凛とした声だった。
ついさっきまで羞恥で頬を染めていたのが嘘みたいに、その瞳には王女としての強さが戻っている。
けれど、その強さの奥にある熱を、俺だけは知っていた。
「以前の私は、あなたとの婚約を“責務”として受け入れていました」
静かな声音が、大広間へ澄んで響く。
「王族として正しくあるために、国のために、民のために……そう自分へ言い聞かせながら、私はずっと隣に立っていたんです」
貴族たちが固唾を呑んで聞き入っている。
アルヴェインの顔色は、目に見えてみるみる悪くなっていった。
「ですが.......レインと出会って気づいてしまいました」
セレフィーナが、ゆっくりこちらを見る。
その眼差しが、胸を焼くほど優しい。
「誰かと一緒にいるということは、本来こんなにも温かくて、安心できるものだったのだと」
アルヴェインの口元が引き攣っているが、セレフィーナは止まらない。きっとこれは、彼女がずっと言えなかった言葉なのだろう。
王女としてではなく、一人の少女として抱え込んできた本心。
「あなたといる時の私は、“完璧な王女”でなければならなかった。でも、レインの隣にいる時の私は、ようやく“私自身”でいられたんです」
その瞬間.......アルヴェインの表情が完全に崩れた。図星だったのだろう。
彼は一度も、セレフィーナ自身を見ていなかった。求めていたのは、自分の隣で微笑む完璧な王女。国民から称賛される、“理想の婚約者”という肩書き。
そこに彼女個人の感情など、最初から存在していなかった。
「……ふざけるな、よ」
アルヴェインが低く呟く。
その声には、今までの余裕も気品もなかった。
あるのは、子供みたいな苛立ちだけだ。
「そんな得体の知れない男に誑かされて、自分が何を言っているのかわかっているのか!?」
怒声が響く。
しかし、その刹那........俺の隣で、セレフィーナの空気が変わった。
ぴしり、と冬の湖面、いわば三尺の秋水といったところだろうか、そんな研ぎ澄まされた冷気が走る。
「……誑かされた?」
静かな声だった。
けれど、その場にいた誰もが息を呑む。
怒っている.......
普段、感情を抑え込む彼女が、今ははっきりと、目に見えるほど怒りを露わにしている。
「レインは、都合が悪い場面でも一度たりとも私を利用しようとなんかはしませんでした」
セレフィーナが一歩前へ出る。
銀髪がさらりと揺れるその姿は、息を呑むほど美しかった。
「王族だからと媚びることもなく、私の立場を利用することもなく、ただ一人の人間として向き合ってくれたんです」
その言葉に、貴族たちの視線が揺れる。
心当たりがあるのだろう。
この王都で、セレフィーナへ近づく人間の大半は、竜国の王女という立場へ媚びる者ばかりだった。
ーーーだが俺だけは違う。
最初から、ただの“セレフィーナ”として見ていた。そして彼女は、それを誰より嬉しく思っていたのだ。
「……あなたには、一生わからないでしょうね」
セレフィーナが静かに告げる。
その一言が、致命傷だった。
アルヴェインの顔が、目に見えて歪む。プライドを真正面から叩き折られたのだ。
しかも、大勢の貴族たちの前で。
「き、貴様ら……ッ!!」
怒鳴った瞬間だった。
——ぞわり。
空気が変わる。俺の右手で、冥境の門印が淡く脈動した。
黒銀色の光。
それが静かに滲み出した瞬間、周囲の貴族たちが一斉に息を呑む。
アルヴェインも反射的に後ずさった。
ほんの僅かに、だが...........確かに。
その瞬間を、俺は見逃さなかった。
「あれ?」
俺はわざとらしく首を傾げる。
「どうかしたのかな、王子様?」
にやり、と笑う。
「そんなにビビるくらいなら、最初から突っかかってこなきゃよかったのに」
ざわっ、と空気が揺れた。
アルヴェインの顔が真っ赤になる。
屈辱なのだろう。
今まで見下していた相手に、完全に主導権を握られている現状が。
「貴様……!!」
怒り任せに魔力が膨れ上がる。周囲の燭台が揺れ、床へ亀裂が走った。さすがは第一王子というべきか、実力自体は決して低くない。
だが——
結局はその程度だった。
地下水路で“あれ”を見た今となっては、あまりにも軽い、薄い、怖くない、畏怖の念を抱くなどもってのほかだ。
俺が静かに目を細めた、その時.......
「——そこまでだ」




